親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

第156回「親鸞教学の現代的課題Ⅲ―生まれ直しの思想―」⑳

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 親鸞は、報土の因果と衆生がその因果に接するための因果(新羅の憬興〈きょうごう〉は「如来浄土の因果」・「衆生往生の因果」〔『真宗聖典』182頁参照〕と言う)とを、結びつけるはたらきをも如来の大悲願心によることを明らかにされた。その如来の側からのはたらきを、「如来の回向」と名づけられた。如来の回向が成就することによって、衆生を大悲の願心のなかに摂する構造を明確にされたのである。

 その構造は、『大無量寿経』が説く本願の因果であることを、六巻の『教行信証』で明確に顕された。教は「本願を説く」ところの『大無量寿経』であり、行は『経』の体たる「名号」であり、信は本願より発起する信楽(しんぎょう)であり、証は願力回向によって「煩悩成就の凡夫」に開示せんとする「証大涅槃」であるというようなわけである。

 その「証巻」に標挙(ひょうこ)として提示されているのは、「必至滅度の願 難思議往生」(『真宗聖典』279頁)である。建長七年、親鸞八十三歳の直筆が残る『三経往生文類』には、この「難思議往生」を「大経往生」とも呼んでいる(『真宗聖典』498頁参照)。選択(せんじゃく)本願の因果によって、「生死罪濁の群萌」(『真宗聖典』280頁)に、流転の命を横さまに超える道を開示して、煩悩の生活を痛みつつも、「獲信見敬大慶喜(信を獲れば見て敬い大きに慶喜せん)」(「正信偈」、『真宗聖典』205頁)と言いうる道を開いたのである。

 今生(こんじょう)の生活がいかに流転情況の困難に満ちていようとも、この人生を賜ったことの根底には、一切の群生海に呼びかけ続ける大悲願心が地下水脈のごとく流れているのである。苦悩の深底に大悲摂取の願海がはたらいているのである。これを信受することができるなら、それが実は本願が成就するべくはたらいていたことを証明することになるのである。この信心は、願力回向の成就なのであり、徹底的に不実で罪濁の衆生からは起こりえない「信」なのであるが、それが不可思議の願力により、凡夫に発起すると言われるのである。この信心を天親菩薩が、『浄土論』で「一心」と宣言したのであり、その一心は「涅槃の真因」であり、本願成就の信なのだとされるのである。

 この信を「広大無碍の一心」(「証巻」、『真宗聖典』298頁)と言い、「為度群生彰一心(群生を度せんがために、一心を彰す)」(「正信偈」、『真宗聖典』205頁)とも言う。この信を獲ることができるなら「大慶喜」が起こるのだと言われる。「慶喜」とは「うべきことをえたり」(『一念多念文意』、『真宗聖典』535頁)と慶(よろこ)ぶのだと言う。人生の根本的な意味を見いだすことができたということだと言われるのである。これを宗教的な目覚めと呼ぶなら、この目覚めが生起するところに、新しい人生が生ずると言っても良いのであろう。これを信心において獲得する宗教的「生まれ直し」であると宣言するのが、親鸞聖人の「往生理解」であると言うべきなのではなかろうかといただくのである。

(2016年5月1日)

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第155回「親鸞教学の現代的課題Ⅲ―生まれ直しの思想―」⑲

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 親鸞は、「正信偈」で報土について、「報土因果顕誓願(報土の因果、誓願に顕す)」(『真宗聖典』206頁)と言っている。報土の因果を説くのは、『無量寿経』の法蔵菩薩が、無上涅槃の功徳を一切の群生海に施与したいと願い、その願心を誓願自身の因果として具体化するためだと見られるのである。その「正信偈」で「如来所以興出世 唯説弥陀本願海(如来、世に興出したまうゆえは、ただ弥陀本願海を説かんとなり)」(『真宗聖典』204頁)と述べる。さらに、この本願海の因果を「本願名号正定業 至心信楽願為因 成等覚証大涅槃 必至滅度願成就(本願の名号は正定の業なり。至心信楽の願を因とす。等覚を成り、大涅槃を証することは、必至滅度の願成就なり)」(同前)と表している。このことを『教行信証』「教巻」では「如来の本願を説きて、経の宗致とす。すなわち、仏の名号をもって、経の体とするなり。」(『真宗聖典』152頁)と押さえている。この本願の果報として、浄土を表すのである。

 浄土とは、その文字通り「因浄なるがゆえに果浄なり」(『真宗聖典』234頁)であって、因果が如来清浄願心の因果であり、清浄報土の救済は、完全に如来願心の因果であることを、繰り返して押さえ直し、それを求めるわれら凡愚は「極悪深重の衆生」(『真宗聖典』212頁)であるのだから、我等は一筋に大悲の本願海に帰すべきことを示されるのである。報土は第十二・十三願の光明・寿命の誓願に酬報した場所であり、これは本願の荘厳する世界であるから、天親は「願心荘厳」であると示される。

 この願心荘厳の報土に至るには、真実信心一つを因とすることを徹底的に教えてくださるのである。この信心の獲得について、親鸞はわれら凡愚の無力なることをいやと言うほど押さえる。そして、それを深く悲しんで立ち上がったのが、『無量寿経』の語る法蔵の願心であり、その悲願が「回向を首として大悲心を成就」するべく二種回向を表して、われらに行信を恵むのだ、と言われるのである。「弥陀の回向成就して 往相還相ふたつなり これらの回向によりてこそ 心行ともにえしむなれ」(『高僧和讃』、『真宗聖典』492頁)とはこれを示している和讃である。

 往還の二回向は、往相の回向について「真実の教行信証あり」とされ、その行信を因とし、その果としての真実証は「還相回向」の用を具すとされる。往相の回向は、如来の願心の内に「必至滅度」の因を蓄えて、「往相の回向ととくことは 弥陀の方便ときいたり 悲願の信行えしむれば 生死すなわち涅槃なり」(『高僧和讃』、『真宗聖典』492頁)という意味を表す。大悲回向の信(名号を具している)を得るなら、大乗仏教の究極的課題としての「生死即涅槃」に直結すると言うのである。信心は「証大涅槃の真因」(『真宗聖典』211頁)であるとも言われている。大涅槃を本願力の教えを通して、願心の報土として示すのであるから、信心は「清浄報土の真因」(『真宗聖典』240頁)であるとも示されるのである。ここに来たって、われらの課題は、難信たる真実の信心を獲得できるか否かに帰着するのである。

(2016年4月1日)

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第154回「親鸞教学の現代的課題Ⅲ―生まれ直しの思想―」⑱

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 親鸞が明らかにする「金剛の信心」(『真宗聖典』537頁参照)は、貪瞋煩悩(とんじんぼんのう)の生活のまっただなかに発起する。それは煩悩の身を障碍とせずに、凡夫の生活のところに法蔵願心が超発することだから、「能生清浄願心(のうしょうしょうじょうがんしん)」(『真宗聖典』235頁)と言われる。この願心の発起は、「横超(おうちょう)」であると示されるのである。

 われら凡心の発想は、これになかなかなじめない。常に自我の執心から、自分で発想することしか了解できないからである。如来の悲願が愚凡の衆生を場として発起するなどと言うことは、まったく理解不可能なのである。だから『無量寿経』は経典を結ぶにあたって、「難中之難 無過此難(難きが中に難し、これに過ぎて難きことなし)」(『真宗聖典』87頁)と確認し、親鸞は「正信偈」の依経分の結びに「信楽受持甚以難 難中之難無過斯(信楽受持すること、はなはだもって難し 難の中の難、これに過ぎたるはなし)」(『真宗聖典』205頁)と押さえられるのである。

 如来の大悲が名号を選択して、貪瞋煩悩を妨げとしない光明のはたらきを衆生に恵むことは、先回述べたように、煩悩の闇と大悲の光明が出遇う場を開くことである。この値遇(ちぐう)の場の事実が発起することを、本願成就文が「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜(あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せん」(『無量寿経』、『真宗聖典』44頁)と言う。この信心は、煩悩の生活主体たる凡心とは、まったく質を異にした清浄願心の回向成就なのであるが、まったく異質であるということは、凡心の延長上に思い描く清浄性なのではない。それを「横」と表現するのである。

 平面上で方向の異なる直線なら、かならずぶつからざるを得ないのだが、面が平行する平面上の線であれば、決して衝突することはない。この譬喩(ひゆ)のように、いわば、願力がはたらく面は、凡心の動く面とは次元を異にしているのである。凡夫の貪瞋煩悩の生活中に白道が発起すると表現されるが、その質がまったく異なることを了解するなら、白道を金剛心の発起(『真宗聖典』235頁参照)と親鸞が理解する意味が少しくうなずけるのではないか。

 この金剛の信心が、「清浄報土の真因」(『真宗聖典』240頁)であると言う。因果で信心の生活を表すのは、『大無量寿経』の本願の教示の特質である。それは、われら凡夫の生活と如来清浄本願の交差するところに、未来世の五濁悪世の群生(ぐんじょう)に語りかけようとする「本願」の救済の事実が生起するからであろう。しかし、この因果は凡夫の生活する平面の因果ではない。清浄願心の因果である。この因果は、本来正覚の智慧の内容を衆生に語りかけるための、教えが方便する因果であって、この世の時間を挟む因果ではない。迷妄の衆生の平面とあたかも交差するごとくに語るが、異次元の平面のことなのである。

 しかし、大悲の側から、凡愚を摂して大悲の場に触れしめるために、接点を「真因」として回向すると言われるのである。実は、この因はそのまま清浄仏土の果に直結しているのである。

(2016年3月1日)

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第153回「親鸞教学の現代的課題Ⅲ―生まれ直しの思想―」⑰

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 「金剛の信心」(『真宗聖典』537頁参照)が、貪瞋煩悩(とんじんぼんのう)の生活のただなかに発起するなら、無明煩悩が消失するのか。さにあらず。煩悩の身が生きている限り、凡夫であることは変わらない。「無無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」(『一念多念文意』、『真宗聖典』545頁)と言われるとおりである。この凡夫の事実と、金剛心が開く不退転の風光とは、いかなる関わりにあると了解するべきなのか。

 ここに、真実信心を得た凡夫は、単なる流転の情況ではなく「横さまに四流を超断」(『真宗聖典』235頁参照)するという面と、相変わらず生死の凡夫であるという自覚の面とが、重なっているように見られるのである。この重なりを処理できないから、死後に解決を引き延ばすような了解が出てしまうのである。この対立して相容れないような、「流転の闇」と「四流を超えた明るみ」の重なりが成り立つとは、いかなる事態であるのか。こういう問いを出しているけれども、そもそも矛盾する事態が重なっていると考えるのは、どこからその発想が来ているのか。それは、凡夫が自分の能動的体験(竪型発想)において、闇を超えうると考えるところから、矛盾を重なりだと考えてしまっているということではないか。

 この重なりの意味を受けとめるには、「横さまに」とあることの意味をしっかりとらえることが大事である。凡夫の無明性を照らし出し、煩悩具足と気づかせるはたらきを、凡夫を超えた真理それ自身からの光だと仰ぐ。そのことを親鸞は「横」という語で、本願力の教えの信心の事態であることを指示しているのである。してみれば、無明の身に気づくことは、願力からの光明のはたらきに出遇うことである。光明海と無明闇は矛盾なのではなく、信心の事実の内容なのである。凡夫であること以外に、願力の摂取を実感できるということはありえない。煩悩具足の自覚こそが、四流を超断させる本願力の信念の事態なのである。凡夫の能動的体験(竪さまの体験)なのではない。願力回向による信心の体験は、二種深信の構造で成り立つということだったのである。

 「竪超(しゅちょう)・竪出(しゅしゅつ)」という「たてがた」の発想が、衆生の常識である。この思考方式をひるがえすことが、困難至極なのである。竪の型からは、光と闇は絶対に一致しない。しかし、「横さま」にはたらく本願力は、凡夫の闇に超発的にはたらこうとするのである。これを信受するとき、闇のなかにあって、本願力の「破闇満願(はあんまんがん)」の功徳を感受するのである。横超(おうちょう)が十分に理解できないところに、横出という「他力中の自力」の執念が残存する。だから、ここには未だ「死後往生」の考えがこびりついている、と指摘されるのである。

(2016年2月1日)

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第152回「親鸞教学の現代的課題Ⅲ―生まれ直しの思想―」⑯

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 「金剛心」が、貪瞋(とんじん)煩悩の生活のなかに発起する。そのことを親鸞は、「能く清浄の願心を生ずる」(『真宗聖典』235頁参照)ことであると押さえられた。その元の善導の二河白道の譬喩(ひゆ)では、「能生清浄願往生心」を白道に喩えている(『真宗聖典』220頁参照)。親鸞はこのままでは、自力の「願生心」と金剛の信心との差異を明確にできないと見られたのであろう。この貪瞋煩悩中の「願往生心」が、如来の勅命たる回向の「欲生心」であることを判明にするために「能生清浄願心」と「往生」の語を外されたのに相違ない。

 この「欲生心」は、衆生に浄土に生まれることを欲せよという法蔵菩薩の呼びかけの心を表している。親鸞はこれを、法蔵菩薩が衆生に呼びかける「招喚の勅命」(『真宗聖典』177頁)であるとされた。この意欲は、人間存在の根底に、無明を破って流転を超え、存在の本来のありかたに回帰したい、という深層の意欲と見たのである。一切の苦悩の衆生が、存在の根源においては、生命の本来性を回復したいと切望しているのだということである。これが、如来の悲願から一切の衆生への「勅命」として受けとめられた「欲生」の意味である、と。

 したがって、これは凡夫の意識上の「為楽願生〈楽のためのゆえに生まれんと願ぜん〉」(楽しいと聞いてそこへ往きたいという願い〈『真宗聖典』237頁参照〉)ではない。「為楽願生」を、衆生の熱望のようにとらえると、そのために「頭燃を灸うがごとく」(『真宗聖典』215頁)に必死に求めても、思うがごとくには成就しない。これを親鸞は、「至心発願」または「至心回向」の「欲生」と見た(『真宗聖典』18頁参照)。これは『観無量寿経』や『阿弥陀経』が呼びかける理想的な清浄世界への願生であり、現世ではその果たる得生は獲得困難であるから、臨終来迎として往生を保証するがごとくに教えられているのである。

 親鸞は、本願による凡夫の救済には、如来の回向との値遇(ちぐう)が必要なのだと気づかれた。本願が成就するというだけならば、どうしてもわれら衆生と願成就の功徳との間に距離が残るのである。苦悩する衆生の上に本願が成就し、煩悩のただなかに法蔵願心がはたらき出る。それを衆生が信受するためには、願心自身が衆生へと「回転趣向」することがなければならない。そこには、衆生が徹底的に「極悪深重」であり「虚偽(こぎ)・顛倒(てんどう)」であることの自覚が待たれる。そのことと、無限大悲が回向せざるを得ないこととが、表裏一体なのである。大悲心が苦悩の有情をすてず「回向を首とする」とは、本願が衆生の上に具体的救済を現成せずんばやまないということである。

 回向に値遇することによって衆生に成り立つ人生には、煩悩中の「能生清浄願心」を生きるという意欲が与えられるのである。それを金剛の信心の獲得(ぎゃくとく)という。金剛とは、大涅槃を必定(ひつじょう)とすることの譬喩である。この必定は願力の誓う「必然性」である。曇鸞の言う「願力成就」(『入出二門偈』、『真宗聖典』464頁)の必然性である。「願もって力を成し、力もって願を就す」という因果の交互的動的関係である。

 この願力成就の必然性を信受する生活は、無明煩悩の流転の生活とは、まったく異質の生活空間を開く。そこに、親鸞は本来的存在へ確定された信念を生きるとは、「欲生心成就」による「正定聚不退転」の位であることを見いだされたのである。

(2016年1月1日)

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第151回「親鸞教学の現代的課題Ⅲ―生まれ直しの思想―」⑮

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 「金剛心」を獲得(ぎゃくとく)するとは、貪瞋煩悩の生活のなかに、「能く清浄の願心を生ずる」(『真宗聖典』235頁参照)ことであるとされた。親鸞はこのことを、『教行信証』「信巻」の「欲生心」についての釈において押さえておられる。「欲生」とは本願の「至心・信楽・欲生」の三心の三番目の言葉である。

 この言葉は、衆生に浄土に生まれたいと意欲せよという法蔵菩薩の呼びかけの心を表している。親鸞はこれを、阿弥陀如来の因位法蔵菩薩が衆生に呼びかける「招喚の勅命」(『真宗聖典』177頁)であると言われる。そしてこれを、大悲による「回向心」であるとも言われる。この回向心を衆生に巡らし向けることによって、衆生が求めて得られない清浄報土の功徳を、煩悩生活のなかに獲得させるはたらきが、信心として発起するのだと言われているのである。

 これによって、碍り多き罪濁の衆生に、金剛心が獲得されると言われるのである。しかし、このことが煩悩罪濁のただなかに起こるということは、煩悩の雲霧(うんむ)による闇の生活がなくなることではない。このことを先に、深層意識の末那(まな)識が大悲の光明に照らされるという意識の構造で考えようとした。聞熏習(もんくんじゅう)による清浄なる善の種子(しゅうじ)が阿頼耶(あらや)識に蓄積して、そこに夜昼常に隔てない無限大悲の作用が有限なる凡夫存在の根底に清浄の因の土台を構築するとき、深層の自我意識に「破闇満願」の事実が生ずるということなのではないか。しかし、煩悩具足の凡夫であるかぎり、縁に催される煩悩の表層意識上の現行は止むことがない。この矛盾構造の状態をどうして、「金剛心の獲得」と言いうるのであろうか。

 この難題を考察するにあたって、ここにひとつのヒントがある。阿頼耶識には、「不可知の執受(しゅうじゅ)と処と了」ということがある。「処」があるということは、生命は必ず「場」と共に成り立つということを表しているのである。つまり阿頼耶識は、身体と環境を自己の内容とする意識なのである。

 一方で、第十二願(「光明無量の願」、『真宗聖典』17頁)・第十三願(「寿命無量の願」、同前)が真仏土を成立させる願であると押さえた親鸞の意図からすれば、本願が成就して無量光(無量寿)を場と感受する主体を誕生させようということがあるのではないか。この真仏土を場とすることによって、煩悩具足の凡夫が、「深層意識」に光明海を感得するということが成り立ちうるということなのではないか。すなわち「回心」をとおして、新しい場が根源的主体を支える場になってくるということが起こるのではないか。煩悩罪濁を妨げとせず、それを摂して仏弟子たることを成り立たせる場の明るみが、根本主体を支えることに成るとき、「弘誓の仏地」(『真宗聖典』400頁参照)に立ち上がる生活を「雲霧之下明無闇〈雲霧の下、明らかにして闇きことなきがごとし〉」と宣言できるのではないかと思うのである。

(2015年12月1日)

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第150回「親鸞教学の現代的課題Ⅲ―生まれ直しの思想―」⑭

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 親鸞は、「横超の信心」(『真宗聖典』555頁)が「金剛心」であることを、善導の「共発金剛志」、および「正受金剛心」という語を手がかりに考察している(『真宗聖典』235頁参照)。そしてそのときに、「二河譬」にある「衆生貪瞋煩悩中 能生清浄願往生心〈衆生の貪瞋煩悩の中に、よく清浄願往生の心を生ぜしむる〉」(『真宗聖典』220頁参照)を取り出して、ここに金剛心が生起することを見いだしている。「能生清浄願心というは、金剛の信心を獲得するなり」(『真宗聖典』235頁)と。金剛とは、不変不壊であることの象徴であり、純粋無漏であるともされている。貪瞋煩悩の生活のただなかに、金剛心が発起するのだというのである。煩悩具足であることが、金剛心と矛盾すると感じるのが、われらの常識的感覚である。それを突破する質をもつ「こころ」が、われら凡夫に生起するのだと言われるのである。ただそのときに「願往生心」から「往生」の語を外している。このことの意味は別に考察したい。その「能生清浄願心」の具体的事実が、「雲霧之下明無闇〈雲霧の下、明らかにして闇きことなきがごとし〉」(『真宗聖典』205頁)を成り立たせるのではないか。

 煩悩生活の闇の根源を、大悲が洗い流していて、表層の煩悩生活は、縁によって生滅するけれども、その下には明るい地下層があるということである。このことは、深層意識に張り付いている倶生起の煩悩に、光明が差していることを明らかに自覚することではないか。末那(まな)識を具した深層意識とは、われらの意識生活を昼夜を分かたず支え続ける「阿頼耶(あらや)識」である。この阿頼耶識は生死相続の果をすべて引き受けて歩み続ける生命識である。一切衆生を射程にして兆載永劫に修行すると語られる「法蔵願心」は、この阿頼耶識の実存的意味を物語的に象徴するのであろうと思う。そうであるから親鸞が、「三恒河沙の諸仏の 出世のみもとにありしとき 大菩提心おこせども 自力かなわで流転せり」(『正像末和讃』、『真宗聖典』502頁)と和讃される意味を、この阿頼耶識の意味において考察できるのではないかと思う。

 永劫の流転を引き受けている阿頼耶識は、業の総報の果体であるとされる。この苦悩の実存たる業報の主体を、はたらきの場として引き受けるものが大悲の願たる法蔵魂である。しかし、無限の光明となろうとする法蔵願心が、この苦悩の主体のどこに「破闇満願」の事実を刻印できるのであろうか。

 思うに、阿頼耶識には「不可知の執受と処と了」ということがあるとされる。「不可知の執受」とは、「有根身(うこんじん)と種子(しゅうじ)」である。つまり、未来の可能性(種子)をはらみ、身体(機根を総合した身)をもっているということである。聖教を聞法した経験(聞熏習〈もんくんじゅう〉)はここに種子となって蓄積する。しかし、主体に熏習した種子が、そのままで光明を出すとは言えない。聞熏習の種子が現行するときは、表層意識のレベル(転識)に信心の明るみが出現することになる。しかし、表層に煩悩の雲霧が覆っていても、深層に光明の明るみがあるとはどういうことなのか。

(2015年11月1日)

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第149回「親鸞教学の現代的課題Ⅲ―生まれ直しの思想―」⑬

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 『無量寿経』が「法蔵菩薩」の名で語りかける願心は、われら凡夫の意識上には、ほとんど自覚的になってこない。これを自覚するのは、「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」(『教行信証』、『真宗聖典』149頁)と言われるように、永い聞法の因縁の積み重ねによる。聞法によって、教えに帰依することが自覚するための必要条件である。そして、自覚された願心は「横超の菩提心」(『真宗聖典』237頁)という意味をもつ真実の信心だと言われるのである。

 この本願の信心は、願心自身が聞法の縁を受けて、衆生の貪瞋煩悩の生活のただなかに「発起」する。それを「信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す」(『教行信証』「信巻」、『真宗聖典』210頁)と言われる。そして、それが発起するためには、「真心を開闡することは、大聖矜哀の善巧より顕彰せり。」()と、教法を聞法する縁が大切だと言われているのである。

 この自覚された願心に「横超」という質があると親鸞が確認するのは、善導が「共発金剛志 横超断四流」(『真宗聖典』235頁参照)と言っていることに依っている。「共発」の願心が「金剛の志」となるとき、「四流(生老病死)」を超断するのだ、と言われているからである。しかし、その「断」は、人間の意志や努力で「竪(しゅ)」に截断するのでなく、「横(おう)」に(本願力によって)截るのだという。この問題を、「信巻」で『無量寿経』の「横截五悪趣」(『真宗聖典』57頁243頁参照)の語と合わせて、信心が流転を超える菩提心であることを論証しているのである。

 この「横截」ということが、何を表そうとしているのかが、われらにはよくわからない。意識上の煩悩や生死の迷いを「截断」するというのなら、願力の信心をいただいても、相変わらず凡夫に煩悩具足の生活が相続することと矛盾する。しかし、願力に帰するとき、自力のもがきで苦しむ生活に、何がしかの開放感が与えられることも確かな事実である。名号は「よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたもう」と言われるのだから、無明が破られる事実がないなら、名号を信受したことになっていないということにもなる。ここをどう考えるべきであろうか。

 「すでによく無明の闇を破すといえども、貪愛・瞋憎の雲霧、常に真実信心の天に覆えり」(「正信偈」、『真宗聖典』204頁)と言われる。無明を破っても煩悩の妄雲が覆うという。これはどういう事態を言い当てているのか。この場合の「無明」は、「根本無明」であるとされる。浄土教で言うなら、自力の執心であろう。この根本無明が破られても、意識上の貪瞋煩悩は止まないというのである。このことは、意識上の煩悩と意識下の煩悩があるということである。意識下とは、意識の深層のことである。この質の煩悩を、唯識論では末那(まな)識に相応する「倶生起の煩悩」と教えている。生存と同時的に付与されている煩悩があるというのである。意識より深いところに巣くう闇があるということである。これは竪(たて)型の努力意識からは見えない。大悲に出遇うとは、この意識下の闇が晴らされるということではないか。

(2015年10月1日)

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第148回「親鸞教学の現代的課題Ⅲ―生まれ直しの思想―」⑫

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 人間の一人ひとりの実存は、「独生独死独去独来」(『無量寿経』、『真宗聖典』5960頁)と教えられているように、一回限りの独自の生存であり、近い因縁の人々に取り巻かれてはいても、苦境にぶつかるとき、結局は自分一人で自分の情況を引き受けなければならなくなる。そのとき、自分以外は他人であって、同情はしてくれても、人生を取り換えることはできない。それは親子や兄弟であってもどうしようもない。自己の深い実存情況の闇は、逃げ出すことのできない苦悩の繋縛なのである。

 この闇を徹底的に明るくするまで共に歩み、どこまでも一緒に闇を生きようとする願心を、『無量寿経』は「法蔵菩薩」の名で語りかけている。この願心は決して他人ではなく、自己の根源にささやき続ける「横超の菩提心」(『真宗聖典』237頁参照)なのだ、と親鸞は感得された。闇に苦しむ個我的個人の存在の根源に、この闇の繋縛を担い、どこまでも解放させようと歩み続ける大悲心があるのだ。個我からすれば、あたかも他人のごとくささやいてくるが、これは個我を根底から破って、「共発」する志なのだ。これを教主世尊は、『無量寿経』の法蔵菩薩の本願として説き出された。親鸞が『教行信証』「教巻」に「出世の本懐」(『真宗聖典』153頁参照)として取り出された経文には、仏弟子阿難が釈尊の「光顔魏々」たるお姿に驚いて、どうして今日はそのように輝いておられるのかと問いを出したとされている。根源からはたらく願心を説くことは困難至極であるが、それを説き出す見通しが立ったことを「光顔巍々」は象徴しているのであろう。

 法蔵願心が選択した報土は、「同一念仏無別道故〈同一に念仏して、別の道無きが故に〉」(『浄土論註』、『真宗聖典』282頁参照)と言われていて、大悲の願心の因果として、一切衆生が一如平等の境遇を受けとめることを願い続けていると言うのである。われわれの自覚できる意識より深層に、宿業を異にした衆生を平等に救い取りたいという大悲願心が、無始以来の迷妄の歴史とともに歩んでいると教えられるのである。この願が、『無量寿経』の教えとなって、無限なる「光明と寿命」を名の意味にもつ阿弥陀如来を信ぜよと呼びかけるのである。この願を信ずることは、この名を信ずることでもある。この名を思い起こす(念ずる)ときに、「平等の大道」(『真宗聖典』314頁参照)として一切衆生の平等の存在の故郷を与えようと言うのである。

 欲生心とは、この故郷からの勅命なのだ、と親鸞はいただいた。しかも、本願のお心に同心するなら、欲生心は成就するのだ、とされている。欲生心成就は「至心回向」を受けて、「願生彼国 即得往生 住不退転 唯除五逆誹謗正法〈かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得、不退転に住せんと。唯五逆と誹謗正法とを除く〉」(『無量寿経』、『真宗聖典』44頁)というお言葉になっていると言われるのである。

(2015年9月1日)

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