親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

第118回「自然の浄土」⑫

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 「自然」は、「おのずからしかる」と訓(よ)むのが一般的であろう。そう訓むなら、ものごとはひとりでに成るように成る、という存在理解のかたちを言い当てる言葉となる。これに対し親鸞は、「おのずからしからしめられる」と訓んでいる。そこには、一切の存在がわれら有限な人間の思いを超えて、すでに所与(与えられている)であるという存在理解があるのではないか。そして、そう訓むことで、自己を含めて一切の存在は、自己の思いを超えて、大いなる慈悲のはたらきとしてここに与えられているのだ、という他力的存在了解を示しているのであると思う。

 いわゆる自力の立場が、自己の思いのごとくに、存在を理解し変革し、利用していこうとするのに対し、他力的な存在理解には、自己自体も自己を取り巻く情況も、すべて深い因縁によって与えられているという智見がある。ここに、いかなる行為や経験も、遠い業縁の背景なしには起こりえないという『歎異抄』の表現もなされてくるのではないか。

 いわゆる近代社会は、科学文明といわれるような、高度の科学技術や精密な対象分析のうえに、合理的な生活空間を構築してきたのだが、そこに生きて集う人間が、他との絆を失い、次第に孤立化し、なぜか殺風景な表面的な意識層に浮き沈みしている。人間的自由という近代を動かしてきた根本概念が、親鸞が見たような他力的人間理解を失い、当面の自分が自由に生きているような錯覚に巻き込まれて、存在了解を皮相に止めてきたということがあったのではないか。自己の思うように生きるために、自己の背景に絡む因縁を切り離し、現在の自己を取り巻く関係をも切り捨てて、いったんは自己の思うままに生活空間を構築できるかのように思ってきた。しかし、その結果は、町が連帯を失い、家庭は崩壊し、個人が孤立して、無縁死というような現象が日常的になってきたのである。

 この孤立的空間を人間の生存空間にすることは、あまりにも「自然」的ではないのではないか。いわゆる自然界は目に見えない無限の生命連鎖で成り立っているといわれる。たとえば、富山湾でとれる鰤(ぶり)がおいしいのは、この湾に大量の微生物(プランクトン)が生きており、それを食する小魚が豊富だからである。そのプランクトンは富山湾に流れ入る黒部川の栄養から発生する。黒部の源流は広大な広葉樹林帯の国有林であり、大切に保護されており、その広葉樹の落葉の豊富な栄養が、黒部川に注いでいる。こういう連綿とつながる生命の連鎖があるのである。

 こういう私たちの生存を取り巻く無限の生命連鎖に、数十億年という時間の連鎖がかかわって、私たちが今生きている現在が与えられているのである。そこから、今の私たちの一挙手一投足が起こるのである。だから、自分で「しかるべくする」と思うけれども、実はそのように「しからしめられてしかる」のであると言うべきであろう。この存在了解を取り戻して、近代文明によって見失った生命連鎖を見直し、大きな生命連鎖を基盤とした人間の連帯を回復したいと切望するのである。

(2013年3月1日)

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第117回「自然の浄土」⑪

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 衆生の因位に植え込まれた本来性への意欲が、衆生を聞法の生活へと誘引する。この方向を教導するために、本来性を「存在の故郷」として象徴的に表現する教えが説き出された。この方向を物語として説くことを、諸仏如来が皆一様に賛同すると言われる(『阿弥陀経』)。その意味は「濁悪邪見の衆生」に一如法界への目覚めを、「恒沙の諸仏が勧める」ためであると言う。衆生は五濁悪世を環境とするので、一如法界が求めにくいからであろう。

 そのために、あたかも太陽が沈んでいく西方に「清らかなすばらしい空間」があるかのごとくに語りかける。これは存在の故郷を、衆生がそこで滞りなく仏陀の教えを聞く生活ができる環境を与えて、衆生を仏法へと方向づけていこうという教え方なのである。この方向の意味を親鸞は、「自然の浄土」と表現されたのである。この自然は、衆生に「自然のよう」を知らせんがための「阿弥陀」の浄土であり、それは「方便法身」(形無き法身を衆生に呼びかけるための形となった法身)であると、曇鸞大師が言われたのである。

 恒沙の諸仏とは、一切衆生の成仏の可能性(仏性)の反映であり、また一切衆生を限りない方便で育て導く縁を象徴するはたらきの表現なのではないか。和讃で「百千倶胝の劫をへて 百千倶胝のしたをいだし したごと無量のこえをして 弥陀をほめんになおつきじ」(『浄土和讃』、『真宗聖典』486頁)と詠われているのは、このことを暗示するのではなかろうか。無限の時間を通し、無量の人々の言葉を通し、種々各別の表現や言葉遣いを通しながら、弥陀の大悲を誉めていくのであるが、それでも十分に言葉で詠い表し尽くすことはできない、ということであろう。

 言葉を使う衆生を「舌」、すなわち口業で導くということに、方便法身の大きな意味がある。人間存在が言葉をもつことで、文化を生み出し文明を作り出してその恩恵を受けながら、同時にその言葉に縛られ苦しめられるのも人間の根本の問題である。この問題には、言葉でもろもろの存在の関係を言い当てる智恵が、必ず言葉がもつ抽象化と特定の意味づけへの傾向性を内在させていて、それに衆生が引き込まれてしまうということが付随しているということなのである。

 このことを大乗仏教は人間の根本問題が「法執」にあると見抜いて、我執からの解脱にのみ問題を限定したそれまでの仏教の教えの限界を、突破していこうとしたのであると思う。このことを親鸞は、言葉でおしえのかたちをしっかりと了解する大切さを繰り返して語りかけながら、最後の押さえには「義なきを義とす」という師法然の言葉を置いて確認しているのである。浄土への如来からの呼びかけを「勅命」とさえ言いながら、その浄土の本質は「方便法身」なのであり、「法執」を破った「自然」のありかたへの誘引であるということを忘れてはならないと思うのである。

(2013年2月1日)

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第116回「自然の浄土」⑩

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 諸仏如来の智慧という表現は、如来が諸仏として見いだされてくる場合の、大乗の智慧であろう。それは、個人の如来であった「シッダールタ」という歴史上の一人物を、偶像化して仰いできた仏教の歴史に、法身そのものは不増不減の「常住」なるものであるという智慧が生まれたことである。この問題は、「法身常住」を巡って掘り下げられた大乗『涅槃経』の中心テーマである。

 そもそも釈尊が如来となったということは、人間が真理から迷妄を生きている現世に衆生教化のために現れたという意味である。如から来たり如へと去る。如(真理)ならざる流転の現世を生きている衆生を如(真理)へ還帰させるために、如のままに如を失わずに、流転の場に出てくることを如来というのである。そして、衆生と共に如に去る。だから、タターガタを如来如去とも言うのである。

 そのとき、如来と衆生は、迷いから覚(さと)りへという智恵の開けにおいて、位を異にしているが、衆生の迷妄の位を転ずれば、如に帰りうるものと信頼している。だから、如に帰ったからといって、如が増えるわけではない。存在の本来性を取り戻したのであって、無いものが出てきたわけではない。妄念によって本来性を見失っていたものが、妄念を破って、本来性の自覚を取り戻すのである。だから、衆生はすべて仏陀でありえるような本来性としての「仏性」をもっていると見るのが、仏陀の智見である。したがって、「一切衆生悉有仏性」といわれるのは、大乗仏教の智恵から出てくる大切な視点である。その智見から、一切衆生は一切諸仏の因が与えられており、その因は果である仏陀の存在が未来からの影写のごとくに見えている。いわば、衆生の未来からくる本来性の予感に、果の仏陀が拝されているのであろう。

 未来から来る存在の本来性の予感とは、換言すれば、「必至滅度」の願心である。かならず大涅槃に至らしめようという法蔵願心である。大悲願心の深層の意欲において、衆生には「欲生心」が植え込まれているのだという信頼が与えられるのである。これを信じられるのは、回向の願心がはたらき続けているからである。このはたらきが必然性をもっているからである。本来性への必然的傾きをもっているからである。

 この本来が本来を回復せずにはやまない、という意欲を本願力として言葉にしてきたのが、『大無量寿経』の本願の物語なのであろう。だから、「一如宝海よりかたちをあらわして、法蔵菩薩となのりたまいて」(『一念多念文意』、『真宗聖典』543頁)という親鸞聖人の表現がでてくるのであるに相違ない。この本来性が、一切衆生のなかにうずくようにはたらく欲生心としての「勅命」だと信受するのが、親鸞聖人の「回向心」としての欲生心という意味であろうと思う。

(2013年1月1日)

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第115回「自然の浄土」⑨

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 存在の本来性を、衆生に知らせんがために、形なき法性を言葉に表現するということ。このことは、「弥陀仏のよう」とか「方便法身」となった報土のみに限られることではない。そもそも、一如とか涅槃とかを、衆生にとっての本来帰るべき本来性として教えるというところに、形を破って形を越えてはたらく、「なにか」を感受する人間の特質があるのではないか。それを「神」とか「ほとけ」というような言葉を通して、あたかも形となって存在の根源から作用するもののごとくに伝承してきたのが、神話化した宗教だったのかもしれない。シッダールタは、それが却って人間を縛るような実体的なものであるとして、その解体のために勤苦六年といわれる苦労をされたのではないか。

 その結果、生きることに傷つき苦しむ自分自身の根源に、自己を実体的なるものとして執着する心理作用があることに気づいて、これこそが人生を不安と苦悩に沈めている根本原因なのだと理解した。すなわち、自我の執着こそが、人間の根本問題なのだと見抜いた。そして、この自我の執着から解放された明るみを、深々と味わう智恵を「さと」ったと言われているのである。ここに、人間の帰るべき本来性があるのだとして、これを一切の人類が獲得すべき智恵として、この明るみを教えるべく言葉を紡ぎ出したのである。

 自己は自我なのではなく、因縁所生のいのちである。それを実体ある個我だと思い込むことは、無始以来の無明によるというのである。無明とは自我の実体化について、気づくことのない意識のありかたである。しかし、無始以来と言われるからには、その妄念は、ほとんど解体不可能なほどに深く自己の奥底にへばりついている。これを解体すべく、如来は種々の論理や言葉を駆使して教えられた。

 人間は、言葉と論理には、ある程度訓練によってなじんではいけるのだが、存在の奥底にへばりついている執念のような無明を引きはがすことはほとんどできない。そこに、仏教の歴史が、人間存在の本来性を求めて種々の方法を探し求め、真実に人間が解放される方向を実現すべく歩んできたのであろう。

 その苦悩の深さと妄念の強さを見通した諸仏如来の智恵は、仏教の求道の歴史の始原に、無明に気づかせるような、存在の本来性そのものの自己回復意欲のごときものを、「如来の本願」として説き出すという方法を発見したのではなかったか。『無量寿経』の教主が、「仏々相念」の喜びにおいて、「光顔魏魏」と輝いたことは、それに諸仏が賛同するような根源の意欲を見いだしたことを表しているのではないか。

(2012年12月1日)

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第114回「自然の浄土」⑧

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 『無量寿経』の法蔵願心が建立する浄土を、『浄土論』では「願心荘厳」(『真宗聖典』142頁)と表現する。『阿弥陀経』では「功徳荘厳」と繰り返されているが、願心によって荘厳された「功徳」のかたちを、二十九種荘厳功徳として表現しているのである。願心が衆生に一如の功徳を、大悲を通して場所として表しているというのである。

 この場所的表現を方便法身と曇鸞は言う。「法性法身に由って方便法身を生ず。方便法身に由って法性法身を出だす」(『教行信証』、290頁)と言い、「この二つの法身は、異にして分かつべからず。一にして同じかるべからず」(同前)と言う。極楽国土とも言われる阿弥陀の浄土であるが、それは法性法身(法性・真如・一如などと同義)を言葉に依(よ)って表現したものであり、それは形なき法性と一であるが、形を取った限り同じとは言えない。しかし、異なるものかと言うと、分けられないものなのだ、と言うのである。荘厳した限りでは、教えのために形を取っているのだが、形のない一如が、衆生のために形になったのであって、それを実体だと固執してはならないというのである。

 親鸞聖人が「権実真仮をわかずして 自然の浄土をえぞしらぬ」(『浄土和讃』、『真宗聖典』485頁)と和讃されているということは、浄土として教えられていることも、願心の形であってこの世に実体として実在することではない、ということであろう。教えであることを忘れて、言葉が語るように実体として実在するのだ、と固執しないと浄土教の立場が無いように思っているのは、まさに「権実真仮」を知らない立場なのであると言えよう。

 仏教の教えは、人間の問題が執着することにあることを、徹底的に指摘するところに特徴がある。すべての教えはどうしても、正しさとか真実とか言う言葉の下に、自己の主張する思想なり信念なりを固く執着していく傾向が強い。仏教は、極力その姿勢に潜む妄執を自覚させて、本来の自由な解放された存在の柔らかさを回復させるところに、大きな意味があるのではなかろうか。

 親鸞聖人が「自然法爾」を語る法語において、「みだ仏は、自然のようをしらせんりょうなり」(『末燈鈔』、『真宗聖典』602頁)と語ったとされることなどは、名にとらわれ、言葉を実体化してしまう凡夫を、おおらかな大悲のはたらきに溶かしてしまうような力を感ずるところである。願心が荘厳する場所的空間も、この自然法爾を知らせんがための方便なのであるということであろう。だから、自然の浄土というも、人間の自由でおおらかな存在の本来性を、取り戻させるための表現なのであろうと思うのである。

(2012年11月1日)

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第113回「自然の浄土」⑦

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 一如は、真如とか法性とか、さらには涅槃などとも同義語であると親鸞は見ている。これらの言葉を、「必至滅度の願」に応ずる真実証の内容であるとして、「証巻」の始め(『真宗聖典』279頁参照)に列記しているのである。ちなみに、必至滅度の願を異訳の『無量寿経』(唐訳・『無量寿如来会』)の第十一願に由って、「証大涅槃の願」(『真宗聖典』280頁)とも言われている。だから、滅度や大涅槃も、一如とか法性と同義語だとしているのである。

 この一如や法性は、「無為法」に属する概念であるから、不生不滅・不去不来であり、不変なることと定義される事柄である。親鸞は、本願の経説は、この不変なるものを、苦悩の闇に沈淪する衆生に触れさせるために、物語として立ち上がったものだ、といただかれた。だから、「一如宝海よりかたちをあらわして、法蔵菩薩となのりたまいて、無碍のちかいをおこしたまうをたねとして、阿弥陀仏となりたまう」(『一念多念文意』、『真宗聖典』543頁)と言われるのである。

 われらは、末法濁世の苦悩の有情であると言われる。時代が釈迦如来の在世からはるかに隔たって、もう釈尊教の教え方では、如来の境地を衆生が獲得(ぎゃくとく)することはできないのだ、と。これは時代を生きる機が「理深解微(りじんげみ)」(『安楽集』)であるとも言われるが、人間の理性がだんだん進歩するという考え方に対して、仏法に触れるための自覚からますます隔たっていくという人間観なのである。

 そもそも、人間の罪は「分別」にあるということが、大乗仏教の見方である。我執の奥に「法執」があり、煩悩障より深く、「所知障」、つまり菩提を障(さ)えるような分別がある。これを人間の深い罪だとするのである。理知がはびこり、分別でがんじがらめになっていく方向は、まさにますます末法濁世の方向なのである。現代の情況で言うなら、たとえば、情報化社会のなかで、いよいよ管理体制が厳しくなっていると言われる。国民総番号体制などが敷かれるなどとも言われる。こうなると、個人の自由はどうなるのか。なんだか、ますます窮屈で自己の生命の独自の豊かさが剥奪されていくような気がするではないか。

 たしかに、人間が時間をかけて、労力を費やして成し遂げるしかなかった事柄を、機械や器具で容易に短時間で仕上げられるようになった。それで、はたして人間にゆとりの時間がもたらされたのであろうか。耳にするのは、コンピューターが日常化して、ますます多忙になったという言葉である。新幹線網が充足して、日帰り出張になって、ゆっくり旅行気分に浸ることなど無くなったとも言われているのである。

(2012年10月1日)

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第112回「自然の浄土」⑥

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 仏教は因縁の道理を具体的に体感した事態を、「一如宝海」(『真宗聖典』543頁)と教える。「一如」は、凡愚の人為的な意識分別が作用する以前の、本来の自然な因縁そのままの、ありのままのあり方を仏陀の智慧が言い当てようとする表現であろう。因果の必然性のみの関係が、この世の存在を牛耳ってくるのだと考えることに対し、存在の事実は「縁」を待って、縁と共に動いていくものであることを語りかけるのである。因のみの内面にその特質を探っていくのでなく、いわば因を動かしてくる運命的な「縁」の面が因には付いているのだ、という智見の表現なのである。

 仏教(唯識)では、その縁に四種を数えている。四種とは因縁・増上縁(ぞうじょうえん)・所縁縁(しょえんねん)・等無間縁(とうむけんえん)である。それぞれの縁の意味を探ることは、この場では避けるが、ここの第一に「因縁」とあるのは、因には縁という面があるという考え方である。因それ自体ということはない、という指摘でもある。因と言える事柄が起こるのには、必ず起こるべき縁があるのだから、因それ自体が縁でもあるというのである。

 この思考法と、存在には必ず場所が必然的であるということとも、深く関わっているのではないか。「有る」ということは、空間的な場が与えられるという「もの」の「有」の条件だけでなく、すべての「こと」にも、必ずそれを取り巻く「関連」性が与えられている。関連を切って、「因」という事態があると考えるのは、仏陀の智見からすれば、「我見」なのである。つまり、存在の事実を分別で切り取ってくる考えで、「因」それ自身を設定しているということなのである。

 この「因」それ自身を設定する論理は、たしかに自己の外部の事柄、とくに生命を伴わない自然界のことについて、大変大きな部分を説明できる。これがいわゆる自然科学を成り立たせ、科学が発見した自然界の理法を応用した科学文明の便利さを作り出したのである。

 しかしながら、この論理は、具体的な一回限りの生命を今ここに生きている自己自身の事柄を納得しようとするときには、ほとんど役に立たないのである。なぜ、今ここに「自己」が生きているか、という自己を問う意識にとって、「因」それ自体を設定して、対象的に他物を説明する論理をもってきたのでは、求めている答えにならないのである。自己自身を「因」とするなら、「因」それ自身が起こるところに、運命的な縁があるという論理が入らないなら、切り取られた因の必然性は独断論的に決めつけるしかない。それは自己を問う問いの本質に、まったく届かない答え方なのである。

 「縁」を受け入れることによって、因たる自己は、意識できないほどの無数の縁によって与えられた「因」なのであり、無限の縁の支えによって成り立っている自己なのだ、ということが見えてくるからなのである。

(2012年9月1日)

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第111回「自然の浄土」⑤

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 願心が荘厳して語り出した場所(報土)を、「自然の浄土」と親鸞は表現する。『経』においては、本願が国土を建立すると語られ、その国土のもつ意味が「功徳荘厳」であるとされている。それを天親菩薩は『浄土論』で「願心荘厳」であるとした。大悲の法蔵願心が、衆生に仏道を成就させるために場を開き、その場のもつ力を表現した功徳が浄土の形なのだということである。

 さらに、曇鸞が国土の意味とは「方便法身」であるとしたのであるが、それは無形の「法性法身」から願心によって生じた有形の表現であるということである。それは「一如宝海よりかたちをあらわし」た法蔵菩薩の修行の功徳の場所的表現であるとも了解されるであろう。それには何か人為的な創作のようなイメージがあるのだが、それを実は人間が本当に帰るべき存在の故郷なのだ、と善導が語っていることをヒントにして、親鸞は「自然の浄土」という言葉に集約したのではなかろうか。

 真如とか法性と言われてきた無為法を、凡愚が共感できる事柄にするためには、どうすればよいか。そのことの工夫に全力を投入したのが、「超世無上に摂取し 選択五劫思惟して 光明寿命の誓願を 大悲の本としたまえり」(『正像末和讃』、『真宗聖典』502頁)という和讃の趣旨であろう。そして「正信偈」では「五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方(五劫、これを思惟して摂受す。重ねて誓うらくは、名声十方に聞こえんと)」(『真宗聖典』204頁)と表された。光明となり寿命となることで、色も形もないと言うほかないような無為法を、衆生の苦悩の闇にはたらくために、まずは光として表現し、その光がいかなる情況にある凡愚にも生きてはたらく慈悲であるために、「寿命」と表現しようとする。親鸞は、そこに「超世の悲願」の重さを感受したのであろう。

 そもそもわれわれが、「一如」に「自然」という語と関連する感覚をもつのは、人為を超えているからではないか。人為とは、人間理性が分別して、大自然の分限を人間の領分に取り込もうとするところに、そもそもの不自然さが生じてしまうのではないか。その人為の骨頂が「自然科学」なのではないか。科学にとって自然は研究対象であって、その種々の特質や法則を見いだしてくるなら、人間の意のままに変更したり利用したりできる事柄となるのである。

 この場合の自然は、人間の外側にあって人間理性の対象となる事柄なのであるから、まさに人為の操作の対象となるのである。この人為的な自然操作が、近代の文明社会や世界秩序を作り出してきたのである。この人為による自然操作が、人間存在の本質にとって真理に適っていると思い込んで「進歩発展」していくことは善であるとして、ほとんど無自覚的に順応してきたのが、昨今のわれらの生き様だったのではなかろうか。この感覚にとって「自然の浄土」という表現は、はるかに遠い星からの微光のように感じられるのは、当然なのであろう。

(2012年8月1日)

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第110回「自然の浄土」④

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 環境としての浄土を、主体の外側に存在するかのごとくに教えて、それを衆生に要求させる教え方、それが浄土教の教相である。それを衆生は自己の体験の中にいかに定着できるか。それが『観経』の定散の努力の教えの意味なのであろうと思う。ところが、この定散自力の努力での浄土への往生を、親鸞は「双樹林下の往生」と位置づけた。人間の有限な努力で、無限の大悲が建立する願力成就の報土には、往けない、つまり相応しないというのである。だから、肉体の滅亡を待って、彼土に生まれるのだ、と教えているのだと。そうしてみると、世間生活をしている肉体の外側に感覚されている「浄土」とは、所詮「方便化身土」なのだということになるのであろう。だから、それを求めても、本当は獲得できる世界ではないということなのである。それはつまるところ、人間の現状の苦境を厭う逃避心の投影された影に過ぎないからなのである、と親鸞は押さえるのである。

 それでは、願心が建立する浄土とは、いかなる意味をわれわれに呼びかけているのか。これはもともと一如法界を、願心を通して「荘厳」したものであると言う。報土とは法蔵願心の荘厳した世界なのである。すなわち、色もなく形もない法性を、衆生の意識に呼びかけるために象徴的に表現されたものなのである。この荘厳された形をどこでわれわれは感受しうるのか。それを親鸞は「真実信心」の内なる意味として了解しようとされている。すなわち、「欲生心」として選択本願が誓っている意味が、われらの信心の内に回向心として与えられる。その回向心の内容(相分)が荘厳なのだと、明らかにされているのである。「願心荘厳」といわれているのだから、願心の内面なのだ、と。

 欲生心を回向心であると言われるのは、衆生の宗教的要求の根源に、法蔵願心の物語を生み出す弘誓がはたらいていることを感知した、ということであろう。別言すれば、弘誓が、勅命たる欲生心を衆生の意識の根源に見いだしたのである。その勅命が衆生に願心の報土を要求させる。それに動かされて、自力で努力意識を動かしていくもの(至心発願欲生)が、努力の果てに彼土を夢見る「方便化土」の往生だというのである。

 欲生心は、人間の意識レベルより深層にはたらく超世の大悲心である。これは実は衆生にははっきりそれとは自覚できない。しかし、じっくりと衆生を育て歩ませて、大悲と値遇するまで待ち続けるのである。そして、選択本願の心に響いて、名号の信心が誕生する。

 名号が無上功徳を具足していることを教えて、この根本言に「一如真実の功徳法海」が具足することを言うのは、この真理の一言を信ずるところに、弘誓との値遇があるからである。つまり、本願の物語は、願心が名号に具体化することによって、超世の悲願を有限なる衆生に回向しうると言うのである。それが「名を称するに、能く衆生の一切の無明を破し、能く衆生の一切の志願を満てたもう」(『教行信証』、『真宗聖典』161頁)と註釈される意図であろう。名が用く名となって、衆生の無明を破り、求道の志願を満足してくるのだ、と言うのである。この名のはたらきが、衆生の本来性たる「自然法爾(じねんほうに)」を引き出してくるのだ、ということなのである。

(2012年7月1日)

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