親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

第194回「親鸞教学の現代的課題Ⅴ―横超の大誓願―」⑮

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 「如来の作願をたずぬれば 苦悩の有情をすてずして 回向を首としたまいて 大悲心をば成就せり」(『正像末和讃』『真宗聖典』、503頁)という和讃は、如来の大悲はすでに成就しているということを語っている。その回向成就とは、一切の衆生を摂取せずには自己自身を成就できないという誓いを、浄土という場所を建立してそこに平等に一切の衆生を往生せしめ(往相回向)、同時にその場所の力で浄土に生まれた衆生には必ず利他のはたらきを具足させよう(還相回向)という内容なのである。このことは、本願自身はすでに衆生救済の方法とその成就の形式を見出したということであって、それに帰入するかしないかは、衆生の決断に任されている。そのことと、如来の二種回向に値遇するかどうかということが、深く関係しているのである。

 我ら煩悩具足の衆生は、現実の苦悩と不安に縛りつけられている。無限なる大悲を誓う如来とは、単なる人間の虚像に過ぎないのであろうか。しかしそれならば、人間の歩みが真実の明るみを求め続けて来たことは、一体何であったというのか。求道の歴史が呼びかける真実は、決して単なる虚偽や詐諂(さてん)ではあるまい。世間に言うところのいわゆる効き目がある神々は、人間の悲痛なる願望に応じた虚像であるのかもしれない。しかし、仏道が伝えようとする人間の暗闇からの開放とは、苦悩の衆生の迷妄の意識に取りついている病理ともいえる我執からの脱却ではなかったか。自我の執心こそが、一切の人類の迷妄の根源の病であることを、人間として初めて発見しそれからの脱却に成功したのが釈迦牟尼如来であった。

 この人間の根源の病を「無明」と名づけて、真実の明るみを明示したことから、教言が立ち上がったのである。ところが、いかに「頭燃(ずねん)をはらうがごとく」(『真宗聖典』215頁)に努力しても、この境位に到達できないという嘆きに対応して、本願の仏法が聞き当てられてきたのである。大悲の作願が、横超といわれる所以は、人間の迷妄の発想には徹底的に不可解なことを呼びかけているところにある。したがって、ここに教えられる「二種回向」とは、大悲の側から用意されている誓願の作用なのである。これは親鸞が苦心して語り明かそうとする本願力の内実なのである。

 この願力の前に、我ら凡夫は虚心に低頭して帰入することが、求められているのである。それを、回向との値遇と表現するのであろう。我らには出会うべき必然性があるとは思えない、にもかかわらず大悲は待ち続けていてくださったと、気づくほかないのである。大悲に帰して全面的に信順するのだが、有限なる凡夫にはその上で、さまざまの状況的な不条理が襲ってくる。ここに、有限の努力がかかるのだが、この問題はテーマを改めて考えてみたい。

(2019年8月1日)

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第193回「親鸞教学の現代的課題Ⅴ―横超の大誓願―」⑭

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 真実信心の発起とは、「信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す」(『真宗聖典』210頁)と「信巻」別序に押さえられているように、本願力をその根本の原因とすると、親鸞は言う。邪見の凡夫からは、真実の信ということはあり得ないと見ているからである。「煩悩具足と信知して 本願力に乗ずれば すなわち穢身すてはてて 法性常楽証せしむ」(『高僧和讃』「善導和讃」、『真宗聖典』496頁)と詠われるように、「煩悩具足」と信知することは、本願力を信ずることと表裏一体であり、自己の真実の相を知ることには、願力に出遇うことが必要不可欠なのである。

 しかし「煩悩成就のわれらが 他力の信」を得るということは、自力の妄念に動機づけられている我らには、難中の難である。この困難性を突破する機縁は、法蔵願心が我らの煩悩の身の足下に、「兆載永劫」の忍辱を持続することにあるのだ、と感知するところに『無量寿経』の物語が意味をもつのである。この因位のご苦労を、我が身のためであると「聞く」ところに、「我が名を聞け」という教えが響いてくるのである。

 この因位の本願の意味を聞き当てることにおいて、「聞其名号 信心歓喜」という言葉が、衆生における本願の体験の事実となる。これによって「如来の回向に帰入して 願作仏心をうる」(『真宗聖典』502頁参照)人が誕生するなら、その人は「他力」の大菩提心をいただけるのであるから、「十方の衆生」に普遍的にはたらき続ける法蔵菩薩の因位本願の大悲に帰依することになる。親鸞の表現の分からなさは、この大悲のはたらきがあたかも完全に現在の現行(げんぎょう)として、「利益有情」という事実を、凡夫から見えることのように語っていることである。

 そもそも「利他」とは、仏力にのみ成り立つというのが、親鸞の真実信心の視点である。全面的に衆生利益は如来の作用であると認めるのである。凡夫には絶対に煩悩具足の身で、仏道の「救済」を完遂することはできない。有限の関係において有限的に一部分の手助けはありうるが、仏道の済度(完全な仏の正覚を施与すること)は不可能なのである。「自力の回向をすてはて」(同前参照)るとは、この事実をしっかりと信受することであろう。

 その信心には、「煩悩具足と信知して 本願力に乗ず」(『真宗聖典』496頁参照)ることにより、本願が表している願力成就の報土の風光が、光明摂取の生活として眼前に開示されてくるのではないか。「如来の回向に帰入して」(『真宗聖典』502頁参照)と『正像末和讃』が語ることは、「如来の作願をたずぬれば 苦悩の有情をすてずして 回向を首としたまいて 大悲心をば成就せり」(『真宗聖典』503頁参照)との和讃のように、如来が大悲を成就していることを認めることである。それは現実の我らから、いかなる意味があることなのであろうか。

(2019年7月1日)

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第192回「親鸞教学の現代的課題Ⅴ―横超の大誓願―」⑬

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 法蔵菩薩の大悲心を自己一人がためと感受する信念は、「横超(おうちょう)の菩提心」であると親鸞は宣言する。個人に法蔵願心を受け止める信心が、「横超」であり、自利利他という大乗の菩提心の課題を内に包むというのである。このことを、天親の『浄土論』の「一心」の内容として展開しているのが、次の和讃である。

尽十方の無碍光仏 一心に帰命するをこそ 天親論主のみことには 願作仏心とのべたまえ(『高僧和讃』、『真宗聖典』491頁

願作仏の心はこれ 度衆生のこころなり 度衆生の心はこれ 利他真実の信心なり(同前

信心すなわち一心なり 一心すなわち金剛心 金剛心は菩提心 この心すなわち他力なり(同前

 こういうように、一心が「願作仏心」でありすなわち「度衆生心」であるから、「自利利他」を満足する心であり、それがすなわち菩提心であって、それは「他力」であると言う。これは、親鸞による天親の『浄土論』の受け止めなのであるが、もし『浄土論』を文字通りに読もうとするのであれば、一心は「大菩薩」の菩提心であり、それが天親菩薩の意志によるのだとも言えるであろう。しかしそれを曇鸞の『論註』を通せば、次の和讃のようになると親鸞は言う。

論主の一心ととけるをば 曇鸞大師のみことには 煩悩成就のわれらが 他力の信とのべたもう(『高僧和讃』、真宗聖典492493頁

 この和讃の背景には、親鸞が『浄土論』の五念門の主体について、深い疑念を感じていたことがあったのではなかろうか。もし、これが自力の菩提心だとするなら、「善男子善女人(ぜんなんしぜんにょにん)」(『真宗聖典』138頁参照)を主語として解義分が始められることには、いかなる意味があるのか。そして、観察門をくぐって五念門行を成就するときに、主語が凡夫たる善男子善女人から「菩薩」の名となって、「巧方便回向(ぎょうほうべんえこう)を成就」(『真宗聖典』143頁参照)すると説かれているのは、どういう事態なのか。そもそもなぜそれに先だって、「尽十方無碍光如来」に帰命するのか。こういう疑難の解決が、曇鸞の教示に出遇うことによって明白に与えられたということと、源空聖人の示してくださった「選択本願の念仏」による凡夫としての救済ということが、重なるのではなかろうか。それによって、煩悩成就の我らに成り立つ真実の信心に、天親の示される「自利利他成就」という課題が見通せたのではなかろうかと思われる。それにしても、次の和讃に出される問題をどう解決しうるのか。

如来の回向に帰入して 願作仏心をうるひとは 自力の回向をすてはてて 利益有情はきわもなし(『真宗聖典』502頁

 この「帰入」の主語が、我ら煩悩成就の凡夫であるのなら、「自力の回向をすてはてて」という信念には、どうやって到達できるというのであろうか。

(2019年6月1日)

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第191回「親鸞教学の現代的課題Ⅴ―横超の大誓願―」⑫

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 誓願による「横超(おうちょう)」とは、いったい何であるのか。善導大師の「共発金剛志〈共に金剛の志を発して〉」(『真宗聖典』146頁235頁)を親鸞は「信巻」に取り上げ、「金剛」を凡夫の信心のもつ大悲の性質である、と明確に語っている。個人に起こる信仰の性質が、「金剛」という不滅不壊の特質に適うのだという。それ自身が、なかなか凡夫たる我らの意識とは相応しにくいとも思うのだが、さらには、その信心が菩薩道の「利他」という意味をも保持するとなると、これは時を別にして死後のことにするとか、凡夫の「我執」が消失した状態とかなら、一応は考え得るということになるのではないか。

 ここに宗教的な「言葉」というものの領解の限界があると思われる。つまり、「利他」という課題を、個人の努力意識で解決し得ると考え、自力の執心が残存する立場で理解しようとするところに、どうしても消し去ることができない不透明さが出るということである。確かに、願作仏心(がんさぶっしん)・度衆生心(どしゅじょうしん)は、本来なら個人において発起する菩提心のありかたを語る言葉である。『無量寿経』の三輩段に出る場合の「発菩提心」も、一応は個人の発心だから、親鸞はこの段を十九願成就文の「発菩提心 一向専念 無量寿仏 修諸功徳〈菩提心を発し、一向に専ら無量寿仏を念じ、もろもろの功徳を修して〉」(『真宗聖典』44頁)であると読んだのであろう。だから、その考え方では、「臨終現前」の限界、すなわち自力の努力意識を超えられないと見たのである。

 大乗の菩提心を個人の意識と思考するのは、自力の菩提心のもつ癖ではないか。では、他力の菩提心とは、一体何を言わんとする言葉なのであろうか。そもそも、大乗の菩提心は、個人の意識の性質を突破して、大悲の法蔵願心においてのみ成立すると見たのが、親鸞の読経眼だったのではないか。「行巻」の一乗海釈で、源信の『一乗要訣』の結びの文を取り出し、「一乗は大乗なり、大乗は仏乗なり、…一乗はすなわち第一義乗なり」(『真宗聖典』196197頁)と述べ、その結語として「ただこれ、誓願一仏乗なり」(同前)と押さえられているのは、その証左ではないか。

 それによるなら、願作仏心はすなわち度衆生心であるという言葉も、一切衆生を平等に済度せずんばやまない法蔵願心の内容だと見ることなのである。これは、仏道の要求は、個人に発起するけれども、実は人類的な課題なのだということではないか。これと真に相応する態度が、「法蔵菩薩のご苦労」を自己一人のためであると聞き当てることなのではないか。親鸞の常の御持言に「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」(『歎異抄』、『真宗聖典』640頁)とあったと伝えられる。真に独立した個人として、法蔵願心の前に立つことは、実は「我ら」一切善悪凡夫人の人類的な課題なのだ、ということなのである。

(2019年5月1日)

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第190回「親鸞教学の現代的課題Ⅴ―横超の大誓願―」⑪

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 「横超の大誓願」について考察している。この言葉で表現している誓願による「横超」とは、一体何であるのか。

 「誓願による横超」が、誓願の「大」なることを表そうとするのであるなら、大乗の悲願たる一切衆生の平等の済度を表していることになる。平等の救いを「横」の方向で表すということを、親鸞は「竪(たて)」の方向が自力の努力を表し、横はこの自力を無効であると考察し本願他力に由るとする信心の性質を示しているのであるとした。

 さらに、「横」で表そうとする問題を、菩提心の問題と結びつけ、横超の菩提心と言われる。その親鸞の智見は、善導大師の「共発金剛志〈共に金剛の志を発して〉」(『真宗聖典』146頁)に由来するから、「共発」、すなわち共通性ないし普遍性ではないかと、筆者は考察した。このことから「横超」が、衆生に横断的に「超」の課題を恵むことであろうかと考えたわけである。

 このことを「衆生の別業(べつごう)による差異を突破して、共業(ぐうごう)の根底まで掘り下げた「共通性」を見据えて、呼びかけている」のだと領解した。これによって親鸞が「われ」と「われら」の問題を、同じ平面で領解している不思議さを同心できるのではないかと思うのである。例えば、「如来の回向に帰入して 願作仏心をうるひとは 自力の回向をすてはてて 利益有情はきわもなし」という和讃(『正像末和讃』、『真宗聖典502頁)がある。この和讃は、「願作仏心」という問題を如来の回向に帰入することによって解決するなら、「度衆生心」という利他の課題、すなわち「利益有情はきわもなし」と見えてくると言うのである。

 これは言うならば、自己の解決が同時に他己の解決になるということではないか。これは普通一般の考えでは理解できないところである。自己はどこまでも、他己とは異なって現存している。「われ」と「われら」では、利害が一致しないことが、この現世の事実なのである。自利は容易には利他にならない。だからこそ菩薩道は大乗の課題として、自利と利他を同時交互に成就することを願うのではないか。

 天親の『浄土論』では、五念門行の結果が「自利利他して速やかに阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を成就」(『真宗聖典』145頁)すると言われている。これを親鸞は『無量寿経』に返して、法蔵願心の成就だとされたのである。そして、その作用の一切を、「如来の回向」において衆生に施与するのだと言われるのである。この「如来の回向」に帰入するとは、一切の凡夫のはからいを突破して、大悲をもって呼びかける願力に帰入することである。そのときに、自己の救済と他己の救済が、同時に成り立つと信ずるのだと言うのである。

(2019年4月1日)

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第189回「親鸞教学の現代的課題Ⅴ―横超の大誓願―」⑩

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 ここで、今回のテーマとしている「横超の大誓願」という言葉について、考察してみよう。この語は、言うまでもなく親鸞の「正信偈」にある言葉である。その場所は、天親菩薩について詠(うた)っている箇所である。「光闡横超大誓願〈横超の大誓願を光闡す〉」(『真宗聖典』206頁)とあって、これによって親鸞は、『浄土論』の『願生偈』全体の意味を表しているのであると思う。

 『願生偈』の本来の名は『無量寿経優婆提舎願生偈』であり、『無量寿経』の天親菩薩による領解内容である。「優婆提舎」とは、仏説の十二部経の一つであるとされ、論議経と翻訳されている。そして、「光闡」も「横超」も『無量寿経』に出ている語ではあるが、偈文の中には、この言葉らしきものは見あたらない。それでは『願生偈』のどこがこの句の意味に相当するのであろうか。この問題と、先回考察したこと、すなわち、「横超」とは大悲の共発(ぐほつ)性であり、衆生に横断的に(共通に)、すなわち普遍的に行き渡っているということとが関連すると考えられるのである。

 本願を弘誓(ぐぜい)ともいう。あまねく衆生に呼びかけて、その願の内容が成就しないなら、自己自身の成仏を達成できないということで、「誓い」という意味を法蔵菩薩の本願がもっているのである。そしてその願の内容は、衆生を成仏(大涅槃を証すること)させたいということであり、平等にそれを成就させるために場所(浄土)を開き、いかなる障碍(しょうげ)があろうとも、そこへの往生を呼びかけようということである。そしてその往生の方法として、「五劫に思惟して」、「聞名」(仏名の意味を聞く)という方法を案じ出したのである。

 『無量寿経』は、法蔵菩薩の名において、十方衆生の救済を成り立たせる方法を案じ出している。この法蔵菩薩の物語は、一如宝海より法蔵菩薩が立ち上がって、志願を起こし修行して、阿弥陀仏と成ったのだと、親鸞は考察している。これこそが、諸仏如来の成仏の根底に存する志願であるから、このことを説き明かした『無量寿経』こそが、「如来出世の本懐」であり、「如来、世に興出したまうゆえは、ただ弥陀本願海を説かんとなり」(「正信偈」、『真宗聖典』204頁)であると、親鸞は見たのである。これによって、『歎異抄』第二条に語られるように、「弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。…親鸞がもうすむね、またもって、むなしかるべからずそうろうか」(『真宗聖典』627頁)ということも、出てくるのである。

 その願心を受けて『願生偈』では、二十九種の荘厳功徳を呼びかけ、「普共諸衆生 往生安楽国〈普くもろもろの衆生と共に、安楽国に往生せん〉」(『真宗聖典』138頁)という言葉で結ばれている。この「普く」は当面では、一切ということであろうが、ここに善導の「共発金剛志〈共に金剛の志を発して〉」(『真宗聖典』146頁)の「共発」と通じる意味があると思われる。そしてそれは、この世の衆生の別業による差異を突破して、共業(ぐうごう)の根底まで掘り下げた「共通性」を見据えて呼びかけているに相違ないと考えられるのである。

(2019年3月1日)

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第188回「親鸞教学の現代的課題Ⅴ――横超の大誓願」⑨

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 親鸞は、善導の「正受金剛心〈正しく金剛心を受け〉」(『真宗聖典』147頁207頁235頁参照)において、自己にたまわる信心が金剛の心であることを、その根拠の普遍性において論証した。そしてその論証が自己に発起する信心の本質を表しており、それゆえに、煩悩具足・生死罪濁である衆生を見抜いた仏智の大悲が、唯円の不安をも、親鸞自身に催す疑念をも突破する光明無量の力であると信じ得ることを明らかにしたのである。

 ここまで深く信じるのは、一切衆生における信心の同質性を明証するためであろう。大悲が一如宝海から立ち上がって、愚かなる一切の凡愚をすくい上げるための方策方便として、名号を摂取した。この大悲の物語を徹底して信受することによって、善導の「共発金剛志〈共に金剛の志を発して〉」(『真宗聖典』147頁235頁参照)なる「共発」の意味を知ることができた。

 大悲の共発性は、衆生の共業(ぐうごう)である生命力をみそなわし、人類の共業たる煩悩具足性を許容してこそ起こり得ることである。個人性にとらわれる凡夫の発想からは、相容れない概念なのである。人間同士の間で、たまたま同じような志向が起こったとしても、各自の業報の事情が移ろいゆけば、たちまちに別業の所感として異なった判断や異なった果報を感じてしまうのである。だから善導は、各発の菩提心は起こっても、「生死甚難厭 仏法復難欣〈生死はなはだ厭いがたく、仏法また欣いがたし〉」(『真宗聖典』147頁235頁参照)と言われているし、法然はそういう菩提心は不必要だと決定することができたのである。この善導の言う共発性を、大悲の物語が「十方衆生」と呼びかけて、その救済を成就するための「志願無倦〈志願倦むことなし〉」(『真宗聖典』27頁)であると教えてくださっているのである。

 この共発性は衆生に横断的に起こるものとして、『無量寿経』は「横截五悪趣〈横に五悪趣を截りて〉」(『真宗聖典』57頁)と言われたに相違ない。それを善導は「横超断四流〈横に四流を超断し」(『真宗聖典』146頁235頁243頁参照)と受け止めた。すなわち、四流を横さまに断ずるということと、五悪趣を横さまに截るということは、いずれも衆生の苦悩をみそなわして、大悲心をもって衆生を救済せんとする如来の志願なのだ、と。この悲願を深く信ずること以外には、「横さまに超越する」道はあり得ない。願心が超発するとは、衆生の共業の根底に呼びかけてくる悲願からの表現である。それを凡心の懺悔(さんげ)をともないつつ、深く聞き当てていく道のみが、この共発金剛志に凡夫が相応し得る在り方なのである。

 「共発金剛志」の共発性は、衆生に横断的に「欲生せよ」と呼びかけるから、横超と言うのである。衆生個人からは、この横超は自己の外から来るごとくに表現するほかないのである。より深い自己の自覚に至り得るなら、「根源的自己」において横超的な欲生を知り得るのかもしれない。

(2019年2月1日)

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第187回「親鸞教学の現代的課題Ⅴ―横超の大誓願―」⑧

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

Series 14 「親鸞教学の現代的課題Ⅴ―横超の大誓願―」

 親鸞はかくして信心において、大乗仏教の根本命題である「生死即涅槃」(『真宗聖典』194頁206頁参照)の実質に横超的に到達できることを、伝承された経論釈(きょうろんしゃく)の言葉によって明らかにした。それらによって、信心が大菩提心であることを明証したわけである。仏の正覚を一切の凡夫に開示するという課題を、仏の教言の伝統によって論理的に検証したわけである。しかし、これを自己の経験上に実証するには、いまだ十分であるとは言えなかったであろう。

 親鸞は「必至無上道〈必ず無上道に至らん〉」(『無量寿経』「三誓偈」、『真宗聖典』25頁)を要求する求道者として、これらの論証が単なる言語上の論理にとどまらず、自己の内面的な確証になることを求めて止まなかった。その要求に応答するものが、善導の「正受金剛心」(『真宗聖典』147頁207頁235頁参照)の語だったのではなかろうか。『観無量寿経』の「教我思惟 教我正受〈我に思惟を教えたまえ、我に正受を教えたまえ」(『真宗聖典』93頁)に対し、善導は「思惟は観の前方便」であると言い、「正受というは想心すべてやみ、縁慮並びに亡じて三昧と相応す」(真宗聖教全書1・447頁参照)と釈している。それを親鸞は、「「教我正受」と言うは、すなわち金剛の真心なり」(『真宗聖典』331頁)と解釈される。善導では、人間の意識活動のすべてが静まることを示して、自力の努力意識が消え去ることを要求するごとくであるが、親鸞はそれをまったく別の視座から「金剛の真心」(『真宗聖典』235頁)だと押さえるのである。

 信心が金剛であるということを、もし人間の意識を固定することの極地にある事柄だと考えるなら、それは生命活動の流動性を否定する言葉になるであろう。それでは凡夫が教えに相応することはまったく不可能になる。この金剛という語の宗教的意味を、親鸞はそういう方向においてはとらえなかった。どこまでも広大無碍の大悲にこそ、信心の真実性の根拠があることを信じたからである。たとえ煩悩具足の凡夫に発起するにしても、信心が真実であり金剛たり得るのは、如来の本願力に根拠があると見たのである。

 『歎異抄』第九条の唯円の問いかけに対しての親鸞の応答は、このことを見事に示している。「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」(『真宗聖典』629頁)と正直に唯円が自分の内面の弱さをさらけ出したのに対し、親鸞は、それを叱りつけるのではなく、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」(同前)と、それに同感しその感覚を素直に認められた。そして、その不安の感情は煩悩の興盛(こうじょう)であり、それを仏はかねてしろしめして「煩悩具足の凡夫」と呼びかけてくださっているのだから、むしろ頼もしく思うべきではないか、と諭している。本願を信受するのなら、まさに信心の根拠を本願力にこそ置くべきなのであると。

(2019年1月1日)

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 親鸞は「必至無上道〈必ず無上道に至らん〉」(『無量寿経』「三誓偈」、『真宗聖典』25頁)を要求する求道者として、これらの論証が単なる言語上の論理にとどまらず、自己の内面的な確証になることを求めて止まなかった。その要求に応答するものが、善導の「正受金剛心」(『真宗聖典』147頁207頁235頁参照)の語だったのではなかろうか。『観無量寿経』の「教我思惟 教我正受〈我に思惟を教えたまえ、我に正受を教えたまえ」(『真宗聖典』93頁)に対し、善導は「思惟は観の前方便」であると言い、「正受というは想心すべてやみ、縁慮並びに亡じて三昧と相応す」(真宗聖教全書1・447頁参照)と釈している。それを親鸞は、「「教我正受」と言うは、すなわち金剛の真心なり」(『真宗聖典』331頁)と解釈される。善導では、人間の意識活動のすべてが静まることを示して、自力の努力意識が消え去ることを要求するごとくであるが、親鸞はそれをまったく別の視座から「金剛の真心」(『真宗聖典』235頁)だと押さえるのである。

 信心が金剛であるということを、もし人間の意識を固定することの極地にある事柄だと考えるなら、それは生命活動の流動性を否定する言葉になるであろう。それでは凡夫が教えに相応することはまったく不可能になる。この金剛という語の宗教的意味を、親鸞はそういう方向においてはとらえなかった。どこまでも広大無碍の大悲にこそ、信心の真実性の根拠があることを信じたからである。たとえ煩悩具足の凡夫に発起するにしても、信心が真実であり金剛たり得るのは、如来の本願力に根拠があると見たのである。

 『歎異抄』第九条の唯円の問いかけに対しての親鸞の応答は、このことを見事に示している。「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」(『真宗聖典』629頁)と正直に唯円が自分の内面の弱さをさらけ出したのに対し、親鸞は、それを叱りつけるのではなく、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」(同前)と、それに同感しその感覚を素直に認められた。そして、その不安の感情は煩悩の興盛(こうじょう)であり、それを仏はかねてしろしめして「煩悩具足の凡夫」と呼びかけてくださっているのだから、むしろ頼もしく思うべきではないか、と諭している。本願を信受するのなら、まさに信心の根拠を本願力にこそ置くべきなのであると。

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