親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

第179回「親鸞教学の現代的課題Ⅳ―宿業を大地として―」㉓

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 我ら衆生には、各々に身体と環境(自然環境や時代社会など)が与えられている。この身体と環境を生きている各人の主体は、「宿縁」と言われているような背景を生きている主体でもある。この主体を、阿頼耶識(あらやしき)という。この主体に、この世を超えた「一如法性」への志願が目覚めることが、いかにして可能であろうか。そもそも、広義の環境(これを仏教では三界という)への強い関心に縛られているとも言える我らの意識に、この世の環境ではないこと(三界を超えた仏土)への関心などが芽生え得るのであろうか。いわゆる浄土教的表現で言うなら、煩悩具足であり罪業深重なる身をもつ我ら衆生に、純粋清浄なる仏土への願いなどが、発起するのであろうか、という問いである。

 この問いを自己の身における絶対の矛盾として苦しみ続けたのが、親鸞であった。親鸞にとっては、「真実信心」が自己に起こることは、不可能なることが現に眼前に発起してくる不可思議を、いかに了解し表現するべきかが問われていることでもあった。この問いをあらためて問い直したのが、曽我量深だったのだと拝察する。そして、親鸞が「如来の回向」、すなわち他力回向として本願力のはたらきを受け止めたことを、法蔵願心が我そのもの(曽我自身)になって我を救済するのだ、といただいた。そして、それを「法蔵菩薩の降誕(ごうたん)」であるとまで表現したのである。

 『無量寿経』の物語を、自己のための救済の事実表記であると受け止めたのが、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」(『歎異抄』、『真宗聖典』640頁)という親鸞の表白である。それと同じように、曽我量深にとっての法蔵菩薩とは、単に『無量寿経』の物語の主人公ではなく、自己となって自己を救済せずにはおかない大悲心そのものなのである。法蔵菩薩が個人の宿業を担う主体にまで降りてくださって、我を立ち上がらせている根本主体になってくださったことが、自己の信心なのだと受け止めたのである。

 このように、自己の背景に「遠い宿縁」を感得するとき、自己に乗っている無始以来の罪業の歴史が、その背後に寄り添ってきた大悲心それ自体のはたらきを呼び起こし、願心の回向が願力成就の事実として感得されることになる。これによって、嫌悪されてきた業報こそが、真実信心を呼び起こし金剛心として正受される縁に転ずるのである。ここに、宿業が信心の生活の大地となることを得る。まさに「転悪成善」が成立することを、露わにするのである。

(2018年4月1日)

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第178回「親鸞教学の現代的課題Ⅳ―宿業を大地として―」㉒

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 親鸞は、総序において本願名号の教法との値遇について、「遇獲行信 遠慶宿縁〈たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ〉」(『真宗聖典』149頁)と言われている。遇いがたき教えとの出遇い、そして不可思議の因縁による師源空との値遇。本願の信心の獲得には、不可思議の宿縁というべき背景があったのだ、という感激の表現なのである。これは単に親鸞個人に限られる事柄ではない。一切の群生海を代表して、難値難見なる凡夫に与えられる仏法との不可思議の値遇の因縁が表現されているのである。この不可思議の背景の催しなしには、本願力の現行(げんぎょう)に出遇うことはできない。

 この宿縁を蓄積する場所を、唯識論では「阿頼耶識(あらやしき)」(蔵識)と名づけているのである。しかし、この阿頼耶なる根本識は、さしあたって現象する迷妄の意識生活の根拠である。迷妄する意識自体は、六識として現行するのだが、その経験を常に蓄積し、また新たなる意識を生み出す根拠ともなるのが、阿頼耶識なのである。しかし、この迷妄の主体以外に、宗教経験の起こる場所もない。つまり「遠慶」なる迷妄の背景の場所以外には、難値なる宗教体験の起こる可能根拠もないのである。すなわち「宿業」の深い背景を場としてこそ、この困難至極の逆転の体験が起こるというべきなのである。本願の言葉の体験は、決して、いわゆる表層意識の了解で済ますことはできない。宿業の大地に深く染み通ってこそ、凡夫の迷妄を翻転(ほんてん)させずにはおかないのである。

 一方で、『無量寿経』の本願の主体は、法蔵菩薩の名として語り出されている。この願心は「一切衆生」の苦悩を観察して、この苦悩からの根源的な解放を課題として「五劫思惟」し、願心を吟味したと物語られている。この因位の願心の発起を、親鸞は「一如宝海よりかたちをあらわし」て法蔵菩薩と名乗ったと了解される。すなわち、宗教的な願心の発起は、仏陀の果上の大涅槃(一如・法性)から立ち上がり、その果徳を衆生に恵むべく、大乗仏教の物語となっていることを示そうとしているのである。法蔵願心が大悲であるとは、果上の功徳を一切の衆生に平等に恵まずにはおかないという志願であるということである。

 この物語を、自己にとっての救済上の必要不可欠の物語であると受け止めることが、聞法の目的ということになる。「「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし」と言われる。ここに、この物語の主体が、実は我ら一切衆生の主体たる「阿頼耶識」と成らずにはおかない、という曽我量深の主張が絡んでいるのである。

(2018年3月1日)

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第177回「親鸞教学の現代的課題Ⅳ―宿業を大地として―」㉑

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 阿頼耶識(あらやしき)は、一切の経験を蓄積して、しかもその「現行(げんぎょう)」は「無覆無記(むふくむき)」であるとされている。対する末那識(まなしき)は「有覆無記(うふくむき)」とされる。阿頼耶識が無覆であるとは、無漏(むろ)ではないが、覆蔽(ふへい)された(煩悩に雑染〔ぞうぜん〕された)在り方ではないということである。末那識の有覆とは、末那識が現行するときには、我痴・我見・我慢・我愛の四煩悩と常に相応するから、無記ではあってもいささか煩悩の気分があるというのである。しかし無記であるのは、前六識の現行とは異なって、判然と表面の意識上に煩悩の濁りが出るわけではなく、深層に静かに、寝ても覚めても、自我意識の根が息づいていることを表そうとしているからなのである。

 それに対して、阿頼耶識が無覆無記であるとは、主体自身の現行は、煩悩が起ころうとも善の心所(しんじょ)が起ころうとも、その作用を黙って蓄積熏習(くんじゅう)するのであって、それ自身に善し悪しの分別や選びをしないということなのである。だからこそ、浄法界(じょうほっかい)から等流(とうる)する教言の聞熏習も可能となるというわけである。

 聞熏習とは、第六意識の分別(いわゆる理性による了解)が繰り返されることによって、教法の理解が深まることである。それにしても、三界(さんがい)を超えた浄法界からくる意味を、三界に通用している言語空間に説き出されたことを、三界を生きている衆生が如実に了解することの困難性がある。それは、特に欲界にのみ執着する凡夫を導いて、その関心から脱出させるのが大変困難だということである。

 第八識が阿頼耶なる名を消すことができるのは、末那識が深層の自我意識を消されるときだという。聞法して理性が存在の空無を理解したとしても、それが一向に自我心を破る覚(さと)りの経験にまで至らない。いかに聞法修養を重ねようとも、真実の転識得智(てんじきとくち)の体験には到達できない。唯識観の修道の完成には、三大阿僧祇劫(さんだいあそうぎこう)を経る必要があると言われる所以であろう。自力の努力には長い時間が必要不可欠なのである。しかもそれは、この世の時間では間に合わないのである。つまり、凡夫にはまったく取り付く島さえないのである。

 天親菩薩(世親菩薩)が『浄土論』で「速得成就」(『真宗聖典』167頁参照)と言われるのは、『十住毘婆沙論』の龍樹が「この身において」(『真宗聖典』165頁)と言われることと重なっている。求道心の深い要求とは、今このときにおいて、三界を突破する核心が欲しいということである。この「速」に応ずる道は、自力の延長上にはない。その見極めが、本願力との値遇となっているのである。このことに曇鸞が深くうなずかされたのであろう。

(2018年2月1日)

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第176回「親鸞教学の現代的課題Ⅳ―宿業を大地として―」⑳

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 阿頼耶識(あらやしき)は、自己の一切の経験・行為を引き受けて、黙って新しい自己を生きていく。そこには、自己に与えられる因縁の善し悪しを選ぶことはない。運命的に襲ってくるような悪縁であろうと、自己の生命を危機に陥れるような事態であろうと、そこを生き抜くほかには自己自身があり得ない場合は、そのまま引き受けて生きていこうとする。その主体的存在を、好きだとか嫌いだとか、安全だとか危険だとか、善いとか悪いとかと分別するのは、末那識(まなしき)がからんだ第六意識の作用なのである。

 そもそも、この末那識という意識作用を名づけて阿頼耶識から独立させ、意識の構造を解明したのは、『唯識三十頌』の作者、世親菩薩であった。世親が学んだ無著菩薩の『摂大乗論』では、主体たる阿頼耶識を中心に、人間存在の意識的構造を解明し、迷妄の意識を転換して菩提を得るなら、生死の苦悩が転じて大涅槃となり、そのはたらきが浄土(十八円成)ともなるのだと語っている。

 そして、なぜ有漏(うろ)の主体が無漏(むろ)の自己に転換しうるのかという、「転識得智(てんじきとくち)」の成立に関しては、その根拠は教えに依るとしていた。教えの言葉は、純粋無漏の法性から慈悲によって生み出されるのだから、「浄法界等流(じょうほっかいとうる:清浄なる法界から質を変えずに流れ出る)」の教法だから、その聞法経験に依るのだというわけである。法界等流の清浄なる教言の体験が阿頼耶識に熏習(くんじゅう)するのだから、聞熏習の蓄積が雑染(ぞうぜん)なる主体そのものを転ずるまで修習するなら、転識得智が成り立つのだとするのである。

 しかし、世親は論理的にも経験的にも、それは成り立ちえないと考えた。もし雑染の質をもつ作用が阿頼耶それ自身であるなら、いかに清浄なる法界からの言葉であろうとも、それを雑染にしてしか熏習しないのではないか。例えば、どれほど親身な心から出た言葉でも、疑いでしか受け止めない人間にとっては、悪意の表れとされてしまう。純粋無漏の言葉といっても、不浄なる生活空間に入れば、不浄の言葉としてしか通用しないであろう。その不浄なる解釈で熏習することからは、決して雑染の質を転ずるような事件が起こるはずはない。

 世親は、おそらくそういう論理をくつがえすために、経験を熏習する主体それ自身は、煩悩に雑染された「現行(げんぎょう)」でなく、「依他起(えたき)」の作用の根拠として、有漏とも無漏ともなり得るような現行の構造を、阿頼耶識の現行・熏習とすべきだと考察したに相違ない。意識の深層に有漏雑染が現行しているからには、そのはたらきに「末那識」と名づけるべき独自性があり、その末那識の現行と熏習のなかで経験される一切が、限りない妄念流転の生活となるのだ。しかしその主体に、浄法界等流の教えが聞こえるとき、阿頼耶自身は黙ってその清浄性を熏習していくことができるのだ、と考察したのであると思う。

(2018年1月1日) 

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第175回「親鸞教学の現代的課題Ⅳ―宿業を大地として―」⑲

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本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 阿頼耶識(あらやしき)は、自己の一切の経験・行為を引き受けて、黙って新しい自己を生きていく。そこには、自己に与えられる因縁の善し悪しを選ぶことはない。運命的に襲ってくるような悪縁であろうと、自己の生命を危機に陥れるような事態であろうと、そこを生き抜くほかには自己自身があり得ない場合は、そのまま引き受けて生きていこうとする。その主体的存在を、好きだとか嫌いだとか、安全だとか危険だとか、善いとか悪いとかと分別するのは、末那識(まなしき)がからんだ第六意識の作用なのである。

 そもそも、この末那識という意識作用を名づけて阿頼耶識から独立させ、意識の構造を解明したのは、『唯識三十頌』の作者、世親菩薩であった。世親が学んだ無著菩薩の『摂大乗論』では、主体たる阿頼耶識を中心に、人間存在の意識的構造を解明し、迷妄の意識を転換して菩提を得るなら、生死の苦悩が転じて大涅槃となり、そのはたらきが浄土(十八円成)ともなるのだと語っている。

 そして、なぜ有漏(うろ)の主体が無漏(むろ)の自己に転換しうるのかという、「転識得智(てんじきとくち)」の成立に関しては、その根拠は教えに依るとしていた。教えの言葉は、純粋無漏の法性から慈悲によって生み出されるのだから、「浄法界等流(じょうほっかいとうる:清浄なる法界から質を変えずに流れ出る)」の教法だから、その聞法経験に依るのだというわけである。法界等流の清浄なる教言の体験が阿頼耶識に熏習(くんじゅう)するのだから、聞熏習の蓄積が雑染(ぞうぜん)なる主体そのものを転ずるまで修習するなら、転識得智が成り立つのだとするのである。

 しかし、世親は論理的にも経験的にも、それは成り立ちえないと考えた。もし雑染の質をもつ作用が阿頼耶それ自身であるなら、いかに清浄なる法界からの言葉であろうとも、それを雑染にしてしか熏習しないのではないか。例えば、どれほど親身な心から出た言葉でも、疑いでしか受け止めない人間にとっては、悪意の表れとされてしまう。純粋無漏の言葉といっても、不浄なる生活空間に入れば、不浄の言葉としてしか通用しないであろう。その不浄なる解釈で熏習することからは、決して雑染の質を転ずるような事件が起こるはずはない。

 世親は、おそらくそういう論理をくつがえすために、経験を熏習する主体それ自身は、煩悩に雑染された「現行(げんぎょう)」でなく、「依他起(えたき)」の作用の根拠として、有漏とも無漏ともなり得るような現行の構造を、阿頼耶識の現行・熏習とすべきだと考察したに相違ない。意識の深層に有漏雑染が現行しているからには、そのはたらきに「末那識」と名づけるべき独自性があり、その末那識の現行と熏習のなかで経験される一切が、限りない妄念流転の生活となるのだ。しかしその主体に、浄法界等流の教えが聞こえるとき、阿頼耶自身は黙ってその清浄性を熏習していくことができるのだ、と考察したのであると思う。

(2018年1月1日) 

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第174回「親鸞教学の現代的課題Ⅳ―宿業を大地として―」⑱

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本多 弘之

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 阿頼耶識(あらやしき)は、自己の一切の経験・行為を引き受けて、黙って新しい自己を生きていく。そこには、自己に与えられる因縁の善し悪しを選ぶことはない。運命的に襲ってくるような悪縁であろうと、自己の生命を危機に陥れるような事態であろうと、そこを生き抜くほかには自己自身があり得ない場合は、そのまま引き受けて生きていこうとする。その主体的存在を、好きだとか嫌いだとか、安全だとか危険だとか、善いとか悪いとかと分別するのは、末那識(まなしき)がからんだ第六意識の作用なのである。

 そもそも、この末那識という意識作用を名づけて阿頼耶識から独立させ、意識の構造を解明したのは、『唯識三十頌』の作者、世親菩薩であった。世親が学んだ無著菩薩の『摂大乗論』では、主体たる阿頼耶識を中心に、人間存在の意識的構造を解明し、迷妄の意識を転換して菩提を得るなら、生死の苦悩が転じて大涅槃となり、そのはたらきが浄土(十八円成)ともなるのだと語っている。

 そして、なぜ有漏(うろ)の主体が無漏(むろ)の自己に転換しうるのかという、「転識得智(てんじきとくち)」の成立に関しては、その根拠は教えに依るとしていた。教えの言葉は、純粋無漏の法性から慈悲によって生み出されるのだから、「浄法界等流(じょうほっかいとうる:清浄なる法界から質を変えずに流れ出る)」の教法だから、その聞法経験に依るのだというわけである。法界等流の清浄なる教言の体験が阿頼耶識に熏習(くんじゅう)するのだから、聞熏習の蓄積が雑染(ぞうぜん)なる主体そのものを転ずるまで修習するなら、転識得智が成り立つのだとするのである。

 しかし、世親は論理的にも経験的にも、それは成り立ちえないと考えた。もし雑染の質をもつ作用が阿頼耶それ自身であるなら、いかに清浄なる法界からの言葉であろうとも、それを雑染にしてしか熏習しないのではないか。例えば、どれほど親身な心から出た言葉でも、疑いでしか受け止めない人間にとっては、悪意の表れとされてしまう。純粋無漏の言葉といっても、不浄なる生活空間に入れば、不浄の言葉としてしか通用しないであろう。その不浄なる解釈で熏習することからは、決して雑染の質を転ずるような事件が起こるはずはない。

 世親は、おそらくそういう論理をくつがえすために、経験を熏習する主体それ自身は、煩悩に雑染された「現行(げんぎょう)」でなく、「依他起(えたき)」の作用の根拠として、有漏とも無漏ともなり得るような現行の構造を、阿頼耶識の現行・熏習とすべきだと考察したに相違ない。意識の深層に有漏雑染が現行しているからには、そのはたらきに「末那識」と名づけるべき独自性があり、その末那識の現行と熏習のなかで経験される一切が、限りない妄念流転の生活となるのだ。しかしその主体に、浄法界等流の教えが聞こえるとき、阿頼耶自身は黙ってその清浄性を熏習していくことができるのだ、と考察したのであると思う。

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第173回「親鸞教学の現代的課題Ⅳ―宿業を大地として―」⑰

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 一般の仏教の発想は、仏陀が指示する無為法(むいほう)、すなわち大涅槃へ自己の努力を尽くして至り得るとする。それに対して、親鸞は徹底的に自己が無能であり愚痴であり、その方向を阻害して止まない罪悪や煩悩を生きる存在であるという智見に立つ。

 例えば、天親菩薩の『浄土論』の五念門行や如実修行という事柄に対しても、一般の仏教の立場なら、自分で努力してこれに相応しようとするであろう。しかし、親鸞は曇鸞の「有漏の心より生じて法性に順ぜず。いわゆる凡夫人天(にんでん)の諸善・人天の果報、もしは因・もしは果、みなこれ顛倒(てんどう)す、みなこれ虚偽(こぎ)なり」(『真宗聖典』170頁)という押さえを厳しく自分に突きつけ続ける。自分には、法性に相応できるような可能性はまったく無いのだ、と。

 それなら、天親菩薩の『浄土論』は、いかにして衆生に可能となるのか。それを可能とするためにこそ、『無量寿経』の本願の教えが発起するのだ、自己の救済の必然性としてこの道理を取り入れるのだ。たとえ求道心がつまずこうとも、救済への深い要求は諦めきれない。むしろその深い要求をこそ、如来回向の欲生心と仰ぐのである。自分の思いよりも深く、大悲願心がわれらを救うべく歩み続けてくださっていたのだ、と。

 この存在論的な求道心は、表層意識に自覚される救済への要求よりも深く、意識の深層に静かに動き続けている。表面の意識には自覚されないけれども、何かの機会に、あたかも湖の底から吹き上がる湧水のように、われらの生活意識の隙間に垣間見えるものであろう。それが、われらには、生活の不安感となったり、欲求不満の愚痴となったりするのではないか。

 こういうわけで、天親菩薩が五念門を「善男子・善女人」の行のごとくに表しているものを、親鸞は『大無量寿経』に照らして、この行を法蔵願心の「兆載永劫」の行と仰いだ。たとえば、五念の第一の「帰命(礼拝門)」を、善導が「発願回向」であるとする釈を受けて、「「発願回向」と言うは、如来すでに発願して、衆生の行を回施したまうの心なり」(『真宗聖典』177〜178頁)と「行巻」に註釈されるごとくである。

 そして、「如実修行」については、曇鸞が「体、如にして行ずれば、すなわちこれ不行なり。不行にして行ずるを、如実修行と名づく。」(『真宗聖典』288頁)と注釈しているから、如実修行に相応することは、煩悩具足の凡夫にできるはずはなく、どうするのかと言うときに、曇鸞が「如実修行相応は 信心ひとつにさだめたり」(『真宗聖典』494頁)と示されているのだ、と見抜いたのである。

(2017年10月1日)

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第172回「親鸞教学の現代的課題Ⅳ―宿業を大地として―」⑯

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 仏教の存在(有)の見方は、われら凡夫の現実存在は限定されて与えられていると見る。その縛りつけられた現実の「有」を「諸有(しょう)」と言う。諸有とはしたがって、無明に覆われた迷妄としての存在なのである。この限定された存在の事実を苦悩の生存と感じる衆生を哀れんで、如来は本来帰るべきあり方を示そうとするわけである。

 われらの生存の闇は、実は存在の背景たる曠劫(こうごう)の流転によって、われらの存在(有)が規定されているところからきている。これを善導は、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」(『真宗聖典』215頁)と表現した。このことは、自身にまとわりつく纏縛(てんばく)を、自身の努力や意志で切り払おうとしても、その根底にまだ纏縛が付帯していることを示しているのである。この流転の歴史を自己の業報と感受するなら、出離生死と教えられる仏陀の教えが、その究極に到達することは自分には不可能事であることを知らしめられるのである。

 それなら仏陀が教えようとする存在の解放を、われらは諦念せざるをえないのであろうか。そこに、先に述べたような如来からの大悲の呼びかけが教えられてくるのである。われらには、それを晴らすことに絶望せざるを得ないような深い存在の闇がある。そこに大悲が存在の真理からのはたらきかけとして、われらに呼びかけ続けているとされる。

 この構造を、法蔵願心が一如宝海から立ち上がって、十方衆生を済度せんがために、本願を超発したという形式の物語でわれらを導こうとする。この物語を主導する法蔵菩薩とは、絶対に不可能であるような事態を、あえて自己に引き受けようとする大悲の願心を表現している。そのために具体的な方法を思惟して、一切衆生を済度するための場所をわが国土として象徴的に表現し、そこへの生まれ直しのごとき生存の根本的転換を呼びかけるのである。

 問題はその大悲の方式を、衆生が受け入れるかどうかにかかる。それは衆生が法蔵菩薩の本願に賛同するかどうかということである。そのために、法蔵菩薩が衆生の苦悩の事実のただなかに飛び込んで、兆載永劫に修行しようと発願するのである。このために、衆生の宿業となって衆生とともに歩み続けようとする。この法蔵願心こそ、われら一人ひとりの宗教的要求の本質である。われらの罪業深重の身となってわれらを摂取せんとする大悲こそが、真にわれらを解放するというのである。ここに、この物語は単なる物語ではなく、われらの宗教的実存を成り立たせる根源的な原理であるということになるのである。

(2017年9月1日)

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第171回「親鸞教学の現代的課題Ⅳ―宿業を大地として―」⑮

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 『無量寿経』の本願の主体である法蔵菩薩は、その本願において「設我得仏 十方衆生〈たとい我、仏を得んに、十方衆生〉」(『真宗聖典』18頁)と語りかけ、「若不生者 不取正覚〈もし生まれずは、正覚を取らじ〉」(同前)と誓っている。これによって、本願を誓願とも言う。そして、いわゆる機の三願(十八、十九、二十願)に通じて「至心信楽 欲生我国〈心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて〉」(同前)と呼びかけ、衆生がその願生心の事実を確認し、「往生」を成就しないなら、自分自身も満足して正覚を取ることはないのだと誓っている。

 この本願が呼びかける「欲生心」を、親鸞は「如来招喚の勅命」(『教行信証』、『真宗聖典』177頁)であると言われる。この実存的な意味は、人間存在にとっての宗教的要求とは、存在の根底に潜む自己回復の希求であり、それを本来性の象徴たる浄土からの「招喚」として呼びかけ続けるのだということであろう。衆生の本来性たる一如法性から、法蔵菩薩が立ち上がったのだと親鸞は了解している。そして、一切衆生を救済する方法を求めて、五劫思惟(ごこうしゆい)し選択摂取(せんじゃくせっしゅ)した事柄が、本願による浄土建立(じょうどこんりゅう)の志願と、その浄土へ欲生せよとの衆生への呼びかけなのである。

 この五劫思惟とは、五濁悪世(ごじょくあくせ)を環境とする衆生には仏道を求めても妨げが多いので、まずは環境を整備しなければなるまいと思惟し、そのために建立すべき浄土の内容を、本願を通して選び取り、さらにはそこへ「往生」するための方法を選択した努力と時間なのである。そこで衆生の往生のために選び取った仏名を称するという方法は、一切衆生を平等に救済しようとする大慈悲から起こっているから、「易」であって「勝」であると、源空は言われる。名号を称える行為は、他の方法に比べれば易しい。それは易しいことを条件にしなければ、落ちこぼれる衆生が多く出てしまうからであると言う。そして、仏名は一切の功徳を総合している名であり「万徳の帰する所」であるから、「勝」であると言われる。

 これで環境としての浄土と、そこへの往生の方法は完成した。しかし、迷妄深き衆生はこの大悲の選びを了解することができない。それでさらに法蔵菩薩は「兆載永劫(ちょうさいようごう)」に修行を続行したと語られている。この兆載永劫の修行は、先の機の三願に通じて呼びかけていた「至心…欲生」を衆生に具現するための努力であると善導が気づき、親鸞はそれによって「兆載永劫」の修行とは、衆生に真実信心を「回向成就」するための清浄願心の無倦(むけん)のはたらきを語るものであると見られたのである。

 そもそも『無量寿経』における浄土は、こういうわけで法蔵菩薩が大悲の願心によって選び取った場所であり、如来の側から一切衆生を摂取しようとする動的願心の表現なのである。

(2017年8月1日)

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