親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

第72回「親鸞一人」⑩

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 「親鸞」という名の背景に天親・曇鸞の学びがあるのだが、33歳までにはそれがなかったのではないか、という考えがある。そもそも、宗祖親鸞の比叡の山での学びについて、研鑽の証拠がないと考えられているからである。しかし、『高僧和讃』(「法然讃」)に「善導源信すすむとも 本師源空いまさずは 片州濁世(へんしゅうじょくせ)のともがらは いかでか真宗をさとらまし」(『真宗聖典』498頁)ということがある。この和讃の語る実感とは、親鸞にとっての回心を引き出した源空への感謝の表明であるとともに、比叡の山での浄土教の学びが如何に熾烈であったか、それでも本願への帰依を獲得できなかったという事実を示唆していると言うべきではなかろうか。そして、「信心同一でないのなら、法然が参るべき浄土へは、往けないぞ」とまで言われた師法然の言葉を、『歎異抄』(『真宗聖典』639頁参照)には記録されている。この問題が「方便化身土」の問題として、考察されていったと考えられることであるが、その化身土の名「懈慢界(けまんがい)」を源信の『往生要集』からいただいたのだ、と「化身土巻」(『教行信証』、『真宗聖典』330頁参照)に記している。こういう気づきができるということは、若き時代に善導・源信を始めとする浄土の教学を徹底的に追求していたからであったに相違ない。

 さらにいうなら、「行巻」(『教行信証』)に引かれる慈雲の言葉や法照の文、あるいは新羅の憬興(きょうごう)などの経典解釈の文などは、比叡のころの研鑽からきているに違いない。源空門下になってから、専修念仏ではない立場の解釈を研究するなどということは考えられないのではないか。

 さすれば善導・源信がしばしば引用する『浄土論』や『論註』も、若き親鸞は精読していたと考えても良いのではないか。ともあれ、信心同一の根拠を「本願成就」という原理と、『浄土論』に表された本願力回向によるということとを、夢の告げを受けるような激しい推求を通して、考え尽くしていったのだといただけるのではないであろうか。「回向を首として大悲心を成就するがゆえに」という言葉に、「大悲心」への深い感動を感ずるとともに、そのことをなかなか肯(うなづ)けなかった自分の自力の執心の根深さに、いよいよ慚愧(ざんき)の念を自覚していったのであろう。それが「弥陀の五劫思惟の本願をよくよく案ずればひとえに親鸞一人がためなりけり」(『歎異抄』、『真宗聖典』640頁)というつぶやきとなったのではなかろうか。

(2009年5月1日)

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第71回「親鸞一人」⑨

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 親鸞は、師法然の選択(せんじゃく)本願の教えを受けて、それを「他力」であるといただいた。その他力は、人間のもっている諸条件を突破して、一切衆生に成仏への根拠を平等に与えるのだ、と。「賜(たまわ)りたる信心」とは「他力が自己にはたらいてくること」の事実であろう。信心とは他力のたまものだと気づくことができたことなのである。

 その他力の信心が『浄土論』の「回向門」の成就であると気づいていくのに、幾ばくかの沈潜の時間があったかも知れない。しかし、他力が単に自己の外に止まるのでなく、自己の内にはたらいてくることで、自己の内に無限なる大悲へのうなずきが起こるのだという受け止めから、「二種の回向」への帰入が夢の中での聖徳太子からの語りかけとして与えられたのであろう、と思う(「聖徳皇のおあわれみに 護持養育たえずして 如来二種の回向に すすめいれしめおわします」など「皇太子聖徳奉讃」〈『真宗聖典』507〜508頁〉参照)。自分の中にそうなのではないか、という思索が深まって、夢による告げが現前してくるのであるに相違ない。

 『選択集』の付属(ふぞく)を受けて、新しい名(「名の字」)を師からいただくまでの時間は、三ヵ月ほどあったのであろうが、この時間が「選択本願」の再確認から「二種回向」への展開の時間だったのではなかろうか。後序(『教行信証』、『真宗聖典』399頁)の語る「夢告」は、親鸞に「二種回向」こそが「本願他力」だと告げる聖徳太子の夢だったのではないか、と推察するのである。このことを師に申し上げたことから、新しい名「親鸞」を源空自ら書いてくださった、と『教行信証』の撰述の事由に書き置いたのではなかったか。『教行信証』の撰集(せんじゅ)者の名が「親鸞」なのだから。

 いうまでもなく、この「名の字」が「善信」であると考えることは、錯誤(さくご)であると思う。

 「釈の綽空」という正名を改めて、師源空が書いてくださったと書いて、これが源空「七十三」の歳であり、『選択集』を書写し、真影を図画(ずえ)したことは「専念正業の徳」であり、「決定往生の徴(しるし)」であり「悲喜の涙を抑えて由来の縁を註(しる)す」のだとまで書いた親鸞が、数年の後に自分で勝手に師からいただいた仏弟子の名前を改めて「釈親鸞」と名告ったのだという理解は、宗祖親鸞を冒涜(ぼうとく)するものといってもよいのではないか。そもそも、仏門に帰することを許されて、師から仏弟子の資格とその名をいただいてきたのが、仏弟子の伝統であり、法名の意味であったのだから、自分勝手に法名を名告ることなどあろうはずがないではないか(「善信」は生涯にわたって「房号」としてもちいられた名前なのである)。

(2009年4月1日)

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第70回「親鸞一人」⑧

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 「利他」の願心を「他力」であると了解した曇鸞(どんらん)の主張は、ちょっと考えると自業自得の因果に抵触するのではないか、と感じられる。にもかかわらず、親鸞はこの他力の本願によって、自己の求道の問題を解決しうると信じ、曇鸞が「利他」を如来のなし得る衆生救済のはたらきだとしたことに、深い意味を感得したのであった。「他力というは、如来の本願力なり」(『真宗聖典』193頁)と言って、この本願力なる他力によって、「親鸞一人」の救済が成り立つとされたのである。

 一般的には、「自利」も「利他」も、菩薩の求道心の課題であり、それを自分で実践することが菩薩道であると考える。しかし、「罪悪深重の衆生」たる「一人」にとっては、この目的を遂行することも、ましてや達成し成就することも、まったく不可能であるという悲しい自覚がある。善導の「曠劫已来(こうごうよりこのかた)の流転と出離の縁なき身を深く自覚せよ」との教言にうなずくなら、この「利他」の言葉が、自己の内から他へという方向ではなく、自己存在の外から、他の一切衆生へのはたらきを示すものとしてしか、了解できないことになる。しかし、自己の外部からのはたらきのごとくに了解するとは、外在的物質のごとき外部の力を措定(そてい)することではなかろう。もしそうなら、自業自得の道理を無視する邪見の思想ということになる。そうではなくて、自力の執心の間違いを言葉で知らせるために、あたかも自己の外から来る力として真実の大悲が表現されるのであると思う。

 それは、たとえば、自己の意識の底に、深層の意識があるというような表現にしても、その深層の意識は日常の自我の意識には、意識され得ない深みのことである。日常を合理的に考慮して始末できると考えているようなレベルに対して、それより深いレベルとは、自分で知覚したり感覚したりできないものであって、あたかも自己意識の「外」としか言えないほどに遠いものなのではなかろうか。「曠劫の流転」を自己自身の背景として感受するものには、流転を超えるようなはたらきは、「他」なるはたらきというしかないのではないか。だから、真実に回復すべき自己とは、日常的自己(すなわち煩悩成就の凡夫)からすれば、「他」なのである。だから逆に愚かなる我らは、無限なる大悲にとっての「他」でもあるのである。

 虚偽でしかないものを自己と感受するものには、真実は「外」というしかない。虚仮雑毒(ぞうどく)を自己と知るものには、真実の大悲は「他」のはたらきなのである。

 他の力に照らし出された自己は、地獄一定(いちじょう)の身であり、「悲しきかな、愚禿鸞(ぐとくらん)」(『真宗聖典』251頁)と知らされる自己である。それを包んで救済せずにはおかないという光明摂取のはたらきは、「利他」の、すなわち「衆生救済」の願力なのである。この関係は、自業自得の因果の「外」にしか起こりえない事実だということでもある。罪業の身には絶対に救いはない、それを覆(くつがえ)すような救いは、「他力」によるしかありえないということである。

(2009年3月1日)

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第69回「親鸞一人」⑦

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 「弥陀の五劫思惟(ごこうしゆい)」のご苦労は、ひとえに親鸞一人(いちにん)がためであるということの裏側に、自利利他の課題が潜(ひそ)んでいるのではないか、ということを考えている。自分の自由意思の達成のためには、他の領域を乗っ取ったり、他に実る果実を奪い取ったりするという、自我中心の「一人」ではなく、如来の大悲に照らされた愚かで罪深い「一人」だからなのである。平等に「一人」の尊さを付与されるような自覚は、他をも如来が照らしているということを知っているに違いない。

 これは自我中心の存在構造を真に変革しうるような「眼」への気づきが、我らに要求されているということなのではなかろうか。このことを一切衆生に気づかせるために自己の内にもよおす「利他」の要求を徹底することを、「大悲」のこころは自己の課題とする。その時に、阿頼耶(あらや)の相分(そうぶん)たる「処」の問題であるものを、一切衆生の身体を包み支える場所の質を転換するという形で、大悲を透徹しようとするのが、法蔵願心の浄土教の意図なのではなかろうか。

 曇鸞(どんらん)はそのことを、浄土の荘厳の意味として「畢竟成仏(ひっきょうじょうぶつ)の道路、無上の方便」(『真宗聖典』293頁)と言う。我らの意識が自我の迷妄で環境を捉えることとして、阿頼耶の相分たる「処」は種子(しゅうじ)を保持する。その場合の処は、凡夫の住処たる穢土の暴風駛雨(ぼうふうしう)の場所である。それは凡夫の意識が自我でしか場所を感じないからである。しかし、その自我の意識を破る大悲の如来の光明海に転じ入れられるなら、その場所は、「至徳の風」が吹き渡る静かな海となるというのである。悲願が我らの意識にはたらいて、我らの意識を転じて「破闇満願」の事実を我らにもたらすとき、「処」は願心荘厳の意味をもってくるということなのではないか。

 無上の方便となった場所は、限りなく穢土を願心のはたらきへと催促するであろう。そのとき穢土は、光明寿命の誓願の果報たる真実報土の意味を具現する場ともなり、至心発願(ししんほつがん)・至心回向の願心がはたらく方便化土の意味に堕することにもなるのではなかろうか。

(2009年2月1日)

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第68回「親鸞一人」⑥

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 自利利他ということは、大乗仏教の標識であるというだけのことではない。生きているということに与えられている根源的な意味なのであると思う。我ら凡夫はそのことには全く気づかずに、何よりも自分が自分で生きているのであり、自分がともかく利益を得ていければ幸福なのだと思いこんでいる。その自分本位の生き様をさまざまな要素で顕(あら)わにしているのが、人間の社会であり、これを仏教では「娑婆(しゃば)」というのである。

 先に触れた「阿頼耶識(あらやしき)」の問題に、人間の中に人間として生存するということがあった。人間は人間の間に生存するものである、ということは『人間の学としての倫理学』(和辻哲郎)で教えられたことであるが、他心智(たしんち)ということが神通力の一つとして数えられるのも、このことが実は一番困難な課題でもあるからではなかろうか。人間はそもそも、共同体の中に生まれ落ちる。そして、共同体の一員として言葉を教えられ、挨拶や倫理的な善悪も身に付けていく。そして、他から見られていることに自己の位置や意味さえ感じるようになっていく。他からどう見られているかに、自分が一喜一憂する存在となるのである。

 この構造には、先に述べた自利利他の満足が課題として与えられているということが、潜(ひそ)んでいるということなのではないか。他の成就なくしては、自己の成就はないということが根底にあることから、他からの批判や評価によって、自己自身の自己評価も動かされるということになるともいえよう。

 しかし、他人は多数あるとともに、他人の深い心は自己にとっては本当のところは見えない。その深みを見通す力を、仏陀は神通力として使って、それぞれの衆生に応じて説法教化するというのである。我ら凡夫としては、見えない他人の目に振り回されるのはつらいが、それを無視することは倫理にもとることになる。その狭間(はざま)に苦しまざるを得ないのである。

 この隘路(あいろ)を突破する方向を求める試みが、「弥陀の五劫思惟(ごこうしゆい)」という思惟の沈潜にあるのでもあろうか。この思惟の課題を自己の存在の成就との関わりで引き受けた言葉が、「ひとえに親鸞一人がため」なのではなかろうか、と思われるのである。

(2009年1月1日)

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第67回「親鸞一人」⑤

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 天親(てんじん)菩薩は『浄土論』において、「自利」なくして「利他」はないし、また「利他」なくして「自利」はない、自利の成就と利他の成就が同時であり交互的である、と押さえている。そして、その利他を「一切の苦悩の衆生を捨てずして、心に常に作願(さがん)すらく、回向(えこう)を首(しゅ)として、大悲心を成就する」のだという。この言葉に本願の大悲心が集約していると、親鸞は感得したのではないか。「如来の作願をたずぬれば 苦悩の有情(うじょう)をすてずして 回向を首としたまいて 大悲心をば成就せり」(『正像末和讃』、『真宗聖典』503頁)と讃歌される所以である。利他の回向には、菩薩因位の自利の功徳すべてを収(おさ)めて、苦悩の衆生に振り向けようとする用(はたら)きが具せられているのだ、と。

 この自利利他の成就ということが、人間存在の根底に深く願われていると、仏道の眼は見抜いてきた。それを物語的に表現するから、法藏菩薩が「一切衆生を救わないなら自分は仏にならない」と誓うのであろう。悲願が誓願といわれるのも、宜(むべ)なるかなである。

 しかし、愚かなわれら凡夫はその根源の願いが見えずに、表層を動く自我の意識に迷わされ、「三界(さんがい)」を流転してしまうのである。この表層の迷妄の覆(おお)いを「覆蔽(ふくい)」という。これも煩悩の異名である。煩悩によって正しく存在を了解する眼を覆蔽されているのだというのである。

 存在の本来のあり方を、仏教では清浄なる法界(ほっかい)という。このあり方を一如とか法性(ほっしょう)とか、さらには涅槃(ねはん)とか寂静(じゃくじょう)とかともいうのだ、と押さえるのが親鸞の定義である。存在の本来性ともいうべき大涅槃とは、それに帰すれば存在本来の用きが顕(あら)わにいきいきと用き出すのである。静かなる本来性がじっと待っているのは、迷妄の覆蔽を破って正しく存在を認知する存在の誕生までであろう。時来たれば、本来の大用(だいゆう)が、本願の用きとなって、衆生に用き出るのだ、それを回向というのである。

 愚鈍の衆生であろうとも、存在の本来が用き出てくる大悲の回向に値遇(ちぐう)するなら、そのおおいなるはたらきに随順して、大悲の願心のはたらきを感受する存在とされる。そこには、罪障の凡愚(ぼんぐ)たる「一人(いちにん)」が、かたじけなくも大悲をこの世で証明する場所となるのである。かけがえのない「金剛心の行人(ぎょうにん)」とほめられる身に転じられるのである。

(2008年12月1日)

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第230回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」①
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第66回「親鸞一人」④

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 阿頼耶識(あらやしき)の相分(阿頼耶識自身の意識の内容となるもの)は、「不可知の執受(しゅうじゅ)と処」であるとされる。不可知の執受とは「有根身(うこんじん)」(身体)と「種子(しゅうじ)」(可能性)である。身体に生命の持続への能力(種子)が付与されて、「場」(処)を感じながら生きていること、それを阿頼耶識というのである。身体的な限定を受けて生命は存続するのであり、その身体には永い生命の歴史を経てきた経験の結果が蓄えられていて、その身体に与えられてくる環境に、適応したり、反応したりして生きていくのである。

 そういう生命である自己自身は、歴史的背景として無数の生命の生まれては死んでいった経験を蓄積しているのみでなく、生まれてきて生きている他の阿頼耶識を「処」の中に感ずる。つまり、人間は人間の中に生活を与えられるのである。

 「慢」の煩悩は、比較の心理であるとされているが、この比較する心理とは、他の衆生と自己とを比較する心理を根底にもつ。これを「我慢」という。末那識(まなしき)相応の四煩悩(我痴、我見、我慢、我愛)のひとつである。これには、「我痴」が前提にあって、「自己」の実相を知らないから、意識が起こるときには、他の阿頼耶識が気にかかるということなのかもしれない。

 自我の意識が起こるところには、常に他人との間で自己が比較されて意識されるので、さまざまな煩悩がそのうえに奮起(ふんき)することになってくるのである。この煩悩の心理が起こることが、自己自身のありかたをありのままに自覚することを、ますます邪魔してくるのである。末那識の作用に付帯する「自我」がらみの煩悩を払拭(ふっしょく)しうるなら、ようやくに「自己」自身が解放されると教えられるのも、こういう根底的な問題があるからのことなのであろう。

 こういう課題を、個人意識の反省や努力、意識の沈静化による寂滅(じゃくめつ)の方向などに求めても、人間存在としての根本的な解決にはならないということが、仏教における求道の根本問題として掲げられてきた。それを大乗仏教では「自利利他」という言葉で押さえてくるのである。自己の根本的な解放と同時に、人類的な解放がそこに同時的になされなければならない、ということ。これが尽未来際(じんみらいさい)をかけてでも果たされなければならないという、如来の願心の内容となるのである。

(2008年11月1日)

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第230回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」①
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第230回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」①  親鸞聖人のお言葉には、人間存在のもつ実相への深い洞察とそこから染み出てくるような懺悔の心が感じられる。このことには、その背後に『大無量寿経』にまで煮詰められた大乗仏道の菩提心の歴史があるのであろう。総願から別願を開示して、この大乗の菩提心を掘り下げるべく歩みを進めるところに、「法蔵菩薩」なる人間像が生み出されてきている。...
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第229回「悲しみを秘めた讃嘆」⑬
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第229回「悲しみを秘めた讃嘆」⑬  本願によって衆生に開かれる「宗教的実存」とは、いかなる構造として表現し得るものであろうか。その構造解明の手がかりを、横と竪という菩提心のありかたから探ってみた。そして我らに開かれる信心の意味に、この世での生き方に対して、超越的で立体的な空間として本願の信仰空間と言うべきありかたが、教えられていることを了解した。...
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第228回「悲しみに秘めた讃嘆」⑫
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第228回「悲しみに秘めた讃嘆」⑫  我らの現実の生存において、宗教的実存を求めてこれを成就するとは、どういうことであろうか。本願の仏教では、阿弥陀如来の本願を信じ、自己の有限なる生存をそのままにして(煩悩具足と信知して)「浄土」に往生し、阿弥陀如来の苦悩の衆生を摂取せんとする志願に随順して衆生済度の志願を輔翼することである、と教えられている。この願心に随順することによって、阿弥陀如来と平等なる仏陀(諸仏)になる、と願われているのである。...

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第65回「親鸞一人」③

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 われわれ人間が、「我」があると感じるのは、自己を成り立たせている身体に生命力があり、生命の持続をするための環境が与えられていて、一個の生命体が生まれて死ぬまでの営みを継続している事実があるからである。この生命現象の事実を成り立たせている個体の実存は、寝ても覚めても変わらない一個の生命体である。これに、唯識(ゆいしき)思想は「阿頼耶識(あらやしき)」という名前を与えた。この阿頼耶識と名づけられる作用、個体の生命を支えている作用を、人間は何時の頃からか、自我だと考えるようになってきた。この自我と考える作用を、われわれは主体の意識の内部に抱えているように感ずるのであるが、それは阿頼耶識それ自体ではなく、恒(つね)に自己自身に一体のごとくに張り付いている自我意識だと見て、それに「末那識(まなしき)」という名をあたえてきたのが、三十頌(さんじゅうじゅ)唯識論である。

 この差違を自己自身と自我意識というように、分けて考えてみたい。つまり、自己を自我だと恒に思い続けているのが、われら妄念の衆生の自己認識なのである、と。その自己を自我だと考える立場を批判して、自己自身に返(かえ)れというのが、仏教の方向なのである。我(が)は無いといっても、自己が無いというのではないのである。このことを論理的に解明しようとして、主語的論理が「自我」から発想するのに対して、「自己」を表現するということには、述語面からの論理とでもいうものが有ると、西田幾多郎(1870〜1945)は言いたかったのではないか。

 日本語の表現に、状況の了解が前提されていて、場の雰囲気を共通に理解したえうで、言葉が出されてくるという特質があるといわれる。この場から出てくる表現の基底に、仏教思想からの影響があるのではないか、と井出祥子(社会言語学者、東北大学客員教授)氏が指摘しておられた。このことと、自己と自我の差違を自覚することによる言語表現のあり方に、何らかの関連があるのではなかろうか。

(2008年10月1日)

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第64回「親鸞一人」②

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 場を自覚し「わきまえ」て、そこから表現が出てくるというところに、日本語の独自の言語表現がある、という井出祥子教授(社会言語学者、東北大学客員教授)のお話をいただいたのだが、この折りの研究会の内容の一端を『親鸞仏教センター通信』第27号に載せているのでご参照いただきたい。

 「わきまえる」ということは、自己が現にどういう状況やどういう位置関係にあるかということを、表現に先立って理解していることを前提にして、表現がなされるということである。それを自己がいかなる場所に置かれているかを「わきまえ」てのうえでの言語表現であるというのである。西欧の言語は、そういう場の前提を考慮することなしに、自我が何をしたいのか、どういう行為をするのか、と発想するところから、文法も文脈も出てくるので、場所のこともいちいちについて言語化しないと状況が成り立たないのだという。

 日本語のこの場所的な自覚ということは、「自己」のありようが常に自己が置かれている状況と切り離すことができない、という「自己認識」であることからくる。生きるということは、状況との対応なのであるから、当然といえば当然なのだが、とかく人間は「自我」を強く感じて状況と切り離された自我があると考えがちである。だから、こういう場所的自覚を前提にした言語表現の成り立ちには、長い歴史の歩みのなかで仏教の人間観からの影響があったのではないか、というのが、井出教授の指摘なのである。

 特に近代の人間観は、「自我」になにか人間独自の意味内容があるかのごとき先入観から出発してきたところがあったのではないか。西欧的な人間観や言語表現を前提にして成り立ってきた近・現代の人間観を仏教から見直してみなければならないのではなかろうか。

 仏教の人間観からするなら、「主語的我」は、自我の執着が「自己」を「自我」だと愛着して、変わらない実体のようなものを想定してしまっているのではないか。それならば、西田幾多郎の言葉を借りてみるなら、「述語的自己」とは、一体どういうことになるのであろうか。

(2008年9月1日)

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