親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

第106回「〈願に生きる〉ことと〈時間〉」⑩

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 如来回向の信心は、涅槃(ねはん)の真因である。因でありつつ、すでにして仏性(ぶっしょう)である。仏性は、如来の智見からは、一切衆生における現在現前の事実であるが、凡夫や菩薩の意識にはまだ充分に開示されていない。だから、愚かな凡夫たるわれらにとっては、可能態の表現として「仏性未来」というしかない。しかし、この因位(いんに)の自覚に与えられる利益として、正定聚(しょうじょうじゅ)を確保することはできる、と親鸞は言う。「正定聚」ということは、成仏(証大涅槃)の果を確定した位を言う。ということは、その「未来」が絶対的な必然性として、人間的な条件付の未来ではなく、本願が誓う未来だというのである。これを曽我量深は「純粋未来」として考察したのである。

 大涅槃とは、人間存在が回帰すべき本来性なのであろう。それに背いて無明海をさまよい続けるものが、迷いの衆生の実態である。しかし、いかに迷いの層が厚くとも、かならず透徹して黒暗の生活を開放して明るくせずにはやまないものが、大悲の光明である。これを具現すべく、大涅槃の本来性が、悲心やむことなく立ち上がったところに、「法蔵菩薩」の意味を仰ぐのが、親鸞の本願の了解である。だから、「一如宝海よりかたちをあらわして、法蔵菩薩となのりたまいて」(『一念多念文意』、『真宗聖典』543頁)と言われているのである。

 一切衆生に存在の本来性を回復させたいということが、大悲たる本願の意味である。これを信受する以外に、本来性を自己回復することは不可能であるという見極めが、自力無効の自覚なのである。自力の意識に感ずる時間は、過去からの重荷を背負って、現在から未来へと歩む方向を感ずるものである。それに対して、大悲の願心がわれらの暗闇にはたらきかける時間は、法蔵願心の永劫(ようごう)修行を背景にして光明の未来から開けてくるものではないか。

 われらはこれを、時を突き抜ける願言(がんごん)において、感得するのである。闇の底に「師子吼(ししく)」(『真宗聖典』26頁)する願心の言葉の咆哮(ほうこう)を聞くのである。まさに「一念」の信には、純粋未来からの光明の照射が当たっているのである。この一瞬に、「願生彼国 即得往生」(『真宗聖典』44頁)の意味があるのだといただくことを、「住正定聚」と言うのである。この言葉には、時間が消えるような感覚が無いこともない。しかし、煩悩生活を念々に持続する衆生においては、純粋未来からの願心との値遇(ちぐう)するうえでの時間は、とどまることなき恒常の一念の持続なのである。煩悩生活と共に、念仏生活が発起してくるのである。善導の『般舟讃(はんじゅさん)』に「念々称名常懺悔(念々に称名してつねに懺悔す)」という言葉があるが、この信心の時間には漸々(ぜんぜん)に前向きによくなっていくという向上的認識はいらない。純粋未来は、自力無効の信念に来至(らいし)するのであるから、大悲がわれらを摂取してくる一念の時の意味である。すなわち、凡夫が大悲に値遇する時の構造なのである。

(2012年3月1日)

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第238回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑨
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第238回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑨  有限なる存在を、浄土教の歴史的な表現では「凡夫」という。凡夫とは一般用語であるが、この語において、仏教に出遇っている自分の存在の意味を、無限なる如来の大悲の眼に照らし出されたあり方として、表現しているのである。そうすると、善導が押さえているように、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫(こうごう)より已来(このかた)、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」(『真宗聖典』215頁)と深く信じるところにあるのが凡夫である。この自覚において親鸞は、「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」(『一念多念文意』〔『真宗聖典』545頁〕)と言われているのである。  浄土教の自覚に表れてくる罪障の自覚とか罪業の身の重さということは、有限という語には現れてはいないのであるが、浄土教の求道における自覚的な表現とは、こういう罪障の自覚を通した有限なる自己の表現であると言える。その対照である無限という語にも、仏道の無為法ということで求められてくるような永劫に変わらない真実という性格はさしあたってないのであるが、求道の問題として無限という語を使う場合は、仏智の大きさや広大な涅槃ということも含まれてくると言うべきなのである。  この広大無辺の無限は、法蔵願心の果であり、因位の菩薩として法蔵菩薩は、果たる一如・涅槃から立ち上がったのだと言われる(『一念多念文意』〔『真宗聖典』543頁〕及び『唯信鈔文意』〔『真宗聖典』554頁〕参照)。その因位の修行は、大悲によって我ら衆生を済度せんがために、「兆載永劫」の時を貫く菩薩行であるとされている。兆載の時間をかけて、虚妄分別する我らに真実信を成就させようというのだと、親鸞は受けとめられているのである。  有限なる我らは、どこまでも煩悩具足の身を離れないから、決してそのまま無限に成ることはできない。しかし、無限の無限たる所以(ゆえん)は、一切の有限を包んでいるところにある。親鸞はこの道理について、善導が法蔵菩薩の果たる如来(阿弥陀如来)を「摂取不捨」として示していることに着眼している(「摂取して捨てざるがゆえに、阿弥陀と名づく」と善導が釈しているのを『教行信証』「行巻」で取り上げている〔『真宗聖典』174頁参照〕)。すなわち、無限大悲の光明は、たとえ我らが忘れようとも常に照らしていてくださるのだという。この道理にうなずくことにおいて、有限なる我らに無限のはたらきが具足する。親鸞は、このことを「如来回向」の信心として表されたのである。 (2023年5月1日) 最近の投稿を読む...
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第237回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑧
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第237回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑧  親鸞の示す「金剛の信心」とは、大悲の不可思議なるはたらきによって、われら有限なる存在がどういう状態であるかを問わず、大いなる光明(無限大悲)が常に我等を包み摂していると信じることであるとされる。ここに有限・無限という言葉を出しているので、この二項(有限・無限)の関係を考察してみよう。    仏教語の一般的表現で「無為法」と言われる場合は、対応する言葉は「有為法」である。この有為法とは、我等有限の一切の事象が、すべて時間とともにあり、時を超えて永続する物事は存在しないということであり、「諸行無常」(あらゆる存在は永続しない)であるとされている。この諸行(一切の現象)が「有限」に相当する。そこから言うなら、無為法は「無限」と言われることの内容に当たるわけである。移りゆき変わりゆく一切の現象に対し、時間的な要素を交えず、いわば永久不変なることを示す概念が、「無為法」である。    この無為法という概念に相当する語が、一如・真如・涅槃・法性などと教えられ、さらには法身・実相・常楽などと転釈されていく。これらの教学用語は、それぞれに微妙な差異を生じてはいる。しかし親鸞は、それらを『涅槃経』などを依り処として、すべて同等の意味を示す概念であると了解している。これらの用語をすべて無為法なる概念の内容であるとするなら、いま考察している無限は、仏教的理念で言うと「涅槃」に相当するということになる。    親鸞が、『大無量寿経』に語られている「法蔵菩薩」とは、「一如宝海よりかたちをあらわして」(『一念多念文意』、『真宗聖典』543頁)きたと了解していることは、いかなる意味になるのであろうか。文字通りであれば、時間を超越した無限であるはずの一如が、有限の生存上の名告り(これは時間的に消滅する存在になる)に成ることである。このことは普通には、矛盾そのものである。しかしながら、法蔵菩薩が大悲の心の示現であるから、矛盾を超えて、無限が有限に展現するという表現であるとされている。    無限とは、内に有限の一切を包んでいる。しかるに、有限から無限を考究しようとするなら、無限なる事態は、自己の外に、いかにしても到達することなどできない極限の様態として考えられることになる。無限の立場からは、「内」とされるありかたが、その内の有限からは、「外」であるということになる。この内・外の矛盾を、清沢満之は有限と無限との「根本的撞着」と言われるのである。この矛盾が一致することを求めることこそ、宗教的実存の要求であるというわけである。 (2023年4月1日) 最近の投稿を読む...
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第236回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑦
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第236回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑦  善導の言う「能生清浄願往生心」を、親鸞が「能生清浄願心」(『教行信証』信巻、『真宗聖典』235頁参照)と表現することについて、前回から考察している。二河譬で言われる「清浄願心」は、決して凡夫個人の「願生心」ではなく、如来回向の「金剛の信心」であると親鸞が了解したことが、「信巻」で押さえられている。如来回向の信心は、大悲の願心によって根底から支えられていて、「われら凡夫」に発起するように思われるけれども、個人の能力によって起こるのでなく、法蔵願心の「能」く発起するところだと、親鸞は感得されたのである、と思う。  本願文の欲生心とは如来の願心であり、それが回向表現して真実信心として我等に感じられるということである。これによって信心に「金剛」の質が確保されるのであるから、いかなる条件によろうと破れず壊れないことが確信として示されてくるのである。  この願力による信は、凡夫における意識レベルに対して、いかなる意味で相続しているのであろうか。というのは、我らに現行している意識は、生滅し流転していて、一瞬もとどまることがない。にもかかわらず、どうして信心が堅牢にして純潔なる金剛という質であると言えるのか、という問題が感じられるからである。  この難問は、有限なる存在が有限のみにとどまるなら、決して解決し得ないであろう。有限なる身心を、無限なる大悲心に投げ入れるような決定的な回心の展開においてのみ、この矛盾が矛盾にとどまることを脱出し得るのではなかろうか。  そもそも誓願の発起について「超発」と言われているのだが、この「超」とは、有限なる我等を超越して起こることを意味しているのであろう。そうであるから、我等にとっては「不可称・不可説・不可思議」であると言われるのである。この不可思議なる誓願が、有限の我等のレベルに関係するということは、どういうことが起こることであろうか。  さきに有限・無限という言葉を出してみたが、この言葉で少しく考察を進めてみたい。まず無限は、どのような有限性をも超えていると言えよう。いま考察しようとする無限は、大悲とも言われるように、一切衆生を包み摂しているというイメージが示されている。有限存在がいかなる状態であろうと、いかなる条件があろうと、必ず摂しているのが無限なのである。これを「摂取不捨」であると表現されている。我ら有限なる存在には、この不可思議なる無限は、有限の努力や苦労をいかに積み上げても到達できないし、感知することすらできない。ただ信ずるのみだとされるのである。 (2023年3月1日) 最近の投稿を読む...

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第105回「〈願に生きる〉ことと時間」⑨

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 正定聚(しょうじょうじゅ)の信心を因として大涅槃(だいねはん)の果を得る。その因果に本来は、この世の時間的な課程を挟まない。このことについて考えようとしている。

 仏陀の智見と凡夫の認識とには落差がある。一般的には、修道の時間をくぐってこの落差を一致させることを、菩提心(ぼだいしん)の因果として説くのだ、と考える。しかし、徹底的に罪悪と愚痴に覆われている「煩悩具足の凡夫」にとっては、この落差は自分にいかなる条件を加えようとも超えることのできない落差なのである。

 しかしながら、この落差を竪に超えるのでなく、横に超えるという超え方があり得るのではないか。この方法を本願力による救済として明確にしようとしたのが、親鸞の仕事だったのではないか。

 空間的な次元ならば、竪の距離を超えようとするとき、横の方向にどれほど動こうとも、決して超えるべき距離が縮まることはない。ところが、この絶対の断絶を一挙に超えうるのだということは、思考の軸の転換をするなら、超える方向が違っていたことに気づくということなのではないか。本願力がわれらを救済対象に見据えるとき、超えるべき方向は横になるということであろう。これはイメージの転換でもあろうし、発想の変換でもあろう。さらに言うなら、菩提心の因果は、空間的にも時間的にも表現できない落差なのだということだったのであろう。

 『教行信証』の「真仏土巻」に『涅槃経(ねはんぎょう)』を引用して「仏性未来」(『真宗聖典』308頁)ということを言っているのに、「信巻」では「信心仏性」と言う。この「真仏土巻」における未来は、仏陀の智見からするなら、絶対の現在なのだけれど、因位(いんに)の菩薩や凡夫からするなら未来と言うしかないということである。だから、因たる位からは、目覚めの可能性を「未来」と表現するということである。だからといって、菩薩や凡夫の時間を延長して、因を果にすることではない。「二乗非所測 唯仏独明了(二乗〈にじょう〉の測〈はか〉るところにあらず。唯〈ただ〉仏のみ独〈ひと〉り明らかに了〈さと〉りたまえり)。」(『真宗聖典』50頁)と言われるゆえんである。それなのに、信心が仏性であるとは、果である仏性に因の意味があるということなのか。それとも、因である信にもすでに果の意味がありうるというのか。

 正定聚における時間とは、別の面から考えるなら、本願成就の一念の時に無量億劫(むりょうおっこう)の過去の意味を具現しているのであり、尽未来際(じんみらいさい)の未来の時を内包しているということなのではないか。無始(むし)より已来(このかた)、乃至(ないし)今日今時に至るまで、自力の努力意識で流転(るてん)してきた身が、無限なる「兆載永劫(ちょうさいようごう)」の修行の功徳との値遇(ちぐう)において、自力無効を信知させられる。大悲の先端たる一念の信において、無限の時の意味を恵まれるのである。

 だから、本願力の回向を信受するなら、本願力が信心の本質を仏性であると顕(あらわ)す、それを正定聚と言うのではないか。凡夫の愚かな現実と本願力とが、「速得成就」として凡夫のところに値遇の事実となり、煩悩の闇と光明の明るみとが、一念の事実として矛盾せずに信心開発(かいほつ)する。だから、如来回向の信心は、因でありつつ、すでにして仏性である、というのではないか。

(2012年2月1日)

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第238回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑨
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第238回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑨  有限なる存在を、浄土教の歴史的な表現では「凡夫」という。凡夫とは一般用語であるが、この語において、仏教に出遇っている自分の存在の意味を、無限なる如来の大悲の眼に照らし出されたあり方として、表現しているのである。そうすると、善導が押さえているように、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫(こうごう)より已来(このかた)、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」(『真宗聖典』215頁)と深く信じるところにあるのが凡夫である。この自覚において親鸞は、「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」(『一念多念文意』〔『真宗聖典』545頁〕)と言われているのである。  浄土教の自覚に表れてくる罪障の自覚とか罪業の身の重さということは、有限という語には現れてはいないのであるが、浄土教の求道における自覚的な表現とは、こういう罪障の自覚を通した有限なる自己の表現であると言える。その対照である無限という語にも、仏道の無為法ということで求められてくるような永劫に変わらない真実という性格はさしあたってないのであるが、求道の問題として無限という語を使う場合は、仏智の大きさや広大な涅槃ということも含まれてくると言うべきなのである。  この広大無辺の無限は、法蔵願心の果であり、因位の菩薩として法蔵菩薩は、果たる一如・涅槃から立ち上がったのだと言われる(『一念多念文意』〔『真宗聖典』543頁〕及び『唯信鈔文意』〔『真宗聖典』554頁〕参照)。その因位の修行は、大悲によって我ら衆生を済度せんがために、「兆載永劫」の時を貫く菩薩行であるとされている。兆載の時間をかけて、虚妄分別する我らに真実信を成就させようというのだと、親鸞は受けとめられているのである。  有限なる我らは、どこまでも煩悩具足の身を離れないから、決してそのまま無限に成ることはできない。しかし、無限の無限たる所以(ゆえん)は、一切の有限を包んでいるところにある。親鸞はこの道理について、善導が法蔵菩薩の果たる如来(阿弥陀如来)を「摂取不捨」として示していることに着眼している(「摂取して捨てざるがゆえに、阿弥陀と名づく」と善導が釈しているのを『教行信証』「行巻」で取り上げている〔『真宗聖典』174頁参照〕)。すなわち、無限大悲の光明は、たとえ我らが忘れようとも常に照らしていてくださるのだという。この道理にうなずくことにおいて、有限なる我らに無限のはたらきが具足する。親鸞は、このことを「如来回向」の信心として表されたのである。 (2023年5月1日) 最近の投稿を読む...
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第237回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑧
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第237回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑧  親鸞の示す「金剛の信心」とは、大悲の不可思議なるはたらきによって、われら有限なる存在がどういう状態であるかを問わず、大いなる光明(無限大悲)が常に我等を包み摂していると信じることであるとされる。ここに有限・無限という言葉を出しているので、この二項(有限・無限)の関係を考察してみよう。    仏教語の一般的表現で「無為法」と言われる場合は、対応する言葉は「有為法」である。この有為法とは、我等有限の一切の事象が、すべて時間とともにあり、時を超えて永続する物事は存在しないということであり、「諸行無常」(あらゆる存在は永続しない)であるとされている。この諸行(一切の現象)が「有限」に相当する。そこから言うなら、無為法は「無限」と言われることの内容に当たるわけである。移りゆき変わりゆく一切の現象に対し、時間的な要素を交えず、いわば永久不変なることを示す概念が、「無為法」である。    この無為法という概念に相当する語が、一如・真如・涅槃・法性などと教えられ、さらには法身・実相・常楽などと転釈されていく。これらの教学用語は、それぞれに微妙な差異を生じてはいる。しかし親鸞は、それらを『涅槃経』などを依り処として、すべて同等の意味を示す概念であると了解している。これらの用語をすべて無為法なる概念の内容であるとするなら、いま考察している無限は、仏教的理念で言うと「涅槃」に相当するということになる。    親鸞が、『大無量寿経』に語られている「法蔵菩薩」とは、「一如宝海よりかたちをあらわして」(『一念多念文意』、『真宗聖典』543頁)きたと了解していることは、いかなる意味になるのであろうか。文字通りであれば、時間を超越した無限であるはずの一如が、有限の生存上の名告り(これは時間的に消滅する存在になる)に成ることである。このことは普通には、矛盾そのものである。しかしながら、法蔵菩薩が大悲の心の示現であるから、矛盾を超えて、無限が有限に展現するという表現であるとされている。    無限とは、内に有限の一切を包んでいる。しかるに、有限から無限を考究しようとするなら、無限なる事態は、自己の外に、いかにしても到達することなどできない極限の様態として考えられることになる。無限の立場からは、「内」とされるありかたが、その内の有限からは、「外」であるということになる。この内・外の矛盾を、清沢満之は有限と無限との「根本的撞着」と言われるのである。この矛盾が一致することを求めることこそ、宗教的実存の要求であるというわけである。 (2023年4月1日) 最近の投稿を読む...
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第236回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑦
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第236回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑦  善導の言う「能生清浄願往生心」を、親鸞が「能生清浄願心」(『教行信証』信巻、『真宗聖典』235頁参照)と表現することについて、前回から考察している。二河譬で言われる「清浄願心」は、決して凡夫個人の「願生心」ではなく、如来回向の「金剛の信心」であると親鸞が了解したことが、「信巻」で押さえられている。如来回向の信心は、大悲の願心によって根底から支えられていて、「われら凡夫」に発起するように思われるけれども、個人の能力によって起こるのでなく、法蔵願心の「能」く発起するところだと、親鸞は感得されたのである、と思う。  本願文の欲生心とは如来の願心であり、それが回向表現して真実信心として我等に感じられるということである。これによって信心に「金剛」の質が確保されるのであるから、いかなる条件によろうと破れず壊れないことが確信として示されてくるのである。  この願力による信は、凡夫における意識レベルに対して、いかなる意味で相続しているのであろうか。というのは、我らに現行している意識は、生滅し流転していて、一瞬もとどまることがない。にもかかわらず、どうして信心が堅牢にして純潔なる金剛という質であると言えるのか、という問題が感じられるからである。  この難問は、有限なる存在が有限のみにとどまるなら、決して解決し得ないであろう。有限なる身心を、無限なる大悲心に投げ入れるような決定的な回心の展開においてのみ、この矛盾が矛盾にとどまることを脱出し得るのではなかろうか。  そもそも誓願の発起について「超発」と言われているのだが、この「超」とは、有限なる我等を超越して起こることを意味しているのであろう。そうであるから、我等にとっては「不可称・不可説・不可思議」であると言われるのである。この不可思議なる誓願が、有限の我等のレベルに関係するということは、どういうことが起こることであろうか。  さきに有限・無限という言葉を出してみたが、この言葉で少しく考察を進めてみたい。まず無限は、どのような有限性をも超えていると言えよう。いま考察しようとする無限は、大悲とも言われるように、一切衆生を包み摂しているというイメージが示されている。有限存在がいかなる状態であろうと、いかなる条件があろうと、必ず摂しているのが無限なのである。これを「摂取不捨」であると表現されている。我ら有限なる存在には、この不可思議なる無限は、有限の努力や苦労をいかに積み上げても到達できないし、感知することすらできない。ただ信ずるのみだとされるのである。 (2023年3月1日) 最近の投稿を読む...

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第104回「〈願に生きる〉ことと〈時間〉」⑧

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 正定聚(しょうじょうじゅ)の信心を因として大涅槃(だいねはん)の果を得るという因果について考えようとしている。

 この「因果」のあり方は、時間のなかに因が成熟して果になるという意味の因果ではない。『往生要集(おうじょうようしゅう)』正修念仏章に、仏教の因果を仏性の問題として論じている所がある。そこでは、願生心(がんしょうしん)は菩提心(ぼだいしん)であるとする曇鸞大師(どんらんだいし)の主張を受けて、五念門(ごねんもん)の「作願門(さがんもん)」を仏性(ぶっしょう)として考察する所である。そこに「了因仏性(りょういんぶっしょう)」ということを言っている。

 『涅槃経(ねはんぎょう)』では、仏陀の覚(さと)りの智見が、仏陀の本質たる仏性であり、その仏性を顕(あらわ)す智恵から見れば、衆生(しゅじょう)は「悉有仏性(しつうぶっしょう)」であるとされる(「真仏土巻」に引用の『涅槃経』には、「一切衆生悉有仏性」は仏の随自意説(ずいじいせつ)であるといわれている。『真宗聖典』312頁参照)。その智恵が無ければ、仏性は見えないから、凡夫にとっては仏性が無いことになるのを、智恵が開けるならば、一切衆生は悉有仏性である、と見ることができるのだ、と。だから、この意味で仏果たる智恵から見れば、果たる大涅槃が顕れるということで、覚ることを因として果たる大涅槃が顕れるという意味の因果(「了因仏性」)であり、作願門たる願生浄土の心が仏性という意味をもつという。

 これは意識の転換によって、異なった事実をわれらが感受することからも考えられよう。腹立ちの中で受けとめた悪い意味は、好感をもった場合には消えて無くなる。それを、好感を因として果の功徳(くどく)を見いだす、と表現することもできよう。この功徳は、実体的に無かったものが現れたのではなく、見るものの意識の転換で無かったものが有るようになることである。これを仏性の考え方に当てはめれば、了因仏性ということになると言えよう。

 親鸞聖人は、こういう聖道門の学問的概念は、一切用いられないけれども、この言葉が出ている『往生要集』正修念仏章のすぐ後の文から「煩悩は転じて菩提の水となる」ということを、「行巻」(『真宗聖典』198頁参照)にも「高僧和讃」(『真宗聖典』493頁参照)にも使っておられる。そうしてみると、『往生要集』の考え方を踏まえたうえで、それを本願念仏の信心において、「転悪成善(てんあくじょうぜん)」の因果を凡夫が具体的に感受することとして、取り出されるのであろうと思う。どこまでも愚痴(ぐち)なる凡夫の罪悪深重の自覚を離れることなく、この煩悩と涅槃を貫く大乗の因果をいかにして獲得できるのか。「煩悩即菩提 生死即涅槃」という大乗仏教の旗印を、どのような愚痴無知の凡夫のうえにも獲得できるとするものは、いかなる方法であるのか。

 「信巻」引用の『往生要集』の言葉に「煩悩障眼雖不能見 大悲無倦常照我身(煩悩に眼を障えて見たてまつるにあたわずといえども、大悲惓きことなくして常に我が身を照らしたまう)」(『真宗聖典』222頁)ということがある。おそらく親鸞聖人はこの言葉に、大乗仏教の智見が煩悩具足の凡夫に開示される可能性を源信僧都(げんしんそうず)は信じておられることを知ったのではなかろうか。煩悩をさまたげとしないはたらきを信受するところに、涅槃が開示されるのだ、と。しかし、煩悩に眼が覆(おお)われているという事実は、相変わらずなのである。ここに、親鸞聖人が大乗の因果を、因果一如(いんがいちにょ)であると言い切らずに、凡夫の立場からは「正定聚」の位をいただくのだ、と押さえて、果を純粋未来からの回向のはたらきに帰託するとされる大事な自覚があるのではないか。

(2012年1月1日)

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第238回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑨
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第238回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑨  有限なる存在を、浄土教の歴史的な表現では「凡夫」という。凡夫とは一般用語であるが、この語において、仏教に出遇っている自分の存在の意味を、無限なる如来の大悲の眼に照らし出されたあり方として、表現しているのである。そうすると、善導が押さえているように、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫(こうごう)より已来(このかた)、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」(『真宗聖典』215頁)と深く信じるところにあるのが凡夫である。この自覚において親鸞は、「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」(『一念多念文意』〔『真宗聖典』545頁〕)と言われているのである。  浄土教の自覚に表れてくる罪障の自覚とか罪業の身の重さということは、有限という語には現れてはいないのであるが、浄土教の求道における自覚的な表現とは、こういう罪障の自覚を通した有限なる自己の表現であると言える。その対照である無限という語にも、仏道の無為法ということで求められてくるような永劫に変わらない真実という性格はさしあたってないのであるが、求道の問題として無限という語を使う場合は、仏智の大きさや広大な涅槃ということも含まれてくると言うべきなのである。  この広大無辺の無限は、法蔵願心の果であり、因位の菩薩として法蔵菩薩は、果たる一如・涅槃から立ち上がったのだと言われる(『一念多念文意』〔『真宗聖典』543頁〕及び『唯信鈔文意』〔『真宗聖典』554頁〕参照)。その因位の修行は、大悲によって我ら衆生を済度せんがために、「兆載永劫」の時を貫く菩薩行であるとされている。兆載の時間をかけて、虚妄分別する我らに真実信を成就させようというのだと、親鸞は受けとめられているのである。  有限なる我らは、どこまでも煩悩具足の身を離れないから、決してそのまま無限に成ることはできない。しかし、無限の無限たる所以(ゆえん)は、一切の有限を包んでいるところにある。親鸞はこの道理について、善導が法蔵菩薩の果たる如来(阿弥陀如来)を「摂取不捨」として示していることに着眼している(「摂取して捨てざるがゆえに、阿弥陀と名づく」と善導が釈しているのを『教行信証』「行巻」で取り上げている〔『真宗聖典』174頁参照〕)。すなわち、無限大悲の光明は、たとえ我らが忘れようとも常に照らしていてくださるのだという。この道理にうなずくことにおいて、有限なる我らに無限のはたらきが具足する。親鸞は、このことを「如来回向」の信心として表されたのである。 (2023年5月1日) 最近の投稿を読む...
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第237回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑧
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第237回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑧  親鸞の示す「金剛の信心」とは、大悲の不可思議なるはたらきによって、われら有限なる存在がどういう状態であるかを問わず、大いなる光明(無限大悲)が常に我等を包み摂していると信じることであるとされる。ここに有限・無限という言葉を出しているので、この二項(有限・無限)の関係を考察してみよう。    仏教語の一般的表現で「無為法」と言われる場合は、対応する言葉は「有為法」である。この有為法とは、我等有限の一切の事象が、すべて時間とともにあり、時を超えて永続する物事は存在しないということであり、「諸行無常」(あらゆる存在は永続しない)であるとされている。この諸行(一切の現象)が「有限」に相当する。そこから言うなら、無為法は「無限」と言われることの内容に当たるわけである。移りゆき変わりゆく一切の現象に対し、時間的な要素を交えず、いわば永久不変なることを示す概念が、「無為法」である。    この無為法という概念に相当する語が、一如・真如・涅槃・法性などと教えられ、さらには法身・実相・常楽などと転釈されていく。これらの教学用語は、それぞれに微妙な差異を生じてはいる。しかし親鸞は、それらを『涅槃経』などを依り処として、すべて同等の意味を示す概念であると了解している。これらの用語をすべて無為法なる概念の内容であるとするなら、いま考察している無限は、仏教的理念で言うと「涅槃」に相当するということになる。    親鸞が、『大無量寿経』に語られている「法蔵菩薩」とは、「一如宝海よりかたちをあらわして」(『一念多念文意』、『真宗聖典』543頁)きたと了解していることは、いかなる意味になるのであろうか。文字通りであれば、時間を超越した無限であるはずの一如が、有限の生存上の名告り(これは時間的に消滅する存在になる)に成ることである。このことは普通には、矛盾そのものである。しかしながら、法蔵菩薩が大悲の心の示現であるから、矛盾を超えて、無限が有限に展現するという表現であるとされている。    無限とは、内に有限の一切を包んでいる。しかるに、有限から無限を考究しようとするなら、無限なる事態は、自己の外に、いかにしても到達することなどできない極限の様態として考えられることになる。無限の立場からは、「内」とされるありかたが、その内の有限からは、「外」であるということになる。この内・外の矛盾を、清沢満之は有限と無限との「根本的撞着」と言われるのである。この矛盾が一致することを求めることこそ、宗教的実存の要求であるというわけである。 (2023年4月1日) 最近の投稿を読む...
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第236回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑦
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第236回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑦  善導の言う「能生清浄願往生心」を、親鸞が「能生清浄願心」(『教行信証』信巻、『真宗聖典』235頁参照)と表現することについて、前回から考察している。二河譬で言われる「清浄願心」は、決して凡夫個人の「願生心」ではなく、如来回向の「金剛の信心」であると親鸞が了解したことが、「信巻」で押さえられている。如来回向の信心は、大悲の願心によって根底から支えられていて、「われら凡夫」に発起するように思われるけれども、個人の能力によって起こるのでなく、法蔵願心の「能」く発起するところだと、親鸞は感得されたのである、と思う。  本願文の欲生心とは如来の願心であり、それが回向表現して真実信心として我等に感じられるということである。これによって信心に「金剛」の質が確保されるのであるから、いかなる条件によろうと破れず壊れないことが確信として示されてくるのである。  この願力による信は、凡夫における意識レベルに対して、いかなる意味で相続しているのであろうか。というのは、我らに現行している意識は、生滅し流転していて、一瞬もとどまることがない。にもかかわらず、どうして信心が堅牢にして純潔なる金剛という質であると言えるのか、という問題が感じられるからである。  この難問は、有限なる存在が有限のみにとどまるなら、決して解決し得ないであろう。有限なる身心を、無限なる大悲心に投げ入れるような決定的な回心の展開においてのみ、この矛盾が矛盾にとどまることを脱出し得るのではなかろうか。  そもそも誓願の発起について「超発」と言われているのだが、この「超」とは、有限なる我等を超越して起こることを意味しているのであろう。そうであるから、我等にとっては「不可称・不可説・不可思議」であると言われるのである。この不可思議なる誓願が、有限の我等のレベルに関係するということは、どういうことが起こることであろうか。  さきに有限・無限という言葉を出してみたが、この言葉で少しく考察を進めてみたい。まず無限は、どのような有限性をも超えていると言えよう。いま考察しようとする無限は、大悲とも言われるように、一切衆生を包み摂しているというイメージが示されている。有限存在がいかなる状態であろうと、いかなる条件があろうと、必ず摂しているのが無限なのである。これを「摂取不捨」であると表現されている。我ら有限なる存在には、この不可思議なる無限は、有限の努力や苦労をいかに積み上げても到達できないし、感知することすらできない。ただ信ずるのみだとされるのである。 (2023年3月1日) 最近の投稿を読む...

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第103回「〈願に生きる〉ことと〈時間〉」⑦

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

Series 08「〈願に生きる〉ことと〈時間〉」

 親鸞の『浄土和讃』に次の和讃がある。

  定散自力の称名は 果遂のちかいに帰してこそ

   おしえざれども自然に 真如の門に転入する (『真宗聖典』484頁)

 人間にとっての時間は、移ろいゆく意識に、過去とか未来として感じられているものである。だから、変化していく有為法(ういほう)である。その有為法の領域に、われらの一切の体験は起こっている。

 しかし、真如は「不増不減(ふぞうふげん)」であり、「不生不滅(ふしょうふめつ)」であって、有為法ではない。人間の意識の想念(そうねん)を超えたもの、これを無為法(むいほう)という。無為法を体験するということは、言葉の定義に矛盾する。真如は、われら衆生にとって、色や形のように直接体験されるものではないのである。われらの体験のなかに無為法を取り込もうとすることは、たとえば、消化できない金属を飲み込んで、消化しようとするようなものである。先の和讃は、善導(ぜんどう)の偈(げ)を親鸞が和語にしたものだが、ここに「真如の門」とあることが大切なことを比喩(ひゆ)的に示しているのではなかろうか。

 「果遂の誓い」とは、第二十願の最後に付いている言葉によって名づけられた願の名である。この言葉は、本願のはたらきが単に自力の意識を破って名号を信受せしめるのみでなく、本願力に帰入して真実信心に立つことに至るまでも「果遂」するのだ、と親鸞は見ているということを表している。凡愚(ぼんぐ)に深く張り付いている自力の執心(しゅうしん)を、徹底的に自覚せしめて、「仏智うたがうつみふかし」(『正像末和讃』、『真宗聖典』507頁)と気づかせる。その信念の歩みをもたらす力が、果遂の願の力だ、と感得しているということなのである。

 この果遂の願の力で、「自然に」真如の門に「転入」するというのである。ここで真如の門とあることによって、無為法である真如の「門」を見いだすということが、凡夫の意識と無為法との接点になることを暗示しているように思うのである。直接に体験するのでなく、信心の因に、「必至滅度(ひっしめつど)」の願果(がんか)を恵もうと誓われた因果の必然性を、「門」によって比喩的に入出できる因果のごとくに表現しているのである。

 至心信楽(ししんしんぎょう)の願を因として、必至滅度の願果を衆生の上に成り立たせようというところに、「回向」の願心の中心があると親鸞は見た。つまり、われらに発起(ほっき)する真実信心に、大般涅槃(だいはつねはん)の利益が与えられる。しかし、そのことは意識体験として涅槃の体験がわれらに起こるというのではない。体験としては、因である信心に「正定聚(しょうじょうじゅ)」の確信が起こるというのである。正定聚とは、大涅槃を確定して揺らぐことのない信念の質を受けとめた人々の集まりをいう言葉である。その信念を持つ人々の位を「不退転(ふたいてん)」とも「阿惟越致(あゆいおっち)」ともいうのだと、親鸞は繰り返し語っている。この位を因として、果の大般涅槃が必然の果として展望されているというのである。

(2011年12月1日)

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第238回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑨
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第238回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑨  有限なる存在を、浄土教の歴史的な表現では「凡夫」という。凡夫とは一般用語であるが、この語において、仏教に出遇っている自分の存在の意味を、無限なる如来の大悲の眼に照らし出されたあり方として、表現しているのである。そうすると、善導が押さえているように、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫(こうごう)より已来(このかた)、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」(『真宗聖典』215頁)と深く信じるところにあるのが凡夫である。この自覚において親鸞は、「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」(『一念多念文意』〔『真宗聖典』545頁〕)と言われているのである。  浄土教の自覚に表れてくる罪障の自覚とか罪業の身の重さということは、有限という語には現れてはいないのであるが、浄土教の求道における自覚的な表現とは、こういう罪障の自覚を通した有限なる自己の表現であると言える。その対照である無限という語にも、仏道の無為法ということで求められてくるような永劫に変わらない真実という性格はさしあたってないのであるが、求道の問題として無限という語を使う場合は、仏智の大きさや広大な涅槃ということも含まれてくると言うべきなのである。  この広大無辺の無限は、法蔵願心の果であり、因位の菩薩として法蔵菩薩は、果たる一如・涅槃から立ち上がったのだと言われる(『一念多念文意』〔『真宗聖典』543頁〕及び『唯信鈔文意』〔『真宗聖典』554頁〕参照)。その因位の修行は、大悲によって我ら衆生を済度せんがために、「兆載永劫」の時を貫く菩薩行であるとされている。兆載の時間をかけて、虚妄分別する我らに真実信を成就させようというのだと、親鸞は受けとめられているのである。  有限なる我らは、どこまでも煩悩具足の身を離れないから、決してそのまま無限に成ることはできない。しかし、無限の無限たる所以(ゆえん)は、一切の有限を包んでいるところにある。親鸞はこの道理について、善導が法蔵菩薩の果たる如来(阿弥陀如来)を「摂取不捨」として示していることに着眼している(「摂取して捨てざるがゆえに、阿弥陀と名づく」と善導が釈しているのを『教行信証』「行巻」で取り上げている〔『真宗聖典』174頁参照〕)。すなわち、無限大悲の光明は、たとえ我らが忘れようとも常に照らしていてくださるのだという。この道理にうなずくことにおいて、有限なる我らに無限のはたらきが具足する。親鸞は、このことを「如来回向」の信心として表されたのである。 (2023年5月1日) 最近の投稿を読む...
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第237回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑧
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第237回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑧  親鸞の示す「金剛の信心」とは、大悲の不可思議なるはたらきによって、われら有限なる存在がどういう状態であるかを問わず、大いなる光明(無限大悲)が常に我等を包み摂していると信じることであるとされる。ここに有限・無限という言葉を出しているので、この二項(有限・無限)の関係を考察してみよう。    仏教語の一般的表現で「無為法」と言われる場合は、対応する言葉は「有為法」である。この有為法とは、我等有限の一切の事象が、すべて時間とともにあり、時を超えて永続する物事は存在しないということであり、「諸行無常」(あらゆる存在は永続しない)であるとされている。この諸行(一切の現象)が「有限」に相当する。そこから言うなら、無為法は「無限」と言われることの内容に当たるわけである。移りゆき変わりゆく一切の現象に対し、時間的な要素を交えず、いわば永久不変なることを示す概念が、「無為法」である。    この無為法という概念に相当する語が、一如・真如・涅槃・法性などと教えられ、さらには法身・実相・常楽などと転釈されていく。これらの教学用語は、それぞれに微妙な差異を生じてはいる。しかし親鸞は、それらを『涅槃経』などを依り処として、すべて同等の意味を示す概念であると了解している。これらの用語をすべて無為法なる概念の内容であるとするなら、いま考察している無限は、仏教的理念で言うと「涅槃」に相当するということになる。    親鸞が、『大無量寿経』に語られている「法蔵菩薩」とは、「一如宝海よりかたちをあらわして」(『一念多念文意』、『真宗聖典』543頁)きたと了解していることは、いかなる意味になるのであろうか。文字通りであれば、時間を超越した無限であるはずの一如が、有限の生存上の名告り(これは時間的に消滅する存在になる)に成ることである。このことは普通には、矛盾そのものである。しかしながら、法蔵菩薩が大悲の心の示現であるから、矛盾を超えて、無限が有限に展現するという表現であるとされている。    無限とは、内に有限の一切を包んでいる。しかるに、有限から無限を考究しようとするなら、無限なる事態は、自己の外に、いかにしても到達することなどできない極限の様態として考えられることになる。無限の立場からは、「内」とされるありかたが、その内の有限からは、「外」であるということになる。この内・外の矛盾を、清沢満之は有限と無限との「根本的撞着」と言われるのである。この矛盾が一致することを求めることこそ、宗教的実存の要求であるというわけである。 (2023年4月1日) 最近の投稿を読む...
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第236回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑦
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第236回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑦  善導の言う「能生清浄願往生心」を、親鸞が「能生清浄願心」(『教行信証』信巻、『真宗聖典』235頁参照)と表現することについて、前回から考察している。二河譬で言われる「清浄願心」は、決して凡夫個人の「願生心」ではなく、如来回向の「金剛の信心」であると親鸞が了解したことが、「信巻」で押さえられている。如来回向の信心は、大悲の願心によって根底から支えられていて、「われら凡夫」に発起するように思われるけれども、個人の能力によって起こるのでなく、法蔵願心の「能」く発起するところだと、親鸞は感得されたのである、と思う。  本願文の欲生心とは如来の願心であり、それが回向表現して真実信心として我等に感じられるということである。これによって信心に「金剛」の質が確保されるのであるから、いかなる条件によろうと破れず壊れないことが確信として示されてくるのである。  この願力による信は、凡夫における意識レベルに対して、いかなる意味で相続しているのであろうか。というのは、我らに現行している意識は、生滅し流転していて、一瞬もとどまることがない。にもかかわらず、どうして信心が堅牢にして純潔なる金剛という質であると言えるのか、という問題が感じられるからである。  この難問は、有限なる存在が有限のみにとどまるなら、決して解決し得ないであろう。有限なる身心を、無限なる大悲心に投げ入れるような決定的な回心の展開においてのみ、この矛盾が矛盾にとどまることを脱出し得るのではなかろうか。  そもそも誓願の発起について「超発」と言われているのだが、この「超」とは、有限なる我等を超越して起こることを意味しているのであろう。そうであるから、我等にとっては「不可称・不可説・不可思議」であると言われるのである。この不可思議なる誓願が、有限の我等のレベルに関係するということは、どういうことが起こることであろうか。  さきに有限・無限という言葉を出してみたが、この言葉で少しく考察を進めてみたい。まず無限は、どのような有限性をも超えていると言えよう。いま考察しようとする無限は、大悲とも言われるように、一切衆生を包み摂しているというイメージが示されている。有限存在がいかなる状態であろうと、いかなる条件があろうと、必ず摂しているのが無限なのである。これを「摂取不捨」であると表現されている。我ら有限なる存在には、この不可思議なる無限は、有限の努力や苦労をいかに積み上げても到達できないし、感知することすらできない。ただ信ずるのみだとされるのである。 (2023年3月1日) 最近の投稿を読む...

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 親鸞の『浄土和讃』に次の和讃がある。

  定散自力の称名は 果遂のちかいに帰してこそ

   おしえざれども自然に 真如の門に転入する (『真宗聖典』484頁

 人間にとっての時間は、移ろいゆく意識に、過去とか未来として感じられているものである。だから、変化していく有為法(ういほう)である。その有為法の領域に、われらの一切の体験は起こっている。

 しかし、真如は「不増不減(ふぞうふげん)」であり、「不生不滅(ふしょうふめつ)」であって、有為法ではない。人間の意識の想念(そうねん)を超えたもの、これを無為法(むいほう)という。無為法を体験するということは、言葉の定義に矛盾する。真如は、われら衆生にとって、色や形のように直接体験されるものではないのである。われらの体験のなかに無為法を取り込もうとすることは、たとえば、消化できない金属を飲み込んで、消化しようとするようなものである。先の和讃は、善導(ぜんどう)の偈(げ)を親鸞が和語にしたものだが、ここに「真如の門」とあることが大切なことを比喩(ひゆ)的に示しているのではなかろうか。

 「果遂の誓い」とは、第二十願の最後に付いている言葉によって名づけられた願の名である。この言葉は、本願のはたらきが単に自力の意識を破って名号を信受せしめるのみでなく、本願力に帰入して真実信心に立つことに至るまでも「果遂」するのだ、と親鸞は見ているということを表している。凡愚(ぼんぐ)に深く張り付いている自力の執心(しゅうしん)を、徹底的に自覚せしめて、「仏智うたがうつみふかし」(『正像末和讃』、『真宗聖典』507頁)と気づかせる。その信念の歩みをもたらす力が、果遂の願の力だ、と感得しているということなのである。

 この果遂の願の力で、「自然に」真如の門に「転入」するというのである。ここで真如の門とあることによって、無為法である真如の「門」を見いだすということが、凡夫の意識と無為法との接点になることを暗示しているように思うのである。直接に体験するのでなく、信心の因に、「必至滅度(ひっしめつど)」の願果(がんか)を恵もうと誓われた因果の必然性を、「門」によって比喩的に入出できる因果のごとくに表現しているのである。

 至心信楽(ししんしんぎょう)の願を因として、必至滅度の願果を衆生の上に成り立たせようというところに、「回向」の願心の中心があると親鸞は見た。つまり、われらに発起(ほっき)する真実信心に、大般涅槃(だいはつねはん)の利益が与えられる。しかし、そのことは意識体験として涅槃の体験がわれらに起こるというのではない。体験としては、因である信心に「正定聚(しょうじょうじゅ)」の確信が起こるというのである。正定聚とは、大涅槃を確定して揺らぐことのない信念の質を受けとめた人々の集まりをいう言葉である。その信念を持つ人々の位を「不退転(ふたいてん)」とも「阿惟越致(あゆいおっち)」ともいうのだと、親鸞は繰り返し語っている。この位を因として、果の大般涅槃が必然の果として展望されているというのである。

(2011年12月1日)

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第238回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑨
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第238回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑨  有限なる存在を、浄土教の歴史的な表現では「凡夫」という。凡夫とは一般用語であるが、この語において、仏教に出遇っている自分の存在の意味を、無限なる如来の大悲の眼に照らし出されたあり方として、表現しているのである。そうすると、善導が押さえているように、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫(こうごう)より已来(このかた)、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」(『真宗聖典』215頁)と深く信じるところにあるのが凡夫である。この自覚において親鸞は、「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」(『一念多念文意』〔『真宗聖典』545頁〕)と言われているのである。  浄土教の自覚に表れてくる罪障の自覚とか罪業の身の重さということは、有限という語には現れてはいないのであるが、浄土教の求道における自覚的な表現とは、こういう罪障の自覚を通した有限なる自己の表現であると言える。その対照である無限という語にも、仏道の無為法ということで求められてくるような永劫に変わらない真実という性格はさしあたってないのであるが、求道の問題として無限という語を使う場合は、仏智の大きさや広大な涅槃ということも含まれてくると言うべきなのである。  この広大無辺の無限は、法蔵願心の果であり、因位の菩薩として法蔵菩薩は、果たる一如・涅槃から立ち上がったのだと言われる(『一念多念文意』〔『真宗聖典』543頁〕及び『唯信鈔文意』〔『真宗聖典』554頁〕参照)。その因位の修行は、大悲によって我ら衆生を済度せんがために、「兆載永劫」の時を貫く菩薩行であるとされている。兆載の時間をかけて、虚妄分別する我らに真実信を成就させようというのだと、親鸞は受けとめられているのである。  有限なる我らは、どこまでも煩悩具足の身を離れないから、決してそのまま無限に成ることはできない。しかし、無限の無限たる所以(ゆえん)は、一切の有限を包んでいるところにある。親鸞はこの道理について、善導が法蔵菩薩の果たる如来(阿弥陀如来)を「摂取不捨」として示していることに着眼している(「摂取して捨てざるがゆえに、阿弥陀と名づく」と善導が釈しているのを『教行信証』「行巻」で取り上げている〔『真宗聖典』174頁参照〕)。すなわち、無限大悲の光明は、たとえ我らが忘れようとも常に照らしていてくださるのだという。この道理にうなずくことにおいて、有限なる我らに無限のはたらきが具足する。親鸞は、このことを「如来回向」の信心として表されたのである。 (2023年5月1日) 最近の投稿を読む...
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第237回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑧
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第237回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑧  親鸞の示す「金剛の信心」とは、大悲の不可思議なるはたらきによって、われら有限なる存在がどういう状態であるかを問わず、大いなる光明(無限大悲)が常に我等を包み摂していると信じることであるとされる。ここに有限・無限という言葉を出しているので、この二項(有限・無限)の関係を考察してみよう。    仏教語の一般的表現で「無為法」と言われる場合は、対応する言葉は「有為法」である。この有為法とは、我等有限の一切の事象が、すべて時間とともにあり、時を超えて永続する物事は存在しないということであり、「諸行無常」(あらゆる存在は永続しない)であるとされている。この諸行(一切の現象)が「有限」に相当する。そこから言うなら、無為法は「無限」と言われることの内容に当たるわけである。移りゆき変わりゆく一切の現象に対し、時間的な要素を交えず、いわば永久不変なることを示す概念が、「無為法」である。    この無為法という概念に相当する語が、一如・真如・涅槃・法性などと教えられ、さらには法身・実相・常楽などと転釈されていく。これらの教学用語は、それぞれに微妙な差異を生じてはいる。しかし親鸞は、それらを『涅槃経』などを依り処として、すべて同等の意味を示す概念であると了解している。これらの用語をすべて無為法なる概念の内容であるとするなら、いま考察している無限は、仏教的理念で言うと「涅槃」に相当するということになる。    親鸞が、『大無量寿経』に語られている「法蔵菩薩」とは、「一如宝海よりかたちをあらわして」(『一念多念文意』、『真宗聖典』543頁)きたと了解していることは、いかなる意味になるのであろうか。文字通りであれば、時間を超越した無限であるはずの一如が、有限の生存上の名告り(これは時間的に消滅する存在になる)に成ることである。このことは普通には、矛盾そのものである。しかしながら、法蔵菩薩が大悲の心の示現であるから、矛盾を超えて、無限が有限に展現するという表現であるとされている。    無限とは、内に有限の一切を包んでいる。しかるに、有限から無限を考究しようとするなら、無限なる事態は、自己の外に、いかにしても到達することなどできない極限の様態として考えられることになる。無限の立場からは、「内」とされるありかたが、その内の有限からは、「外」であるということになる。この内・外の矛盾を、清沢満之は有限と無限との「根本的撞着」と言われるのである。この矛盾が一致することを求めることこそ、宗教的実存の要求であるというわけである。 (2023年4月1日) 最近の投稿を読む...
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第236回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑦
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第236回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑦  善導の言う「能生清浄願往生心」を、親鸞が「能生清浄願心」(『教行信証』信巻、『真宗聖典』235頁参照)と表現することについて、前回から考察している。二河譬で言われる「清浄願心」は、決して凡夫個人の「願生心」ではなく、如来回向の「金剛の信心」であると親鸞が了解したことが、「信巻」で押さえられている。如来回向の信心は、大悲の願心によって根底から支えられていて、「われら凡夫」に発起するように思われるけれども、個人の能力によって起こるのでなく、法蔵願心の「能」く発起するところだと、親鸞は感得されたのである、と思う。  本願文の欲生心とは如来の願心であり、それが回向表現して真実信心として我等に感じられるということである。これによって信心に「金剛」の質が確保されるのであるから、いかなる条件によろうと破れず壊れないことが確信として示されてくるのである。  この願力による信は、凡夫における意識レベルに対して、いかなる意味で相続しているのであろうか。というのは、我らに現行している意識は、生滅し流転していて、一瞬もとどまることがない。にもかかわらず、どうして信心が堅牢にして純潔なる金剛という質であると言えるのか、という問題が感じられるからである。  この難問は、有限なる存在が有限のみにとどまるなら、決して解決し得ないであろう。有限なる身心を、無限なる大悲心に投げ入れるような決定的な回心の展開においてのみ、この矛盾が矛盾にとどまることを脱出し得るのではなかろうか。  そもそも誓願の発起について「超発」と言われているのだが、この「超」とは、有限なる我等を超越して起こることを意味しているのであろう。そうであるから、我等にとっては「不可称・不可説・不可思議」であると言われるのである。この不可思議なる誓願が、有限の我等のレベルに関係するということは、どういうことが起こることであろうか。  さきに有限・無限という言葉を出してみたが、この言葉で少しく考察を進めてみたい。まず無限は、どのような有限性をも超えていると言えよう。いま考察しようとする無限は、大悲とも言われるように、一切衆生を包み摂しているというイメージが示されている。有限存在がいかなる状態であろうと、いかなる条件があろうと、必ず摂しているのが無限なのである。これを「摂取不捨」であると表現されている。我ら有限なる存在には、この不可思議なる無限は、有限の努力や苦労をいかに積み上げても到達できないし、感知することすらできない。ただ信ずるのみだとされるのである。 (2023年3月1日) 最近の投稿を読む...

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第102回「〈願に生きる〉ことと〈時間〉」⑥

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 親鸞は「如来の回向」を依(よ)り処(どころ)として、「願生彼国(がんしょうひこく) 即得往生(そくとくおうじょう)」(『真宗聖典』44頁)を、衆生の通常の意識としての心理的体験内容、「願生したら、いずれ往生する」と理解するのではなく、大悲の回向が衆生に恵む存在の利益なのだから「願生の即時に往生して不退転(ふたいてん)に住する」のだ、と受得した。すなわち「住不退転」を成り立たせる内なる動的因果が回向との値遇(ちぐう)なのだと読むのである。そのままでは凡愚(ぼんぐ)に成就するはずのない「不退転」の信念が、如来の回向との値遇によって、一切衆生に平等に発起(ほっき)しうる。このことが、真実信心を表す大切な意味となるとするのである。

 このときの「願生彼国」とは、かの国を荘厳(しょうごん)し建立する大悲のはたらきたる本願を、自己の環境として生きることである。つまり、如来の本願を生活根拠とするということである。これはわれらの日常的自我関心が、いったん、死ぬことである。「信に死し」と曽我量深が言うのは、「願生」とは「願に生きる」のであるから、何かが死ぬことが前提とされているということを見いだしたからである。この死は「穢土に死ぬ」と言っても良いのであろうが、「自我の邪見(じゃけん)が死ぬ」ということなのではないか。そして、凡夫は自分で死のうとして死ぬことはできないが、「本願に乗ずる」ということによって、それまでの根拠を捨てるということがあるのだから、それを「信に死して」と表現したのではないか。自力が死ぬことなしに、本願力に値遇することはできないからである。また、本願力に値遇することなしに、自力に死することはできないからである。

 「即得往生」とは、時日を隔(へだ)てず、分秒をも容(い)れずに、「願生」の即時に新しい生活が恵まれることを表している。第十一願の本願成就の文には、「生彼国者 皆悉住於正定之聚(かの国に生ずれば、みなことごとく正定の聚に住す)」(『真宗聖典』44頁)とあるのを、「かのくににうまれんとするものは、みなことごとく正定の聚に住す」(『一念多念文意』、『真宗聖典』536頁)と親鸞は読んでいるのであった。願生するときに、正定聚に住することを得るのだというのである。その即時の即得往生はすなわち住不退転ということなのである、と。新しい生活が「不退転」の信念だということなのである。

 ここにおいて、われらの有限な時間と、如来願心が発起してくる根拠の「一如法界(いちにょほっかい)」とが、不連続の連続となって信の一念の持続を生み出してくる。有為(うい)の時間を突破する契機が、「回向」のはたらきを通して、凡夫の生活に起こってくる。この境界線に「根本言(こんぽんごん)」としての名号(みょうごう)が関わる。選択(せんじゃく)本願が「名号」の内に、「衆生の行」を廻施(えせ)する願心を孕(はら)んで、信の一念を待つのである。回向に値遇するとは、具体的には名号を信受することである。名号の内に「願行具足(がんぎょうぐそく)」の意味を包んで、凡愚の衆生の一念の信に、無為法(むいほう)に触れる時の先端を恵むということなのである。

(2011年11月1日)

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第238回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑨
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第238回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑨  有限なる存在を、浄土教の歴史的な表現では「凡夫」という。凡夫とは一般用語であるが、この語において、仏教に出遇っている自分の存在の意味を、無限なる如来の大悲の眼に照らし出されたあり方として、表現しているのである。そうすると、善導が押さえているように、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫(こうごう)より已来(このかた)、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」(『真宗聖典』215頁)と深く信じるところにあるのが凡夫である。この自覚において親鸞は、「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」(『一念多念文意』〔『真宗聖典』545頁〕)と言われているのである。  浄土教の自覚に表れてくる罪障の自覚とか罪業の身の重さということは、有限という語には現れてはいないのであるが、浄土教の求道における自覚的な表現とは、こういう罪障の自覚を通した有限なる自己の表現であると言える。その対照である無限という語にも、仏道の無為法ということで求められてくるような永劫に変わらない真実という性格はさしあたってないのであるが、求道の問題として無限という語を使う場合は、仏智の大きさや広大な涅槃ということも含まれてくると言うべきなのである。  この広大無辺の無限は、法蔵願心の果であり、因位の菩薩として法蔵菩薩は、果たる一如・涅槃から立ち上がったのだと言われる(『一念多念文意』〔『真宗聖典』543頁〕及び『唯信鈔文意』〔『真宗聖典』554頁〕参照)。その因位の修行は、大悲によって我ら衆生を済度せんがために、「兆載永劫」の時を貫く菩薩行であるとされている。兆載の時間をかけて、虚妄分別する我らに真実信を成就させようというのだと、親鸞は受けとめられているのである。  有限なる我らは、どこまでも煩悩具足の身を離れないから、決してそのまま無限に成ることはできない。しかし、無限の無限たる所以(ゆえん)は、一切の有限を包んでいるところにある。親鸞はこの道理について、善導が法蔵菩薩の果たる如来(阿弥陀如来)を「摂取不捨」として示していることに着眼している(「摂取して捨てざるがゆえに、阿弥陀と名づく」と善導が釈しているのを『教行信証』「行巻」で取り上げている〔『真宗聖典』174頁参照〕)。すなわち、無限大悲の光明は、たとえ我らが忘れようとも常に照らしていてくださるのだという。この道理にうなずくことにおいて、有限なる我らに無限のはたらきが具足する。親鸞は、このことを「如来回向」の信心として表されたのである。 (2023年5月1日) 最近の投稿を読む...
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第237回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑧
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第237回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑧  親鸞の示す「金剛の信心」とは、大悲の不可思議なるはたらきによって、われら有限なる存在がどういう状態であるかを問わず、大いなる光明(無限大悲)が常に我等を包み摂していると信じることであるとされる。ここに有限・無限という言葉を出しているので、この二項(有限・無限)の関係を考察してみよう。    仏教語の一般的表現で「無為法」と言われる場合は、対応する言葉は「有為法」である。この有為法とは、我等有限の一切の事象が、すべて時間とともにあり、時を超えて永続する物事は存在しないということであり、「諸行無常」(あらゆる存在は永続しない)であるとされている。この諸行(一切の現象)が「有限」に相当する。そこから言うなら、無為法は「無限」と言われることの内容に当たるわけである。移りゆき変わりゆく一切の現象に対し、時間的な要素を交えず、いわば永久不変なることを示す概念が、「無為法」である。    この無為法という概念に相当する語が、一如・真如・涅槃・法性などと教えられ、さらには法身・実相・常楽などと転釈されていく。これらの教学用語は、それぞれに微妙な差異を生じてはいる。しかし親鸞は、それらを『涅槃経』などを依り処として、すべて同等の意味を示す概念であると了解している。これらの用語をすべて無為法なる概念の内容であるとするなら、いま考察している無限は、仏教的理念で言うと「涅槃」に相当するということになる。    親鸞が、『大無量寿経』に語られている「法蔵菩薩」とは、「一如宝海よりかたちをあらわして」(『一念多念文意』、『真宗聖典』543頁)きたと了解していることは、いかなる意味になるのであろうか。文字通りであれば、時間を超越した無限であるはずの一如が、有限の生存上の名告り(これは時間的に消滅する存在になる)に成ることである。このことは普通には、矛盾そのものである。しかしながら、法蔵菩薩が大悲の心の示現であるから、矛盾を超えて、無限が有限に展現するという表現であるとされている。    無限とは、内に有限の一切を包んでいる。しかるに、有限から無限を考究しようとするなら、無限なる事態は、自己の外に、いかにしても到達することなどできない極限の様態として考えられることになる。無限の立場からは、「内」とされるありかたが、その内の有限からは、「外」であるということになる。この内・外の矛盾を、清沢満之は有限と無限との「根本的撞着」と言われるのである。この矛盾が一致することを求めることこそ、宗教的実存の要求であるというわけである。 (2023年4月1日) 最近の投稿を読む...
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第236回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑦
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第236回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑦  善導の言う「能生清浄願往生心」を、親鸞が「能生清浄願心」(『教行信証』信巻、『真宗聖典』235頁参照)と表現することについて、前回から考察している。二河譬で言われる「清浄願心」は、決して凡夫個人の「願生心」ではなく、如来回向の「金剛の信心」であると親鸞が了解したことが、「信巻」で押さえられている。如来回向の信心は、大悲の願心によって根底から支えられていて、「われら凡夫」に発起するように思われるけれども、個人の能力によって起こるのでなく、法蔵願心の「能」く発起するところだと、親鸞は感得されたのである、と思う。  本願文の欲生心とは如来の願心であり、それが回向表現して真実信心として我等に感じられるということである。これによって信心に「金剛」の質が確保されるのであるから、いかなる条件によろうと破れず壊れないことが確信として示されてくるのである。  この願力による信は、凡夫における意識レベルに対して、いかなる意味で相続しているのであろうか。というのは、我らに現行している意識は、生滅し流転していて、一瞬もとどまることがない。にもかかわらず、どうして信心が堅牢にして純潔なる金剛という質であると言えるのか、という問題が感じられるからである。  この難問は、有限なる存在が有限のみにとどまるなら、決して解決し得ないであろう。有限なる身心を、無限なる大悲心に投げ入れるような決定的な回心の展開においてのみ、この矛盾が矛盾にとどまることを脱出し得るのではなかろうか。  そもそも誓願の発起について「超発」と言われているのだが、この「超」とは、有限なる我等を超越して起こることを意味しているのであろう。そうであるから、我等にとっては「不可称・不可説・不可思議」であると言われるのである。この不可思議なる誓願が、有限の我等のレベルに関係するということは、どういうことが起こることであろうか。  さきに有限・無限という言葉を出してみたが、この言葉で少しく考察を進めてみたい。まず無限は、どのような有限性をも超えていると言えよう。いま考察しようとする無限は、大悲とも言われるように、一切衆生を包み摂しているというイメージが示されている。有限存在がいかなる状態であろうと、いかなる条件があろうと、必ず摂しているのが無限なのである。これを「摂取不捨」であると表現されている。我ら有限なる存在には、この不可思議なる無限は、有限の努力や苦労をいかに積み上げても到達できないし、感知することすらできない。ただ信ずるのみだとされるのである。 (2023年3月1日) 最近の投稿を読む...

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第101回「〈願に生きる〉ことと〈時間〉」⑤

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 親鸞は、凡夫に成り立つ信心であっても、真実であり得るか否かを、徹底的に究明した。そして「信巻」において「本願成就」によってのみ、真実の信楽(しんぎょう)が成り立つことを明らかにした。先回、その本願成就の文を前後に切っていることに触れた。「信楽」について、「本願信心の願成就の文」(『真宗聖典』228頁)と言って「諸有(しょう)の衆生(しゅじょう)、その名号を聞きて信心歓喜(しんじんかんぎ)せんこと、乃至(ないし)一念せん」までを引用し、「欲生(よくしょう)」について、「本願の欲生心成就の文」と言って「至心回向したまえり。かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生(おうじょう)を得(え)、不退転に住せんと。唯(ただ)五逆と誹謗正法(ひほうしょうぼう)とを除く」(『真宗聖典』233頁)と引文されているのである。

 本願のはたらきによって、虚仮不実(こけふじつ)なる凡夫に真実の信心が獲得されるということを、本願成就の文の前半で明らかにした。「諸有衆生 聞其名号(もんごみょうごう) 信心歓喜 乃至一念」と。この「聞」について、「衆生、仏願の生起(しょうき)・本末(ほんまつ)を聞きて疑心あることなし。これを『聞』と曰(い)うなり。」(『真宗聖典』240頁)と釈されている。本願生起の意味を「名号」に聞き届けることによって、信心歓喜が成り立つ。それが「本願成就」の信なのだ、と。

 では、欲生心成就によって、本願成就の後半の文が何を衆生にもたらすというのであろうか。本願成就の文の「至心回向」は普通には、「信心歓喜」した衆生が、何かに向かって「回向」するという文章である。さしあたり往生についてか、仏に対してか、ともかく「至心」に回向するというのである。

 親鸞は、この釈文に先立って「至心」の釈義で、至心とは「真実」であるとし、至徳の尊号を体としている大悲の如来の「こころ」であるとした。衆生には真実は無い。虚仮不実であり、いつわり・へつらいのこころのみだと押さえた。そして、この「至心回向」が如来のはたらきでなければ、本願成就にならないと見て、「至心回向したまえり」と読んだのである。

 「聞其名号」の主体は衆生である。ここで、「至心回向」の主体を法蔵願心であると読むのは、文法的には無理というほかない。しかし、「聞」の背景にも、「大悲願心のもよおし」があってこそ、深く自己の身の罪業が気づかされて、本願を信受できるのだ、ということであれば、ここで「至心回向」を「回向したまえり」と読まざるをえないということもうなずけるのではないか。

 それが肯定できるなら、それ以降は、如来の「至心回向」によって、衆生に恵まれる内実を表しているのであるということも、納得すべきなのである。つまり、「願生彼国(がんしょうひこく) 即得往生(そくとくおうじょう) 住不退転(じゅうふたいてん) 唯除五逆誹謗正法(ゆいじょごぎゃくひほうしょうぼう)」は、衆生が自分で発(おこ)す意欲で往生することを表そうとするのではない。如来の「回向」によって、衆生に具現する利益を表わそうとしているということ。浄土の功徳として衆生に与えられる「不退転」を、大悲の「至心回向」のはたらきで真実信心の内面に具現する功徳を表そうとしているのだ、と読むということ。これにうなずいたなら、『一念多念文意』に「かのくににうまれんとするものは、みなことごとく正定の聚(じゅ)に住す」(『真宗聖典』536頁)ということを主張するのは、実はここに根拠があったのだ、と了解されるのである。

(2011年10月1日)

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第238回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑨
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第238回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑨  有限なる存在を、浄土教の歴史的な表現では「凡夫」という。凡夫とは一般用語であるが、この語において、仏教に出遇っている自分の存在の意味を、無限なる如来の大悲の眼に照らし出されたあり方として、表現しているのである。そうすると、善導が押さえているように、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫(こうごう)より已来(このかた)、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」(『真宗聖典』215頁)と深く信じるところにあるのが凡夫である。この自覚において親鸞は、「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」(『一念多念文意』〔『真宗聖典』545頁〕)と言われているのである。  浄土教の自覚に表れてくる罪障の自覚とか罪業の身の重さということは、有限という語には現れてはいないのであるが、浄土教の求道における自覚的な表現とは、こういう罪障の自覚を通した有限なる自己の表現であると言える。その対照である無限という語にも、仏道の無為法ということで求められてくるような永劫に変わらない真実という性格はさしあたってないのであるが、求道の問題として無限という語を使う場合は、仏智の大きさや広大な涅槃ということも含まれてくると言うべきなのである。  この広大無辺の無限は、法蔵願心の果であり、因位の菩薩として法蔵菩薩は、果たる一如・涅槃から立ち上がったのだと言われる(『一念多念文意』〔『真宗聖典』543頁〕及び『唯信鈔文意』〔『真宗聖典』554頁〕参照)。その因位の修行は、大悲によって我ら衆生を済度せんがために、「兆載永劫」の時を貫く菩薩行であるとされている。兆載の時間をかけて、虚妄分別する我らに真実信を成就させようというのだと、親鸞は受けとめられているのである。  有限なる我らは、どこまでも煩悩具足の身を離れないから、決してそのまま無限に成ることはできない。しかし、無限の無限たる所以(ゆえん)は、一切の有限を包んでいるところにある。親鸞はこの道理について、善導が法蔵菩薩の果たる如来(阿弥陀如来)を「摂取不捨」として示していることに着眼している(「摂取して捨てざるがゆえに、阿弥陀と名づく」と善導が釈しているのを『教行信証』「行巻」で取り上げている〔『真宗聖典』174頁参照〕)。すなわち、無限大悲の光明は、たとえ我らが忘れようとも常に照らしていてくださるのだという。この道理にうなずくことにおいて、有限なる我らに無限のはたらきが具足する。親鸞は、このことを「如来回向」の信心として表されたのである。 (2023年5月1日) 最近の投稿を読む...
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第237回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑧
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第237回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑧  親鸞の示す「金剛の信心」とは、大悲の不可思議なるはたらきによって、われら有限なる存在がどういう状態であるかを問わず、大いなる光明(無限大悲)が常に我等を包み摂していると信じることであるとされる。ここに有限・無限という言葉を出しているので、この二項(有限・無限)の関係を考察してみよう。    仏教語の一般的表現で「無為法」と言われる場合は、対応する言葉は「有為法」である。この有為法とは、我等有限の一切の事象が、すべて時間とともにあり、時を超えて永続する物事は存在しないということであり、「諸行無常」(あらゆる存在は永続しない)であるとされている。この諸行(一切の現象)が「有限」に相当する。そこから言うなら、無為法は「無限」と言われることの内容に当たるわけである。移りゆき変わりゆく一切の現象に対し、時間的な要素を交えず、いわば永久不変なることを示す概念が、「無為法」である。    この無為法という概念に相当する語が、一如・真如・涅槃・法性などと教えられ、さらには法身・実相・常楽などと転釈されていく。これらの教学用語は、それぞれに微妙な差異を生じてはいる。しかし親鸞は、それらを『涅槃経』などを依り処として、すべて同等の意味を示す概念であると了解している。これらの用語をすべて無為法なる概念の内容であるとするなら、いま考察している無限は、仏教的理念で言うと「涅槃」に相当するということになる。    親鸞が、『大無量寿経』に語られている「法蔵菩薩」とは、「一如宝海よりかたちをあらわして」(『一念多念文意』、『真宗聖典』543頁)きたと了解していることは、いかなる意味になるのであろうか。文字通りであれば、時間を超越した無限であるはずの一如が、有限の生存上の名告り(これは時間的に消滅する存在になる)に成ることである。このことは普通には、矛盾そのものである。しかしながら、法蔵菩薩が大悲の心の示現であるから、矛盾を超えて、無限が有限に展現するという表現であるとされている。    無限とは、内に有限の一切を包んでいる。しかるに、有限から無限を考究しようとするなら、無限なる事態は、自己の外に、いかにしても到達することなどできない極限の様態として考えられることになる。無限の立場からは、「内」とされるありかたが、その内の有限からは、「外」であるということになる。この内・外の矛盾を、清沢満之は有限と無限との「根本的撞着」と言われるのである。この矛盾が一致することを求めることこそ、宗教的実存の要求であるというわけである。 (2023年4月1日) 最近の投稿を読む...
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第236回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑦
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第236回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑦  善導の言う「能生清浄願往生心」を、親鸞が「能生清浄願心」(『教行信証』信巻、『真宗聖典』235頁参照)と表現することについて、前回から考察している。二河譬で言われる「清浄願心」は、決して凡夫個人の「願生心」ではなく、如来回向の「金剛の信心」であると親鸞が了解したことが、「信巻」で押さえられている。如来回向の信心は、大悲の願心によって根底から支えられていて、「われら凡夫」に発起するように思われるけれども、個人の能力によって起こるのでなく、法蔵願心の「能」く発起するところだと、親鸞は感得されたのである、と思う。  本願文の欲生心とは如来の願心であり、それが回向表現して真実信心として我等に感じられるということである。これによって信心に「金剛」の質が確保されるのであるから、いかなる条件によろうと破れず壊れないことが確信として示されてくるのである。  この願力による信は、凡夫における意識レベルに対して、いかなる意味で相続しているのであろうか。というのは、我らに現行している意識は、生滅し流転していて、一瞬もとどまることがない。にもかかわらず、どうして信心が堅牢にして純潔なる金剛という質であると言えるのか、という問題が感じられるからである。  この難問は、有限なる存在が有限のみにとどまるなら、決して解決し得ないであろう。有限なる身心を、無限なる大悲心に投げ入れるような決定的な回心の展開においてのみ、この矛盾が矛盾にとどまることを脱出し得るのではなかろうか。  そもそも誓願の発起について「超発」と言われているのだが、この「超」とは、有限なる我等を超越して起こることを意味しているのであろう。そうであるから、我等にとっては「不可称・不可説・不可思議」であると言われるのである。この不可思議なる誓願が、有限の我等のレベルに関係するということは、どういうことが起こることであろうか。  さきに有限・無限という言葉を出してみたが、この言葉で少しく考察を進めてみたい。まず無限は、どのような有限性をも超えていると言えよう。いま考察しようとする無限は、大悲とも言われるように、一切衆生を包み摂しているというイメージが示されている。有限存在がいかなる状態であろうと、いかなる条件があろうと、必ず摂しているのが無限なのである。これを「摂取不捨」であると表現されている。我ら有限なる存在には、この不可思議なる無限は、有限の努力や苦労をいかに積み上げても到達できないし、感知することすらできない。ただ信ずるのみだとされるのである。 (2023年3月1日) 最近の投稿を読む...

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第100回「〈願に生きる〉ことと〈時間〉」④

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 親鸞聖人は、いわゆる一般的な菩提心(ぼだいしん)を「自力聖道(じりきしょうどう)の菩提心」と名づけた。この要求も実は人間の深みに繰り返し、静かにささやいているものである。だから、表面的には「自力聖道の菩提心 こころもことばもおよばれず 常没流転(じょうもつるてん)の凡愚(ぼんぐ)は いかでか発起(ほっき)せしむべき」(『正像末和讃』、『真宗聖典』501頁)と和讃されているのである。しかし、この心によって実は「三恒河沙(さんごうがしゃ)の諸仏の 出世のみもとにありしとき 大菩提心おこせども 自力かなわで流転せり」(『正像末和讃』、『真宗聖典』502頁)といわれるような「流転」の生存を迷い続けさせられてきたのだ、と感じ取られているのである。したがって、この心から本当に脱出できないなら、永劫流転の闇を出離できないと見ておられるのである。

 この心の根を親鸞は「至心発願(ししんほつがん)の願」(『正像末和讃』、『真宗聖典』327頁)のはたらきにあると見抜かれた。この「悲願」の配慮を受けて「欲生(よくしょう)」の勅命を感じ取ることで、初めて流転の根元をつかさどってきた「自力の菩提心」から解放される道を歩み出せるというのである。それによって真の「本願成就の信心」こそが、流転の闇を破って光明の広海に遊ぶ「大菩提心」であると確信したのであると思う。

 「信心すなわち一心なり 一心すなわち金剛心 金剛心は菩提心 この心(しん)すなわち他力なり」(『高僧和讃』、『真宗聖典』491頁)というのは、信心を因として菩提が成就することが、『無量寿経』の本願が衆生に呼びかける意味だからであろう。いかなる煩悩の衆生であろうとも、必ず大涅槃(だいねはん)の利益(りやく)を感得せしめようというのが、大悲本願の起こるゆえんなのであるから、信心に金剛の純粋さと堅実さを備えられるのである。この本願を信受する以外に出離生死の道はないという見極めが、信心の内に如来の勅命としての欲生心を感じ取るのである。欲生心を勅命と感ずるところに、我が信念はこれでよいという金剛の決着が与えられるのであろう。

 しかし、「願生」は果(か)たる浄土への願であるから、果の報土に対する「因」の位の要求である。その因果の関係について、果の浄土を因位(いんに)において確定することを、親鸞は「正定聚(しょうじょうじゅ)」であるという。「かのくににうまれんとするものは、みなことごとく正定の聚に住す」(『一念多念文意』、『真宗聖典』536頁)ることを獲(う)るのだ、と。「願生」において「正定聚」という報土(ほうど)の利益を既得権のごとくに得るのだと主張する。これを「現生(げんしょう)正定聚」という。このことを確定するのは、いかなる根拠によるのであろうか。「願生彼国(がんしょうひこく) 即得往生(そくとくおうじょう) 住不退転(じゅうふたいてん)」(『真宗聖典』44頁)という本願成就の文を自身に体験することができると主張しているとするなら、普通に経文の文面を読んでいる場合には、強引で無理な主張と見える。

 ここに、先の「この心すなわち他力なり」ということの大切さがある。実はこの本願成就の文を、前後に切って、後半を欲生心成就の文と見る独自の読み込みがあるのである。

(2011年9月1日)

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第238回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑨
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第238回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑨  有限なる存在を、浄土教の歴史的な表現では「凡夫」という。凡夫とは一般用語であるが、この語において、仏教に出遇っている自分の存在の意味を、無限なる如来の大悲の眼に照らし出されたあり方として、表現しているのである。そうすると、善導が押さえているように、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫(こうごう)より已来(このかた)、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」(『真宗聖典』215頁)と深く信じるところにあるのが凡夫である。この自覚において親鸞は、「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」(『一念多念文意』〔『真宗聖典』545頁〕)と言われているのである。  浄土教の自覚に表れてくる罪障の自覚とか罪業の身の重さということは、有限という語には現れてはいないのであるが、浄土教の求道における自覚的な表現とは、こういう罪障の自覚を通した有限なる自己の表現であると言える。その対照である無限という語にも、仏道の無為法ということで求められてくるような永劫に変わらない真実という性格はさしあたってないのであるが、求道の問題として無限という語を使う場合は、仏智の大きさや広大な涅槃ということも含まれてくると言うべきなのである。  この広大無辺の無限は、法蔵願心の果であり、因位の菩薩として法蔵菩薩は、果たる一如・涅槃から立ち上がったのだと言われる(『一念多念文意』〔『真宗聖典』543頁〕及び『唯信鈔文意』〔『真宗聖典』554頁〕参照)。その因位の修行は、大悲によって我ら衆生を済度せんがために、「兆載永劫」の時を貫く菩薩行であるとされている。兆載の時間をかけて、虚妄分別する我らに真実信を成就させようというのだと、親鸞は受けとめられているのである。  有限なる我らは、どこまでも煩悩具足の身を離れないから、決してそのまま無限に成ることはできない。しかし、無限の無限たる所以(ゆえん)は、一切の有限を包んでいるところにある。親鸞はこの道理について、善導が法蔵菩薩の果たる如来(阿弥陀如来)を「摂取不捨」として示していることに着眼している(「摂取して捨てざるがゆえに、阿弥陀と名づく」と善導が釈しているのを『教行信証』「行巻」で取り上げている〔『真宗聖典』174頁参照〕)。すなわち、無限大悲の光明は、たとえ我らが忘れようとも常に照らしていてくださるのだという。この道理にうなずくことにおいて、有限なる我らに無限のはたらきが具足する。親鸞は、このことを「如来回向」の信心として表されたのである。 (2023年5月1日) 最近の投稿を読む...
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第237回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑧
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第237回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑧  親鸞の示す「金剛の信心」とは、大悲の不可思議なるはたらきによって、われら有限なる存在がどういう状態であるかを問わず、大いなる光明(無限大悲)が常に我等を包み摂していると信じることであるとされる。ここに有限・無限という言葉を出しているので、この二項(有限・無限)の関係を考察してみよう。    仏教語の一般的表現で「無為法」と言われる場合は、対応する言葉は「有為法」である。この有為法とは、我等有限の一切の事象が、すべて時間とともにあり、時を超えて永続する物事は存在しないということであり、「諸行無常」(あらゆる存在は永続しない)であるとされている。この諸行(一切の現象)が「有限」に相当する。そこから言うなら、無為法は「無限」と言われることの内容に当たるわけである。移りゆき変わりゆく一切の現象に対し、時間的な要素を交えず、いわば永久不変なることを示す概念が、「無為法」である。    この無為法という概念に相当する語が、一如・真如・涅槃・法性などと教えられ、さらには法身・実相・常楽などと転釈されていく。これらの教学用語は、それぞれに微妙な差異を生じてはいる。しかし親鸞は、それらを『涅槃経』などを依り処として、すべて同等の意味を示す概念であると了解している。これらの用語をすべて無為法なる概念の内容であるとするなら、いま考察している無限は、仏教的理念で言うと「涅槃」に相当するということになる。    親鸞が、『大無量寿経』に語られている「法蔵菩薩」とは、「一如宝海よりかたちをあらわして」(『一念多念文意』、『真宗聖典』543頁)きたと了解していることは、いかなる意味になるのであろうか。文字通りであれば、時間を超越した無限であるはずの一如が、有限の生存上の名告り(これは時間的に消滅する存在になる)に成ることである。このことは普通には、矛盾そのものである。しかしながら、法蔵菩薩が大悲の心の示現であるから、矛盾を超えて、無限が有限に展現するという表現であるとされている。    無限とは、内に有限の一切を包んでいる。しかるに、有限から無限を考究しようとするなら、無限なる事態は、自己の外に、いかにしても到達することなどできない極限の様態として考えられることになる。無限の立場からは、「内」とされるありかたが、その内の有限からは、「外」であるということになる。この内・外の矛盾を、清沢満之は有限と無限との「根本的撞着」と言われるのである。この矛盾が一致することを求めることこそ、宗教的実存の要求であるというわけである。 (2023年4月1日) 最近の投稿を読む...
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第236回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑦
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第236回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑦  善導の言う「能生清浄願往生心」を、親鸞が「能生清浄願心」(『教行信証』信巻、『真宗聖典』235頁参照)と表現することについて、前回から考察している。二河譬で言われる「清浄願心」は、決して凡夫個人の「願生心」ではなく、如来回向の「金剛の信心」であると親鸞が了解したことが、「信巻」で押さえられている。如来回向の信心は、大悲の願心によって根底から支えられていて、「われら凡夫」に発起するように思われるけれども、個人の能力によって起こるのでなく、法蔵願心の「能」く発起するところだと、親鸞は感得されたのである、と思う。  本願文の欲生心とは如来の願心であり、それが回向表現して真実信心として我等に感じられるということである。これによって信心に「金剛」の質が確保されるのであるから、いかなる条件によろうと破れず壊れないことが確信として示されてくるのである。  この願力による信は、凡夫における意識レベルに対して、いかなる意味で相続しているのであろうか。というのは、我らに現行している意識は、生滅し流転していて、一瞬もとどまることがない。にもかかわらず、どうして信心が堅牢にして純潔なる金剛という質であると言えるのか、という問題が感じられるからである。  この難問は、有限なる存在が有限のみにとどまるなら、決して解決し得ないであろう。有限なる身心を、無限なる大悲心に投げ入れるような決定的な回心の展開においてのみ、この矛盾が矛盾にとどまることを脱出し得るのではなかろうか。  そもそも誓願の発起について「超発」と言われているのだが、この「超」とは、有限なる我等を超越して起こることを意味しているのであろう。そうであるから、我等にとっては「不可称・不可説・不可思議」であると言われるのである。この不可思議なる誓願が、有限の我等のレベルに関係するということは、どういうことが起こることであろうか。  さきに有限・無限という言葉を出してみたが、この言葉で少しく考察を進めてみたい。まず無限は、どのような有限性をも超えていると言えよう。いま考察しようとする無限は、大悲とも言われるように、一切衆生を包み摂しているというイメージが示されている。有限存在がいかなる状態であろうと、いかなる条件があろうと、必ず摂しているのが無限なのである。これを「摂取不捨」であると表現されている。我ら有限なる存在には、この不可思議なる無限は、有限の努力や苦労をいかに積み上げても到達できないし、感知することすらできない。ただ信ずるのみだとされるのである。 (2023年3月1日) 最近の投稿を読む...

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投稿者:shinran-bc 投稿日時:

第99回「〈願に生きる〉ことと〈時間〉③

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 浄土教における宗教心は、「願生浄土(がんしょうじょうど)」と表現される。浄土に生まれて、菩提心(ぼだいしん)を完成したいという願いである。これを略して「願生心(がんしょうしん)」という。この願生心が、仏教の菩提心の課題を成就するのでないなら、浄土教は仏教とは言えないことになる。『大無量寿経』の三輩段(さんぱいだん)に上輩(じょうはい)・中輩(ちゅうはい)・下輩(げはい)に通じて「発菩提心(ほつぼだいしん)」が呼びかけられるのは当然であろう。これを曇鸞大師(どんらんだいし)が改めて注意したのは、浄土教が一般に流布するにつれ、凡夫にとって幸福な場所への生まれ直しが「願生心」のごとくに思われて、はやっていたからではなかろうか。阿弥陀の浄土は、菩提心の成就する場所なのであって、凡夫の考えるような幸福が与えられる場所ではないのだから、「楽のために願生しても、生まれることはできない」(『真宗聖典』237頁参照)と厳しく指摘しておられるのである。

 ところが、いかなる愚かな凡夫であっても、大悲の阿弥陀如来は光明をもって十方を照らして「摂取して捨てない」と願っているのだから、仏を念じさえすれば「願生・得生(とくしょう)」の救いがあたえられる、衆生の願生心の成就には念仏のみで良い、菩提心等の諸々の条件は不要だ、と法然上人は考えられた。大悲の本願を直接に信ずることを選び取るなら、これは当然の帰結であろう。しかし、いわゆる菩提心によって、仏法による人間の課題を成就して成仏すると考える立場は、それを許すことができない。

 だから、明恵上人(みょうえしょうにん)が法然は仏教者ではない、「外道」(仏教以外の思想)であると指弾(しだん)するのは道理なのである。この間には、単に誤解といって済ますことのできない問題があると気づいたのが、親鸞聖人だった。願生心と菩提心との間に、人間観の相違や時代社会への関心や、なによりも自己の資質と宗教的要求との乖離(かいり)や矛盾への気づきがある。そして、そこに宗教的時間についての認識の差もあるのではないか、ということが埋めることのできない深い落差になっていると感じられた。

 ここで、宗教的時間というのは、菩提とか往生という言葉で人間の成就や救済が成り立つときの、「時」に関わる問題である。そもそも仏法は人間に生まれたこの一回の生命で、これまでの流転の生を超えることを教える。この現在の生命において、菩提・涅槃(ねはん)を証得することを目的に修行・修道する。ところが、その現生では涅槃の覚りに至ることができないことに深い悩みと絶望をくぐった求道者たちが、大悲の浄土の教えに救いを求めた。

 浄土は大悲の本願がその願の成就によって、あらゆる衆生に成仏できるように加護する場所を語りかけているからである。

(2011年8月1日)

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第238回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑨
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第238回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑨  有限なる存在を、浄土教の歴史的な表現では「凡夫」という。凡夫とは一般用語であるが、この語において、仏教に出遇っている自分の存在の意味を、無限なる如来の大悲の眼に照らし出されたあり方として、表現しているのである。そうすると、善導が押さえているように、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫(こうごう)より已来(このかた)、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」(『真宗聖典』215頁)と深く信じるところにあるのが凡夫である。この自覚において親鸞は、「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」(『一念多念文意』〔『真宗聖典』545頁〕)と言われているのである。  浄土教の自覚に表れてくる罪障の自覚とか罪業の身の重さということは、有限という語には現れてはいないのであるが、浄土教の求道における自覚的な表現とは、こういう罪障の自覚を通した有限なる自己の表現であると言える。その対照である無限という語にも、仏道の無為法ということで求められてくるような永劫に変わらない真実という性格はさしあたってないのであるが、求道の問題として無限という語を使う場合は、仏智の大きさや広大な涅槃ということも含まれてくると言うべきなのである。  この広大無辺の無限は、法蔵願心の果であり、因位の菩薩として法蔵菩薩は、果たる一如・涅槃から立ち上がったのだと言われる(『一念多念文意』〔『真宗聖典』543頁〕及び『唯信鈔文意』〔『真宗聖典』554頁〕参照)。その因位の修行は、大悲によって我ら衆生を済度せんがために、「兆載永劫」の時を貫く菩薩行であるとされている。兆載の時間をかけて、虚妄分別する我らに真実信を成就させようというのだと、親鸞は受けとめられているのである。  有限なる我らは、どこまでも煩悩具足の身を離れないから、決してそのまま無限に成ることはできない。しかし、無限の無限たる所以(ゆえん)は、一切の有限を包んでいるところにある。親鸞はこの道理について、善導が法蔵菩薩の果たる如来(阿弥陀如来)を「摂取不捨」として示していることに着眼している(「摂取して捨てざるがゆえに、阿弥陀と名づく」と善導が釈しているのを『教行信証』「行巻」で取り上げている〔『真宗聖典』174頁参照〕)。すなわち、無限大悲の光明は、たとえ我らが忘れようとも常に照らしていてくださるのだという。この道理にうなずくことにおいて、有限なる我らに無限のはたらきが具足する。親鸞は、このことを「如来回向」の信心として表されたのである。 (2023年5月1日) 最近の投稿を読む...
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第237回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑧
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第237回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑧  親鸞の示す「金剛の信心」とは、大悲の不可思議なるはたらきによって、われら有限なる存在がどういう状態であるかを問わず、大いなる光明(無限大悲)が常に我等を包み摂していると信じることであるとされる。ここに有限・無限という言葉を出しているので、この二項(有限・無限)の関係を考察してみよう。    仏教語の一般的表現で「無為法」と言われる場合は、対応する言葉は「有為法」である。この有為法とは、我等有限の一切の事象が、すべて時間とともにあり、時を超えて永続する物事は存在しないということであり、「諸行無常」(あらゆる存在は永続しない)であるとされている。この諸行(一切の現象)が「有限」に相当する。そこから言うなら、無為法は「無限」と言われることの内容に当たるわけである。移りゆき変わりゆく一切の現象に対し、時間的な要素を交えず、いわば永久不変なることを示す概念が、「無為法」である。    この無為法という概念に相当する語が、一如・真如・涅槃・法性などと教えられ、さらには法身・実相・常楽などと転釈されていく。これらの教学用語は、それぞれに微妙な差異を生じてはいる。しかし親鸞は、それらを『涅槃経』などを依り処として、すべて同等の意味を示す概念であると了解している。これらの用語をすべて無為法なる概念の内容であるとするなら、いま考察している無限は、仏教的理念で言うと「涅槃」に相当するということになる。    親鸞が、『大無量寿経』に語られている「法蔵菩薩」とは、「一如宝海よりかたちをあらわして」(『一念多念文意』、『真宗聖典』543頁)きたと了解していることは、いかなる意味になるのであろうか。文字通りであれば、時間を超越した無限であるはずの一如が、有限の生存上の名告り(これは時間的に消滅する存在になる)に成ることである。このことは普通には、矛盾そのものである。しかしながら、法蔵菩薩が大悲の心の示現であるから、矛盾を超えて、無限が有限に展現するという表現であるとされている。    無限とは、内に有限の一切を包んでいる。しかるに、有限から無限を考究しようとするなら、無限なる事態は、自己の外に、いかにしても到達することなどできない極限の様態として考えられることになる。無限の立場からは、「内」とされるありかたが、その内の有限からは、「外」であるということになる。この内・外の矛盾を、清沢満之は有限と無限との「根本的撞着」と言われるのである。この矛盾が一致することを求めることこそ、宗教的実存の要求であるというわけである。 (2023年4月1日) 最近の投稿を読む...
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