親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

第136回「親鸞教学の現代的課題Ⅱ―法蔵菩薩―」⑧

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 法蔵菩薩の願心が、本願を成就しようとして兆載永劫に修行すると語るのは、仏智見からすれば存在の本来性である一如平等(法性・真如・法身・涅槃等は同義語である)に、無始已来、それを忘れそのあり方に背き続ける凡夫を気づかせ、翻心(ほんしん)させ本来のあり方に帰らせようとするからである。しかし、いかに語りかけようと、どれだけ教えようと、愚悪の凡夫の自力の執心は揺らぐことがない。それを翻さずにはおかないという大悲心を、超時間的努力で語りかけているのであろうと思う。

 『無量寿経』「下巻」の「三毒段」に、「世人、薄俗にして共に不急の事を諍う。」(『真宗聖典』58頁)、「少長男女共に銭財を憂う」(同前)、「憂毒忪忪として解くる時あることなし。憤りを心中に結びて憂悩を離れず。」(同前)等とあるが、人生についての根本の智恵が無いから、この「憂毒」を解きほぐすことができず、「憂苦万端にして勤苦かくのごとし」(同前)であると言われている。この根の深い「憂苦」を背負っている凡愚の心中を解きほぐさずにはおかないという大悲が、「忍力成就」の修行を語りかけているのである。

 親鸞は名号の功徳は大海のごとくであるというが、その大海のごとき功徳を衆生に実感として受け止めさせるためには、この凡夫の「憂毒」を解毒する必要がある。このご苦労を法蔵願心の勤苦として感受することが、真実信心なのだということなのであろう。「自身は現に罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して出離の縁あることなし」(『真宗聖典』215頁)という善導のいわゆる「機の深信」は、この「憂毒」の深さの自覚的表白ではなかろうか。個人的な罪悪感の心理的表白では決してない。人間存在に張り付いている除くことのできない「憂毒」の自覚である。これと共に歩み続ける大悲を『無量寿経』は「法蔵願心」の物語として群生海に語りかけるのであろう。

 人類の怨念の歴史を翻すことは、永遠にできないと言わざるをえないほど、怨念の根が深いのである。しかし、いかに怨念が深く、憎しみの連鎖が激しくとも、これに苦しみこれに泣く人間を見捨てられないのが、大悲心なのではないか。兆載永劫と語るのは、無限の時間をかけてでも、衆生の憂毒を除かずには済ませないという大菩提心の呼びかけだと思う。この願心に同心することは、いよいよ深い人間存在の自力の執心を教えられると共に、これを翻すことが人生の最大の難事業でもあり、それを呼びかけ続ける大悲の勅命に招喚されるほかに道はないということではなかろうか。

(2014年9月1日)

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第135回「親鸞教学の現代的課題Ⅱ―法蔵菩薩―」⑦

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 迷没の衆生が永劫の迷いを翻して、自己の本来性(一如・法性)を回復しようとする意欲を、「菩提心」と言う。この意欲の大乗的課題は、自己の背景たる無始以来の無明沈淪(ちんりん)のあり方を翻すという個人的な困難性を克服するのみでなく、共業(ぐうごう)を生きる「衆生」(人の間を生きる人間存在、すなわち社会的存在)の罪業性を転じて清浄なる存在の本来性を衆生と共に回復できる方向を見いだすということである。すなわち、菩提心という自己の本来性回復の要求に「大乗仏教」の根本問題をもっていることである。すぐ了解できるように、この課題は無限の困難性の深みをもっている。この課題の大きさを海に譬(たと)えるから、「願海」ということが出てくるのである。

 この願海の内容を親鸞は『教行信証』「行巻」一乗海の釈において、「「海」と言うは、久遠よりこのかた、凡聖所修の雑修雑善の川水を転じ、逆謗闡提恒沙無明の海水を転じて、本願大悲智慧真実恒沙万徳の大宝海水と成る、これを海のごときに喩うるなり。」(『真宗聖典』198頁)と言っている。ここには、あらゆる人間の起こす善悪の業を本願海のうねりに巻き込んで、全存在を「大宝海水」に転じていく大悲のはたらきが、名号となった「大行」であることを表そうとする親鸞の視線がある。

 人間存在の行為の本質を善のほうからは、「雑修雑善」とし、悪のほうからは、「逆謗闡提恒沙無明」と言う。善には「川水」を当て、悪には「海水」と言っている。人間は自己の行為を「善」に意味づけようとするが、その本質は「雑修雑善」であり、川のように有限で小さいものでしかないということ。それに対して、起こしてしまう悪は、「恒沙無明」の背景から出てくるから、その罪業性は海水のように計ることのできない量であるということであろう。

 ともかく、人間を本来性へと翻すための道筋は、いわば無限に遠い道のりだということである。その人間の困難性の一切を摂して、一挙に「大宝海水」に転ずるはたらきが「名号不思議」の作用である。この不可思議の願力を、「願海」という喩えで示しているのである。「名号不思議の海水は 逆謗の死骸もとどまらず 衆悪の万川帰しぬれば 功徳のうしおに一味なり」(『高僧和讃』「曇鸞和讃」、『真宗聖典』493頁)という和讃は、この願海のはたらきが「大行」として現前する風光を語っているに相違ない。

 この大行の大功徳、すなわち苦悩する衆生の迷妄の事実を清浄なる本来性へ転換して現前の事実とすることはいかにして成り立つか。ここに法蔵願心の菩薩行の、「兆載永劫」の「忍力成就」のご苦労がある。これを表すのが、善導の三心釈だと親鸞は気づいたのである。

(2014年8月1日)

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第134回「親鸞教学の現代的課題Ⅱ―法蔵菩薩―」⑥

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 天親が、「帰命尽十方無碍光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)」(『真宗聖典』135頁参照)において「一心」を得たと歌う偈文に、親鸞は深くこころを動かされつつも、天親自身の解釈する解義分を通すなら、菩薩道を「五念門行」によって成就するとされる意図に、理解しにくい不透明なものを感じられたのではないか。それは大乗仏道の根幹に関わる、本願名号の信心と『華厳経』が説く菩薩道とがいかにして一致しうるのか、という問題でもあろう。すなわち、他力の信心と自力の修道の極みとが、いかなる関係になっているのか、ということでもあろう。

 「天親菩薩のみことをも 鸞師ときのべたまわずは 他力広大威徳の 心行いかでかさとらまし」(『高僧和讃』「曇鸞和讃」、『真宗聖典』492頁)という和讃には、曇鸞大師の視点によってこの難点を克服できた親鸞の謝念が表されているのだと思う。天親の造論の意趣の受けとめに、「釈迦の教法おおけれど 天親菩薩はねんごろに 煩悩成就のわれらには 弥陀の弘誓をすすめしむ」(『高僧和讃』「天親和讃」、『真宗聖典』490頁)という了解が必須であるということである。それは、本願力によって初めて菩薩道の難関を乗り越えられるということを、天親が身をもって明らかにしたということである。菩薩道の七地の難関は、いわば自力に立つ人間の限界だということなのであろう。この限界の自覚をくぐって、本願他力の信心が成り立つことを示したのである。

 大乗の志願は、一切の凡夫を包んで、必ずや成就せずにはおかない。『浄土論』解義分の「善男子善女人」の「五念門行」(『真宗聖典』138頁参照)を歩む菩提心は、『無量寿経』の教意に照らせば、法蔵願心の物語として示されているということになる。自力の限界を超えて、大乗仏道の真理そのものが一切衆生の主体となって歩まずにはおかないのだ、と。それを、「一如宝海よりかたちをあらわして法蔵菩薩となのりたまいて」(『一念多念文意』、『真宗聖典』543頁参照)と、親鸞は受けとめたのであった。

 『華厳経』に語られる菩提心は、個人の起こす自力の菩提心としてではなく、一切衆生を真理に導き入れる大願力において、初めて成り立つ真実の菩提心を語り出そうとするものに相違ない。その願力への信頼が、「煩悩成就のわれら」において、「一心」となって仏教と相応できることを示したのが、『浄土論』の一心だというのである。しかも、煩悩成就のわれらに起こって「広大無碍」という質を確保するのだ、と言う。「広大無碍」とは、無限大悲の功徳であって、われら凡夫の狭小なこころには、絶対に起こりえない。もし起こそうとするなら有限の限界にぶつかるしかない。それを突破して広大の功徳を凡夫のこころに満足成就するところに、「本願力回向」のはたらきをいただくのである。本願成就の事実は、一切苦悩の衆生をみそなわして発起する大悲回向のはたらきによって、凡夫に如来の功徳を恵むのである。有限からは通過しえない矛盾を、兆載永劫の修行と語られる願心において、凡夫に広大なる如来の功徳を恵むのだ、と言うのである。

(2014年7月1日)

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第133回「親鸞教学の現代的課題Ⅱ―法蔵菩薩―」⑤

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 天親の『浄土論』を菩提流支三蔵(ぼだいるしさんぞう)が翻訳した。後に『解深密経(げじんみっきょう)』の経名で訳される唯識思想の根本経典を、『深密解脱経(じんみつげだつきょう)』の名で翻訳し、天親の『十地経論』をも訳した菩提流支が、この『無量寿経優婆提舎願生偈(むりょうじゅきょううばだいしゃがんしょうげ)』(『浄土論』)を訳しているということに、すでに大事な意味があるのではないか。

 そして、この翻訳の会座(えざ)で菩提流支に出遇った曇鸞が、仙経を焚焼したと伝えられる回心(えしん)とともに、浄土教を受け取ったとされるのは、後に渾身の力をこめて注釈をした『浄土論』を受け取ったと考えることが自然なのだと思う。その『浄土論』を書いた天親は、唯識思想を兄の無著(むぢゃく)から受け継いで、『二十頌唯識論』を書いて一切唯識の旗幟(きし)を鮮明にし、さらには『唯識三十頌』にまとめ直した。その天親と同時代に北インドで学んで翻訳三蔵として中国に渡った菩提流支が、天親の『浄土論』製作の経緯について何らかの教示を曇鸞に与えたと言うことも十分推察されうるであろう。

 その曇鸞が菩薩道の難関にかかわって、天親がこの『無量寿経』による論を作ったのだと記述していることは、見逃してはならない事柄だと思うのである。

 七地沈空(ちんぐう)の難を乗り越えられるのは、「諸仏の加勧(かかん)」を受けるからだとされる。この諸仏の加勧ということと、「上に諸仏の求むべきを見ず」という難関に落ち込む求道の問題が、法蔵願心の教えに関係するのではないか、と思われる。沈空の難の本質は、自己の精神的な煩悶の根を菩薩道の修練で断ち切ったと感ずるところにある。自己の内なる迷妄の根を断ち切ったことによって、生きるところに起こる諸問題に少しも問題性を感じなくなる。これは、阿羅漢果(あらかんか)に至った小乗の聖者と同じ精神的境位であろう。確かに個人的には苦悩を超えたと言えるのであろうが、衆生の苦悩にまったく共感することが無くなるのである。

 法蔵願心が苦悩の衆生の救済を自己の課題として、「兆載永劫(ちょうさいようごう)」(『真宗聖典』27頁参照)に歩み続けて「志願無倦(しがんむけん)」(同前)であるとされるのは、この個人関心的救済への沈没を突き抜けていることを表している。

 『華厳経』が語る無窮極の求道は、諸仏が求めて出遇ってきた法性平等から出発している。換言すれば、大涅槃から出発している。法蔵菩薩も、一如宝海(いちにょほうかい)から立ち上がったのだという親鸞の表現には、諸仏の加勧と同じ地平の願心への共感が秘められているのではないか。

 曇鸞が「法性法身に由って方便法身を生ず。方便法身に由って法性法身を出だす。」(『真宗聖典』290頁参照)と表したことは、形ある荘厳となっても形なき法性を失わず、有限に手がかりを表して、少しも無限の本質を失わないという、大乗の菩薩道を支える求道心を、法蔵菩薩に仰いでいるということなのであろう。

(2014年6月1日)

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第132回「親鸞教学の現代的課題Ⅱ―法蔵菩薩―」④

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 曇鸞が菩薩道の限界を七地の菩薩における「沈空(ちんぐう)」にあると押さえたのは、唯識の問題に対応するなら、末那識(まなしき)相応の煩悩に関わる修道上のことがらなのではなかろうか。一応は、意識生活に起こる煩悩を対治して純粋な「自利利他」を実現できるところまで修道を積み上げたはずの菩薩が、「上に、諸仏の求むべきを見ず、下に、衆生の度すべきを見ず」(『真宗聖教全書』1・332頁)という状態に沈み込んで、脱出する緒を失うというのである。菩薩としては第七地に住してもまだ「未証浄心(みしょうじょうしん)」であるとされる。この菩薩道の難関のために、世親も龍樹も阿弥陀の願力に帰命したのだと曇鸞は言う。このことは、法相の学徒のなかに、しばしば浄土の教えに帰している求道者が出ていることにも関係するかもしれない。例えば、『無量寿経』を註釈した新羅の憬興(きょうごう)とか、法相の法位の『大経義疏』がある。

 ともかく、われら凡夫の煩悩的体質は、意識生活で気づきうるレベルよりずっと深いところにまで、完全に我執に汚染されているということである。だから、無着の『摂大乗論(しょうだいじょうろん)』が語る仏の浄土を、真に衆生の救済の場所とするためには、止むことのない悲願によってしか語りえない、と世親は気づいたのではないか。自力菩提心の雄渾な意志力では、笊(ざる)から漏れ落ちる雑魚のように、愚かな凡夫は置いていかれるというのであろう。元気がよい場合は、病人の不安や悩みが見えないように、倶生起(くしょうき:生命と同時に具わっている)の煩悩とされる末那識相応の煩悩は、普通に起きているときの意識レベルでは、決して気づくことができない質の煩悩である。いわば、深層意識の煩悩なのである。

 法蔵願心は、菩提心を超発するが、この菩提心の本質は無倦(むけん)であり止むことがないという。この超発性は、いかに衆生の闇が深くとも、必ずや光明を届けずには終わらない志願だということである。この願心に信頼せずにおれないということは、こういう努力意識や意識生活からもこぼれ落ちるような深い闇を、われらは引きずっているということがあるからではないか。

 この深層の闇をあえて逃げずに、ここにこそ光明無量の明るみを届けるのだというところに、阿弥陀の大悲願心が語り出されているのに相違ない。法蔵因位の無倦なる志願と、果上の広大なる無碍の光明を意味として、「名」にすべての功徳を読み込む教えが、親鸞の名号論である。名号に因位と果位を語ろうとするのは、無倦の法蔵の志願を保ちつつ、転成のはたらきを衆生に届けたいという『無量寿経』の体が、名号であるということを示そうとするからであろう。

(2014年5月1日)

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第131回「親鸞教学の現代的課題Ⅱ―法蔵菩薩―」③

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 衆生に本願名号を信受する事実が発起するには、その現行(げんぎょう)の因に、無限大悲の限りないはたらきがあるに相違ない。この因位(いんに)の超時間の願心を感受したところに、一如宝海より発起する法蔵菩薩の物語を説く釈尊の喜びがある。そしてこの説き出される根源の「法蔵」は、一切諸仏の「法蔵」でもある。一切諸仏も、そこから超発(ちょうほつ)する願心によって諸仏の位を確保するのである。このことを「仏仏相念(仏と仏と相念じたまえり)」(『無量寿経』、『真宗聖典』7頁)によって共感した教主釈尊が、光顔魏々(こうげんぎぎ)と輝くような歓喜(かんぎ)のなかから説法に立ち上がったのだ、と阿難尊者が感じたのではないか。阿難の問いを、自分自らの所感から出た問いか、と釈尊が問い返されたことの意味は、この願心を超発させる「法蔵」は、一切衆生の根源でもあるのだから、未だ仏陀によって印可されていない阿難(阿難は釈尊在世の間には、十大弟子がみな未来に成仏するであろうと許されたのに、唯一人、許されなかったらしい)であっても、光顔魏々の容顔に触れうるのだ、と教主釈尊が確信していたからではないか。

 ところで、「浄法界等流」(『摂大乗論』)の教言に出会うことで、聞熏習(もんくんじゅう)による清浄なる新熏(しんくん)の種子が生ずるとする『摂大乗論』の主張を受け継いだはずの世親が、なぜ、『無量寿経』の「優婆提舎(うばだいしゃ)」を必要としたのであろうか。実は筆者にはそれに先だって、なぜ兄である無着の『摂論』があるのに、その釈論を制作(『摂大乗論』世親釈論)するにとどまらず、『唯識二十論』やさらには『唯識三十頌』を作ったのか、という問題を感ずるのである。

 瑜伽行(ゆがぎょう)派の膨大な議論の蓄積は、『瑜伽師地論』に見ることができるし、それを整理して大乗の仏法として、二種の「縁起」によって仏説を略説できるといい、分別自性(じしょう)縁起と分別愛非愛縁起という名目を立てて説得しているのが『摂大乗論』である。分別自性縁起とは阿頼耶(あらや)縁起であり、分別愛非愛縁起とはいわゆる十二支縁起であるとしている。『摂大乗論』は、この第一の分別自性縁起に立って、大乗仏教の存在論を阿頼耶識によって「摂大乗」として基礎づけているのである。

 『成唯識論』が阿頼耶識の存在論証をするに当たって、この『摂論』からの引用をすることからも、『唯識三十頌』の主張が基本的には、『摂論』の受けとめであることはうなずける。それでも、わざわざ新しく『唯識三十頌』を制作するには、別の課題があったに相違ない。その必然的原因の一つに、末那識(まなしき)の独立の主張があるのではないか。『摂論』では、阿頼耶識の雑染分(ぞうぜんぶん)として考察されている問題を、独立の意識作用として見いだした。その末那識に相応する四煩悩(我痴・我見・我慢・我愛)こそが、根本主体(阿頼耶識)から現行する一切の経験を、有漏(うろ)雑染の気配に巻き込むことを主張するのである。この深層の煩悩の解決と、世親菩薩が『無量寿経』によって、「世尊我一心 帰命尽十方無碍光如来 願生安楽国(世尊、我一心に、尽十方無碍光如来に帰命して、安楽国に生まれんと願ず)」(『真宗聖典』135頁)と表白しなければ済まなかった求道の問題とが、深く関わっているのではないか。

(2014年4月1日)

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第229回「悲しみを秘めた讃嘆」⑬
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第228回「悲しみに秘めた讃嘆」⑫
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第228回「悲しみに秘めた讃嘆」⑫  我らの現実の生存において、宗教的実存を求めてこれを成就するとは、どういうことであろうか。本願の仏教では、阿弥陀如来の本願を信じ、自己の有限なる生存をそのままにして(煩悩具足と信知して)「浄土」に往生し、阿弥陀如来の苦悩の衆生を摂取せんとする志願に随順して衆生済度の志願を輔翼することである、と教えられている。この願心に随順することによって、阿弥陀如来と平等なる仏陀(諸仏)になる、と願われているのである。...

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第130回「親鸞驚愕の現代的課題Ⅱ―法蔵菩薩―」②

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 「煩悩具足の凡夫、生死罪濁の群萌」(『教行信証』「証巻」、『真宗聖典』280頁)が、正定聚(しょうじょうじゅ)に住することにおいて、大涅槃を必ず得られると確定する。このことを衆生が自分自身に確信すること、それが本願による救済の具体的事実である。このことはこの世の時間的な未来ではなく、本願が衆生に誓うという意味の未来、それを純粋未来と曽我量深師は言った。この純粋未来の確信には、生死流転に死んで、証大涅槃によみがえると表現されるような、本願力による大転換が含まれている。それについて曽我師は、「信に死し願に生きよ」と言われた。それは親鸞聖人にあっては、回向との値遇(ちぐう)と表現される事実の内面的意味として教えられるのである。

 信心には、「横截五悪趣(横〈よこさま〉に五悪趣〈ごあくしゅ〉を截〈き〉りて)」(『無量寿経』、『真宗聖典』57頁)という意味が具せられているとされる。それをまた「横超断四流(横に四流を超断せよ)」(『玄義分』、『真宗聖典』235頁)と合わせて、回向の信心がもつ菩提心としての意味とされる。純粋清浄なる一如真実が、不浄造悪の衆生に与えられるということである。衆生にこの事実が発起するからには、その現行の因には、無漏の本有種子(ほんぬしゅうじ)がなければならない。しかし、無始以来の流転生死の業を熏習(くんじゅう)として受けとめて、煩悩具足の生活をする衆生には、無漏種子の経験はありえない。不浄の身に清浄の種を蔵するとするのは、論理的には矛盾である。しかし、本願の信心の事実は、この論理的矛盾を超えて現行する。これは不可思議として捨て置くしかないのか。

 ここを「浄法界等流」(『摂大乗論』)の如来の教言を聞くということで、「聞熏習」による新しい熏習によって、菩提の種子が成立すると説明することもある。しかし、『無量寿経』は、この難関を突破するいとぐちを、一如法界から発起する意欲に見いだした。そしてその意欲を担う主体に「法蔵菩薩」という名を与えた。この願心の主体は、有漏(うろ)の経験しか積み重なっていない凡夫に、浄法界の経験を発起させたいという願心を誓うとするのである。

 『無量寿経』が物語で大悲願心を語るのは、この矛盾を突破する大菩提心の不思議さを言葉にするためである。論理的に矛盾することがらを、いわゆる論理で語れば行き詰まるほかない。物語を通して、「兆載永劫」という時をかけると表現するのは、矛盾を超える事実の背景を言い当てんがためである。本願力の事実は、具縛の凡夫に信心を発起するまではたらき続ける。われらの自覚においては、「微塵劫(みじんこう)を超過すれども仏願力に帰しがたし」(『教行信証』「化身土巻」、『真宗聖典』356頁)という悲歎とともに、「無慚無愧のこの身にて まことのこころはなけれども 弥陀の回向の御名(みな)なれば 功徳は十方にみちたまう」(「愚禿悲歎述懐」、『真宗聖典』509頁)という和讃のおこころが響いてくるのである。

(2014年3月1日)

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第129回「親鸞教学の現代的課題Ⅱ―法蔵菩薩―」①

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 大涅槃を衆生に確保することが、阿弥陀の本願の真の目的である。したがって、その本願を信受する衆生に、純粋未来という限定を通しながらも、かならず大涅槃をさとる智恵を開かずにはおかない。そのために「広く功徳の宝を施す」ための形が、「根本言」として選び取られた。

 この功徳の宝が、一如宝海すなわち大涅槃の表現であるということを、親鸞は法蔵願心が一如宝海より立ち上がって、法蔵菩薩となったからなのだと了解された。そして、大涅槃は法性法身さらには仏性などと同じことを表す概念であると了解し、これが「真実証」を開示して如来からの往相回向の必然の果として衆生に施与されることがらであることを表された。「至心信楽の願因(念仏往生の願因)によって必至滅度の願果をうる」という論理(『三経往生文類』468頁参照)、すなわち選択本願の因果とは、大悲回向をもって「生死罪濁の凡夫」に大涅槃を必定として確保する道筋を明示されたものである、と明らかにされた。回向によって大悲の因果が衆生に施与される、この如来と衆生との関わりを具体化するものが真実信心である。衆生は真実信心に立つなら、このこと一つで純粋未来を確信して如来大悲の光明海中に安んずることを得るとされたのである。

 このことを、少し切り口を替えて考察してみたい。煩悩具足の凡夫に真実信心が発起するということは、論理としても現実においても困難至極である。菩提の智恵は無明の闇を払うと説明されても、無始以来の煩悩罪濁の背景を受けるわれら衆生には、いかにして菩提を開くかが大問題なのである。煩悩と菩提は現実の衆生の上には、絶対に両立しない矛盾概念だからである。愚痴なる衆生には、菩提の智恵は画に描いた餅でしかない。これを突破するための論理が「他力回向」の教えなのではあるが、どうしてもそれが素直には受け止めにくいのである。

 この絶対矛盾を突き抜けるためには、衆生の根源に法蔵菩薩の因が、「本有種子(ほんぬしゅうじ)」として歩んできているという感得が必要不可欠なのではないか。法蔵菩薩の物語が「一如宝海より立ち上がる」ということと、煩悩罪濁の衆生の宿業の根源に、法蔵願心が身を潜めるようにして歩み続けていることが重なっている。これによって、衆生が本来、「一切衆生悉有仏性」という課題を与えられているということもうなずけよう。われらの煩悩生活の闇が深ければ深いほど、兆載永劫の法蔵願心のご苦労が感得されてくるのではなかろうか。この本有種子は、しかし、自我の根底に見いだされるものではない。自我は迷妄以外のなにものでもないからである。ではどう考えたらよいのか。

(2014年2月1日)

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