親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

第62回「〈宿業〉について」

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 法藏菩薩の願心には、「志願無倦」と表現されるような、止むことのない願心の持続があるという。これを大願業力ともいう。願が業といわれるような、持続する力といえるようなことだというのである。

 法藏菩薩という名が、我ら一切の衆生の救済を念じ続ける願心を示すものであり、その願心が、人間の深層的な暗部に行為経験の結果が蓄積されるごとく、宗教的な解放への意欲の可能性をささやき続けるというのであろう。

 自業自得がこの世の因果である。この場合の業は、自我の意欲から行為を選択することによって、その結果が自己の存在の深層に刻み込まれる。自らこの世のつとめを生きて、その結果を自分が引き受けつつ、自分になっていくのである。しかし、その因果を作り出す因そのものを、自我の思いで捉えているところに、身動きできないような固着がある。すなわち阿頼耶を自我だと執着する末那識に執蔵されて、業の繋縛を蓄積しているのである。

 そしてその因に与えられる縁についても、自我が勝手に選び取れるような思いが抜けない。縁を偶然のものと感じるものの、その縁を自分で選べるのだと思っているから、そうできない場合は不運であり、不遇であると苦しむのである。

 我らの心身は、自我の思いのごとくに生まれ出るのではない。遠く深い因縁の背景を賜わって、この世に、そしてこの時間に、心身を受けるのである。そして、あたかも偶然のごとくに、生きるための諸縁が恵まれてくるのである。この深い因縁を感受する自己には、与えられる縁は、遠い宿縁のもよおしである。ここに偶々命を感受するものは、遠い因を感謝し、深い縁を頂いたものとして、この苦悩の実存を引き受けることができる。すべての歴史的な因縁の結果を、全面的に引き受けている主体を、異熟なる阿頼耶識というのであろう。それを真に尊い主体とする自覚が、法藏菩薩の意味なのではなかろうか。

(2008年7月1日)

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第61回「〈宿業〉について」⑨

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 われらの経験の一切を黙って引き受けていくものを、「阿頼耶識(あらやしき)」と名づけている。一切の経験とは、三界〈さんがい〉(欲界〈よっかい〉・色界〈しきかい〉・無色界〈むしきかい〉)の全経験、すなわち迷妄(めいもう)の晴れない状態での生命現象の一切である。たとえそれが美しい状態、例えば美的経験(音楽や美術など)であっても、抽象的な数学理論を考えるような経験であっても、三界の中に包まれる。仏陀・釈尊が、われらの生存に起こる一切の経験の本質を「一切皆苦」と見抜かれたのは、状況がどうであれ、経験を覆(おお)うような意識の深層の暗さに気づかれたからである。そこから「三界を超えよ」という言葉が出てくるのである。つまり、われらの経験の範囲(三界の内)には苦悩を超える手だてはないというのである。そういうことからすると、宿業(しゅくごう)経験を蓄積する阿頼耶識には、三界を超える可能性はまったくないというべきであろう。

 一方、法蔵菩薩とは一切の衆生を救済したいという大悲の要求の主体である。その救済は、浄土を通しながら、一切衆生を真如法性(しんにょほっしょう)の世界に導こうとするのである。つまり、三界を出ることができない衆生に、三界を超えた世界を恵もうというのである。この願心は、したがって先の三界の経験界を超えているのである。この超えられない限界を超えさせようという矛盾を承知のうえで、なぜ曽我量深(1875〜1971)は「法蔵菩薩は阿頼耶識なり」と言うのであろうか。

 曽我量深はこういう類のテーゼを提起するとき、必ずこの逆は成り立たないということを付言する。法蔵菩薩は阿頼耶識であるが、阿頼耶識は絶対に法蔵菩薩ではないと言うのである。妄念の経験からは、決して大悲願心は生まれてこない。人間の世界には、小慈小悲(しょうじしょうひ)がふさわしい。いな、親鸞は「小慈小悲もなき身にて」とすら言っている。大慈大悲(だいじだいひ)は、三界を超えたところからのみ発起(ほっき)しうる。有限の条件を問わないのであるから。この大悲を実践的に表現する名告(なの)りが、法蔵菩薩である。絶対に超えられない深淵(しんえん)を、必ずや超えさせようとする願心であるから、「兆載永劫(ちょうさいようごう)」に倦(う)むことなくはたらこうと誓うわけである。

 こういう願心との感応は、深い苦悩のどん底での、一筋の光との値遇(ちぐう)のごときものなのではないか。その値遇の必然は、兆載永劫のご苦労から来るのである。この苦労は、救われる可能性のない三界の妄念の生活をも支えて、気づかれるまで待ち続けている願心のなすところである。実は、宿業を貫いてこの願心が歩み続けているというご苦労がないなら、われら三界の衆生は、決してこの三界を超えようとさえしないのである。宿業の蓄積場こそは、法蔵願心が菩提心を燃焼させる大悲の場所でなければならないのである。すなわち無限大悲は、いかなる愚かで罪業深重(ざいごうじんじゅう)の衆生(しゅじょう)たりとも、その大悲のはたらきの場所にするのである。だから、この法蔵願心は、阿頼耶識とならねばならないのである。

(2008年6月1日)

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第60回「〈宿業〉について」⑧

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 われらの実存の事実を「宿業(しゅくごう)」が支えている。この「宿業」といわれる自己の過去の背景は、いったいわれらのどこに蓄積されているのであろうか。これについて、唯識(ゆいしき)思想においては、われらの意識の深層に「阿頼耶識(あらやしき)」と名づける意識を見いだし、その阿頼耶識に経験の結果が蓄積されて、新しい経験の可能根拠となっていると考えている。行為や経験が起こると、その影響(熏習〈くんじゅう〉)が次の行為・経験の可能性に何らかの変更をもたらすのである。その動き行く可能性の蓄積の場所を、阿頼耶識と名づけるわけである。阿頼耶識は、その可能性(種子〈しゅうじ〉)と身体・環境を持続的に感覚する用(はたら)きである、といえよう。

 一人の人間には、その人独自の身体と、その人だけの一回限りの人生が与えられる。それを別業(べつごう)の所感という。その人独自の業の蓄積が、その人独自の人生を引いてくるというのである。それを「業報(ごうほう)」というのである。その業報を引き受けている場所が阿頼耶識なのである。すなわち、後戻(あともど)りも繰り返すことも、取り替えもきかないこの一回限りの人生を、責任をもって生きている主体が、阿頼耶識なのである。そういう実存の責任とは、いわゆる行為の責任としての倫理的責任ではない。誰にも取り替えられない一個の実存の責任感である。つまり、存在の責任感である。

 その責任感は、一切衆生を荷負(かふ)して永劫(ようごう)に歩み続けようと発願(ほつがん)する法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)の意味と重なる。この法蔵の志願は、どのような苦悩の実存であろうとも、逃げようとすることなく黙って担(にな)って生きる阿頼耶識と共通の意味があると感得したのが、曽我量深(1875〜1971)であった。「法蔵菩薩は阿頼耶識なり」というテーゼは、業報の場所たる阿頼耶識を、迷いの人生の主体であるのみならず、その苦悩の実存を担う志願という意味もあると感得したということであろう。われらの表層の意識は、そのときどきの状況を映して移ろいゆくが、その経験の全体をいつも背負って生きているものは、決して変わることのない一個の実存の主体である。その主体が自己自身を真に自覚することは、困難である。深層意識なるが故である。その主体に気づこうとする意欲が、如来回向(にょらいえこう)の求道心なのだということなのではないか。だから、その求道心こそ、深みの阿頼耶識なのではないか、というのであろう。

(2008年5月1日)

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第59回「〈宿業〉について」⑦

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 「宿業(しゅくごう)」が、生得的な生存に付帯する生命力に関わるものであるというところまでなら、良く考えれば、肯(うなず)けるところであろう。ところが、この言葉が難しいのは、生きているところにぶつかってくるさまざまなことがら、人との出会い、事件との出遭(あ)い、その他の生きているところに与えられる諸条件も含めて、運命的というほかないようなその人の出遇(あ)いにも、使用されることがある。特に、時代の状況や社会的な環境汚染などによる被害にすら、この運命的決定を意味する「宿業」の語を用いてきてしまうことがあった。

 人間の努力や配慮で避けることが可能なことにまで、不可避なことと諦(あきら)めよ、というような強圧的命法の意味に使ってしまうことすらあった。特に、歴史的社会的な政策や人為によって生み出されてきたものに、この言葉がもつ運命的な制約の面を押しつけてきたのである。こういうことによって、「宿業」という言葉自体までが、悪意あるものにされてしまったところもあると思う。

 言葉には、その内包に説得的な真実をもつこともあるのだが、それが悪用されることが必ず起こってくる。言葉を取り巻く文脈がその言葉を使う人に依って変換されるときに、言葉の意味が逆作用を起こしうるのである。この点をしっかり見極めつつ、人間の苦悩の根に潜(ひそ)む一回の実存への、怨念(おんねん)のような思念を乗り越え、そしてそこから逃避的にしか人生を見られなくなることの悲劇から脱却するために、運命的限定ともいえるような存在の背景を受け止めていかねばならない。人間の生きていく事情に関わる面にも、たしかに不可思議の因縁としかいえない出遇いがあるし、事故や病気等にも、まったく偶然の出遭いもある。しかしこれらには、宿業という概念を入れることを控えていくべきではないか。その境界の見定めは困難なこともあるが、できるかぎり生得の生存を限定する背景として、いったんはこの言葉を押さえておきたい、と思う。

(2008年4月1日)

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第58回「〈宿業〉について」⑥

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 宿業(しゅくごう)が「本能」であるという曽我量深(1875〜1971)先生の言葉を考察している。この本能とは、生命維持のために与えられている生得の能力ということが、もとの意味ではあるが、それを宗教心の問題に応用しようというのである。特に、「宿業」という言葉に当てるということには、個体の存在にとって自己の存在の根源にすでに与えられている生得的な性質が共通するということがある。

 しかしこの対応に、初めちょっと違和感を感ずるのは、本能には生命にとってのいわば前向きな能力という意味が強く感じられるのに、「宿業」というと、自己を束縛したり、自己に運命的に乗っていて生存を制約するような意味が強く感じられるからであろう。

 われらの実存は、よく考えてみれば、この運命的な制約に縛られているということのほかには、決してあり得ないのではないか。この決定的な制約を、自己の存在を成立させる根本限定として自覚的に引き受けてこそ、一回限りのこの実存を納得できるのではないか。それを存在の使命として呼びかけようとするものが、「法蔵願心(ほうぞうがんしん)」の意味だと信知するところに、宿業を宗教的な本能の出所だとする肯(うなず)きがあると思う。

 「業報(ごうほう)」という言葉は、重苦しい。この言葉を吐(は)かざるを得ないのは、どうにもやりきれないつらい事情にまつわられている場合だからであろう。しかし、どうにもならないということは実存の事実であって、どうにかなるのは、その事実を受け止めたうえでの、いわば上層部分とでも言うべきところなのである。確かに、人間同士の努力や個人の真剣な精進でどうにかなる部分もある。しかし、それでも業報としか言えない限定を離れることはできない。そういう重くて暗い存在の限定を自己に担(にな)おうという志願が、「法蔵願心」にはあるのではないか。「十方衆生(じっぽうしゅじょう)」を、その存在の条件の云何(いかん)を問わず引き受けようということ、そしてなかでも罪業深重(ざいごうじんじゅう)の衆生を救い遂げなければ、自己も成仏できないということには、どのような暗い運命をも引き受けて生きてはたらこうという志願に通ずるものがあるということなのではなかろうか。

(2008年3月1日)

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第57回「〈宿業〉について」⑤

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 「本能」という言葉は恐らく、生命存在が生まれてくるときすでにその命のなかに与えられている能力に、名を与えたものであろう。教えられないのに、ちゃんと親からその能力を受け継いでいるから、生き延びていけるのである。教育されて身に付けていく能力と異なり、生物に本来与えられている能力ということである。それぞれ、その種に生まれ落ちれば、当たり前のように親と同じ能力が与えられる。この能力も、しかし生まれてしばらくの間に使用しないと、開花しなくなることもある。例えば、動物のほとんどは、眼があり、見る能力がある。しかし、生まれて光がない状態をしばらく与えられると視力は機能しなくなってしまうのだそうである。音を聞く能力についても同じことらしい。

 人間には、理性の能力が付与されるようになって、この力が生きるために大きな部分を果たすようになったことから、生物として本来与えられてきた本能が、次第に弱まり、それをまた理性が代替して生き延びてきた、と言われる。つまり、本来の能力といえども、使用しなければ、衰えたり、ほとんど無くなったりするということである。

 しかし、生きるということには、本来その生きるための力が、先祖代々、その身のなかに伝承されているのである。その本能的能力と、それを持続する身体を支える環境がある。その全体を意識の内容とするようなはたらきに「阿頼耶識(あらやしき)」という名前が与えられた。だから、阿頼耶識とは「不可知(ふかち)の執受(しゅうじゅ)と処(しょ)と了(りょう)」であるとされる。

 「不可知の執受」とは、「有根身(うこんじん)と種子(しゅうじ)」であるとされていて、「処」とは環境のことである。「了」とは意識作用ということである。「有根身」とは、さまざまな感覚作用をする器官を総合して生きている身ということである。「種子」とは、生きる可能性を含め、あらゆる意識作用の能力のことである。この阿頼耶識に与えられている生命力は本能的であるから、宿業(しゅくごう)の所与であり、業報(ごうほう)の異熟(いじゅく)たる識だと言われるのであろう。

 そういう生命力の深みと宗教的要求とが密接に結びついているから、宗教的要求が「人心の至奥(しおう)より出(い)ずる至盛(しじょう)の要求」(清沢満之)であるということなのであろう。「帰命(きみょう)」とは「本願招喚(しょうかん)の勅命」であると親鸞が言うのも、真実の喚(よ)びかけに帰せずにおれないということが、本来の生存の根源から出てくるいわば本能的な命令なのだ、ということを表しているのであると思う。

(2008年2月1日)

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第56回「〈宿業〉について」④

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本多 弘之

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 「宿業本能(しゅくごうほんのう)」という曽我量深(1875~1971)の言葉を、先回ご紹介した。このことをもう少し考えてみたい。

 「宿業」こそが宗教的な要求の根本の原因であると感ずるところに、この言葉の力がある。そして、このゆえにどのような状況を与えられた人間であっても、本能的な深層の要求として求道心が与えられているのだという人間存在への信頼が、仏陀の大悲の眼だということであろう。だから、「われらが如来に気づくよりも前に、如来がわれらのことを気遣(きづか)っていてくださる、われらが如来を信ずる前に、如来がわれらを信じていてくださる、われらが如来を愛する前に、如来がわれらを愛していてくださる」と曽我量深は語るのである。

 いわゆる「本能」とは、生命のいとなみの歴史によって蓄積された不思議な能力である。生きているということは、単なる物質の変化ではない。一つの個体を持続するべく、それぞれの個体は独自の生命現象を営んでいるのである。だから、生きていることそれ自身も、いわば生きようとする本能によって成り立っているとも言える。この能力は、生命のどこに蓄積されるのであろうか。部分と全体とが交互に作用し合いつつ、生命現象を持続するいのちのどこに、この本能が蓄積されるのか。この問いに対して、物質的な部分や場所ではなく、本能を蓄積するような作用のありかを、深層意識にあるのだと仮定するものが、唯識(ゆいしき)思想の「阿頼耶識(あらやしき)」なのではなかろうか。阿頼耶識は「異熟識(いじゅくしき)」とも言われる。これは、業報(ごうほう)の果が熟成されて、可能性となって蓄積されるように作用しているはたらきだ、ということである。行為の結果が、その痕跡を個体の中に蓄積して、念々に変化しつつ持続するのである。

 ある事実に言葉が当てられると、どうしてもそれに相当する実体があるように考えてしまうのが人間の癖である。阿頼耶識も、あらゆる意識や行為経験の一切を蓄積して、新しい意識作用を呼び起こしてくる作用があるから、その作用に名を付けたのであって、実体を言うものではない。よく誤解して、これを「霊魂のようなもの」と解釈する学者がいるが、これは名の意味と実体とを混乱しているのである。阿頼耶識という名前は、生命作用や意識作用を成り立たせている「本能」的な作用のことなのであると思う。

 この本能的な作用に、深く宗教的な要求が根ざしているという見方から、「法蔵菩薩は阿頼耶識である」という、曽我量深の独特の発言が出てくるのである。宿業を担うはたらきには、良いも悪いも選ぶことなく、起こった事実の痕跡を引き受けるところがある。それは、善悪を問わず一切の衆生を担おうという「法蔵精神」と同質だというのではなかろうか。

(2008年1月1日)

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第55回「〈宿業〉について」③

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本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 本願について、曇鸞(どんらん)は「大願業力(だいがんごうりき)」と言い、阿弥陀の仏力について「自在神力」と言っている。大願が成就して報身(ほうじん)・報土(ほうど)となるという『大無量寿経』の物語において、その因位の法蔵菩薩の願に「業力」という言葉を使うのである。果の仏力に「神力」をいうのは、仏土を住持(じゅうじ)し、その仏土に触れてくるものに「不虚作(ふこさ)住持」のはたらきを恵むためである。この住持力に包まれれば、もう求道心が「不破不壊(ふわふえ:破れず壊れず)」であるとされ、功徳(くどく)の宝海に満たされるといわれる。浄土の功徳にいったん触れるなら、もうその仏力の摂取の範囲からこぼれ落ちることはないという。しかし、それに先だって本願の力に業力ということをいうのは、どういう意味であろうか。

 曇鸞は、『浄土論』の偈(げ)を解釈して『浄土論註』の上巻とし、解義分(げぎぶん・天親菩薩自身の解釈部分)を解釈して下巻としている。この上巻の釈には、ある国土をみそなわして苦悩の状況を見て、それを取り除くべく本願を起こすといい、その願の内容が荘厳功徳の言葉の意味となっていると見ている。そして下巻は、成就した国土の不可思議力を語るのだという。これによって考えれば、願力はこの苦悩の娑婆界に対応して、衆生を救済しようとする願心を表現するものであるといえる。

 それについて想い起こされるのは、曽我量深(そがりょうじん 1875〜1971)が「宿業(しゅくごう)本能」ということを言われたことである。本能とは、生物に与えられている本来的能力である。人間の理性や分別以前の力である。この本能という語で、法蔵菩薩の物語が言い当てようとする衆生の宗教的な要求を考えようとしているのである。

 この場合、「宿業」は衆生の実存を繋縛(けばく)する業報(ごうほう)であることが、実はその衆生の生存を成立させている能力でもあるということを、言うのである。生存能力ということをよく考えてみれば、確かにわれらに与えられている生命の諸能力は、先祖伝来の生活歴が蓄えてきた不思議な生命の「記憶のたまもの」であると言えるのではなかろうか。

 その業報に重なって、宗教的願心の歩みも、衆生の本能となって歩んでいるのだ、ということであろうか。業報とは、ある意味で負の連鎖に苦しめられることでもある。これが不条理なる逆境から脱出させない縛(しば)りにもなっている。これを超え出させ、マイナスをプラスに転じさせたいという願いが、無限の時をかけてでも業繋(ごうけ)を破らせて、願力自在を感受する場に翻転(ほんてん)させようとする、そういう意欲が本能の如くはたらいているということであろうか。

(2007年12月1日)

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第54回「〈宿業〉について」②

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 宿業(しゅくごう)からの解放が、牢固な階級的枠組みを解体する基点になる可能性はある。しかるに、『歎異抄』はわれらの一挙手一投足は、宿業にあらざるはないという。これは、われらの存在に背負わされた「業」の重荷から、逃れるすべなどはない、というのであろうか。

 仏陀が示したように、われらを纏縛(てんばく)しているものから完全に解脱(げだつ)しうるなら、自己に背負わされている過去の一切の業の蓄積からの解脱も、当然獲得できるのであろう。しかるに、親鸞の自覚では、われらは一歩たりとも煩悩の淤泥(おでい)から足を抜くことはできない。煩悩具足の身には、罪濁(ざいじょく)から身を離すことなどありえない。だからして、自己の背景たる宿業も一瞬たりとも離れ去ることなどできない。では、われら凡夫には、苦悩の実存を超える道はないのか。いや、そうではない。そこに開かれている道が、本願力(ほんがんりき)による救済なのだ、というのである。

 浄土教は、業報(ごうほう)の存在に対して、法蔵菩薩の願行(がんぎょう)を対置し、報身報土(ほうじんほうど)を開いて、業繋(ごうけ)が除かれることを表している。自力の修行や学問の成果で、大涅槃(だいねはん)を獲得(ぎゃくとく)するという道ではなく、罪業深重(じんじゅう)の愚かな存在であるにもかかわらず、大悲の願心の功徳を信受するとき、大涅槃が必然としてわれらの未来に開示されて、業報の身のままに業繋がその縛(しば)りの力を失うというのである。すなわち、有限のわれらがそのまま無限になろうとするのでなく、有限を摂してはたらいてくる無限大悲に身をまかせて、障(さわ)りを障りとしない「無碍(むげ)」の光明に照らされつつ生きていく、というのである。現世において、有限を無限にするという絶対の深遠を突破したり、その限界を解決してしまうのでなく、有限は有限でありつつ、未来からの無限の用(はたら)きを信じて、有限の全力を尽くして、それぞれ相応の仕事をさせていただく道があるというのである。

 この大悲のはたらきに寄託(きたく)するとき、業報はむしろ自己の存在を他に変えることのできない尊厳性の意味となる。針の莚(むしろ)のような現前の苦境は、二度とない一回限りの生死巌頭(しょうじがんとう)の事実となる。もちろん、人為的な操作や努力で変更したり変革しうる苦境は、有限界内の事態として解決すべきところを解決していくべきであろう。いま言うところは、その有限の限界を超えるところの問題である。あるいは、そういう有限の事態の根底にある本質に関わる問題だと言うべきかもしれない。

(2007年11月1日)

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