親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

第30回「他力の努力」⑥

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 宇宙空間には、何かのはたらきが充満しているが、人間にとっては「真空」としか感じられない、ということがある。そのはたらきがあるから、電磁波とか光が伝わるのである、と言われるが、そういうことはよく分からない。普通は時間と空間とを分けて感じたり考えたりしているのだが、そういう「場」では一番の根本のところで、本当は時間と空間とは連関するものであって、人間が感覚できるような状況のみが「実在」しているのではない。「在る」ということと「はたらく」ということが、ひとつだというのである。

 だから、最新の科学的知見は、仏陀のいわゆる「因縁」にして無我だということを、ミクロのレベルで実証しているところがあるとも言われるのである。しかも、それは単なる理論にとどまらず、実際に応用されて現代の先端技術ともなってきているのである。

 ところが、そういうことがいくら証明されたにしても、現実のレベルに埋没しているわれらの日常的意識は、がんとして自我があって、時間と空間がそれぞれあるというように感じて、その感覚それ自身を変革しようとはしないのである。

 普通には、そういう常識的(一般的)感覚で、日常にことさら差し障りがあるわけではない。いな、むしろそういう感覚で生きることが、人間社会の健康性を保持させているようでもある。しかし、最近、それだけではどうにもならないことがあると気づいて、「場」の理論を取り入れて、人間の健康ということを考えようとする人が出てきている。

 われわれが生きているということは、実は気づかずにそれに乗っている「場」があって、それに支えられている。しかし、普段は自覚されるような何かとして現象化していない。忘れられている大地のようなものである。これを自覚することで、われらは本来のいのちのはたらきをよりよく生きられるというのである。

(2005年12月1日)

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第29回「他力の努力」⑤

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 「他力本願」という言葉は、自分以外の他の力や自分の外の因縁に期待して、自分は何の努力もしないことを表すかのように理解され、そういう意味の文脈で使われてしまっている。けれど、仏教語としての「本願他力」はそういう意味ではない。何の努力もしないということではなく、努力にまつわる執着を明示する言葉なのだと思う。

 仏教の究極の覚(さと)りを「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)」(無上菩提〈むじょうぼだい〉)というが、この覚りの内容を「大涅槃(だいねはん)」という。『涅槃経』では、涅槃は解脱(げだつ)でもあり法性(ほっしょう)でもあり、一如(いちにょ)でもあり法身(ほっしん)でもあり、仏性(ぶっしょう)でもあるという。こういう一連の言葉は、動きゆく意識の内容に捉えられる物事ではない。こういうことを仏教の学びにおいては、「無為法(むいほう)」という言葉で表している。

 無為法は、人間の有為(〈うい〉・時間や条件とともに動いていくこと)の行為や努力や学問では、絶対に包むことができない分位なのである。人間の限界を超えた領域なのである。けれども、人間はそういう次元の覚りに触れなければたすからないのだ、というのが仏陀の教えの本質なのである。サンスカーラという言葉は、一切の存在する物事を表わし、その移ろいゆくすがたが、「諸行無常(しょぎょうむじょう)」とか「生死(しょうじ)」とかと言われるが、そういう認識を翻(ひるがえ)して、「動くことのないこと」(不動心)や時間とかかわりなく、変わらないこと(金剛心)に触れるということが、仏陀が示した方向なのである。人間の限界を超えた無限の境位を、仏智見(ぶっちけん)に立つなら獲得できるとするのである。

 こういうことを探し求めるときに、自己の限界を見定めざるを得なかったのが、浄土の教えをよりどころとした伝承なのである。すなわち、自分自身はこの世では決して覚りを開くことができないから、本願他力の如来の世界に生まれて、不変の境位(不退転〈ふたいてん〉)をいただこうというのである。こういう認識と自覚は、自我意識と努力意識でこの世が成り立っているということに執着している「常識世界」にとっては、とても理解し難いことかもしれない。そこに、「信ずることは難しい」ということが教えられるのである。

(2005年10月1日)

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第28回「他力の努力」④

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 「人事(じんじ)を尽くして天命(てんめい)を待つ」ということが、普通の処世の常識的な態度というものであろう。この一般的な人生態度に対して、明治の近代化に急ぐ日本の状況のなかで、「天命に安んじて、人事を尽くす」という表現をしたのが、清沢満之(1863~1903)であった。常識の人生訓を逆転して、人生を動かしてくる「他律的」な要素を引き受けて、それに安んずるというのである。このことは単に自己に都合の良い場合のみではなく、いわゆる逆縁であろうとも、天命として引き受けて人事を尽くそうという信念なのである。

 近代日本の大きな流れにおいて、一般的な人生態度がいつの間にか、弱肉強食の競争主義を追いかける近代主義に、すっかり巻き込まれていってしまったのに対すると、「天命に安んずる」と言いつつも、「他」なるものに自己を失うのではなく、自己を外物他人の領域から引きはがして、自己を全面的に成り立たせている「絶対無限の妙用」に安住するところまで確認するのである。これはエピクテタス(55頃~135頃のギリシャの哲人:エピクテタス氏教訓書)に出会ったことを縁として、「自己とは何か」という問いを明白にしていくこととも重なっている。

 「現世を『濁世(じょくせ)』と見よ」と仏教は語りかけるのだが、この世界を濁(にご)らせるものは、私たち人間の欲望(煩悩の一つである「貪欲(とんよく)」で、仮に代表する)だと自覚させるのである。この濁りは単に個人が創り出すものではなく、人類の歴史と共に積み重ねてきた「劫濁(こうじょく)」といわれる面もある。しかし差し当たって、自分がこれにどう関わるのかというとき、これを増殖する方向で関わるのでなく、これを少しでも清める方向で生きようとして見よ、という呼びかけが仏陀の「八正道(はっしょうどう)」であろう。しかし、濁りの重さはとても一人で背負えるような質のものではない。それを背負おうとするなら、腰が抜けるか、肩が砕けるかということになろう。

 本願他力という教えは、一切の人類に濁世を超えて、濁世を清める方向へ生きていく力を与えようとする、人間への深い信頼なのではないか。個人でできるかできないかということではなく、こういう方向への無限なる悲願を信ぜよということではないか。これに乗託(じょうたく)して、全力を尽くしてこの世を「人事を尽くす」場として生きていくことができるのではないか。こういう意味が「天命に安んじて、人事を尽くす」という表現の裡(うち)にはあるのではなかろうか、と感ずることである。

(2005年9月1日)

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第27回「他力の努力」③

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 普通、人間の努力とその結果との関係について、「人事(じんじ)を尽くして天命(てんめい)を待つ」ということが言われている。「人事を尽くす」ということは、先回に触れた「自業自得(じごうじとく)」の「自業」について言うなら、自分のできる限りにおいて全力を尽くして努力をするということであろう。しかも、それでもその結果は「天命」を待つしかないところがあるというのである。

 その結果としての「自得」とは、結局、自分にもたらされてくる厳粛な人生の事実である。その事実について、私たちはいやでも自分で引き受けていくほかはない。けれども、その逃げることのできない人生の事実を引き出してくる原因に、自分の側からは運命的としか言えないような「天命」が絡んでいることがあるということ、これがこの人生の恐ろしいところでもあり、不可思議(ふかしぎ)なところでもある。

 この人生にまつわる不思議さについて、近代日本の教育においては、あまり触れようとせずに、「努力・勤勉・精進」というようなことのみを価値とし、努力によって個人の階位を上げさえすれば、人生の良い結果は付いてくるように教えてきたのではないであろうか。特に、アメリカから入ってきた戦後の民主教育は、平等という前提の下に、「人事を尽くす」ことによって、「幸福な結果」が来るといわんばかりの志向があったと感じられるのである。

 仏教は、人間の現に受けている現実について、「宿業因縁(しゅくごういんねん)」ということをいう。一人ひとりの人生の事実には、運命的な因縁との出合いがあり、不可思議としかいうことができない巡り合わせがある。だから、この科学的な時代に「占い」がはやり、自分にわからない運命的なものを知ろうとすることが起こるのである。確かにある程度は、その人のもっている雰囲気とか骨相とか顔つきとかから、何かその人に乗っている天運のようなものを見透してくるような能力の持ち主もあるのかもしれない。

 仏教が言うところの宿業とは、現在の事実にまでなってきた過去の一切の因縁である。自分で記憶しているだけの過去ではなく、言うなら生命の始原以来のすべての営みとの出合いの結果が、現在の自分にまでなったとでも言うべきことである。しかも、それを黙って引き受けている事実がここにある。普通には、それを知ることができないから、自分がここ(此)に出合う事件を「運命」だと感じてしまうのではなかろうか。

(2005年8月1日)

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第26回「他力の努力」②

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 「他力」という考え方には、私たちの日常の経験で、当然とされていることとの間の食い違いのようなことがある。普通、日常の人間の営みは、自分のことには自分の判断とその結果への責任があるとされていて、これが「自業自得(じごうじとく)」という言葉で押さえられている。

 だから、自分の努力や精進によって、それ相応の結果が与えられるものだ、という信頼が人間関係を安定したものにしているところがある。

 最近の金融の危機に際して、どこの金融機関との関係をもつかは、「自己責任」だということがいわれた。一般的にどういう関係を取るかというときでも、それに当たっての選択は自分で選ぶのが当然である。しかし、この場合には、一般の市民には選ぶための正しい情報がほとんど与えられていないのに、選んだ責任は自己責任だというのはおかしい、といわれてもいた。危機的状況にある金融機関を、それにもかかわらず自分であえて選ぶという場合の自己責任とは話が違うからである。  この場合に歴然としているように、われわれは与えられた状況のなかで、それなりに自分の選びで自分の状況を選んだり、選びなおしたりして生きていくのだから、結局、自分に与えられてくる事態は、自分の責任なのだということが常識になっている。それに対して、「他力本願」は、自己責任の放棄か責任回避ではないか、という非難がこの言葉の使われる場合に、いつも付いてまわる付帯するのではなかろうか。

 「他力の努力」という言葉で、その疑難の壁に風穴を開けたいというのが、加藤典洋先生(早稲田大学国際教養学部教授、文芸評論家)の思いなのであろうかと思う。他力というとその力は自分の外から、いわば運命的にはたらくもののように思うのだが、もともとこれは仏法に触れていくための「増上縁(ぞうじょうえん)」(一切の条件)を表そうとするために、曇鸞大師(どんらんだいし:北魏の僧476~542)が使われた言葉であった。世俗を生きるわれら凡夫が、純粋清浄なる仏陀の智慧に触れるための条件は、人間を超えた仏陀からのはたらきによる他はないということだったのである。自分からの選びの可能性が全くないというべきか、あるいは選びそれ自体も、すでに運命的に与えられた仏陀からの力なのだ、と信知するような意味なのである。

 「自業自得」という言葉に関連して言うなら、自業のなかには、濁世(じょくせ)の行為のみしかないし、それは迷没流転の積み重ねでしかありえない。仏法からするなら、自分という存在は、すべて与えられた状況を、与えられた生命の力によって生かされている、と頷くことだというのであろうか。一応、自己責任と言ってみても、大きくは歴史的にも状況としても、運命的なのだ、いうことなのかもしれない。

(2005年7月1日)

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第25回「他力の努力」①

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 「他力の努力」とは、いわゆる努力ではないのであろう。普通には努力するというときの意識に、必ず意志を動かして「努める」ことが必要となる。いわゆる努力意識である。これを仏教では問題にする。道を求めることも、その要求のために修行を積んだり、学問をすることも、すべて人間の努力意識による自己策励なしには持続し得ないのであるが、努力意識がある限りは、それに疲れたり、そのこと自身への無意味感に苛(さいな)まれたりする。だから、求道する菩薩たちは、この「努力意識」ということに、深い自己矛盾を見いだしてきたのである。

 菩薩道では、意志に付帯する努力意識を、「作意」と書いて「さい」と発音する。一般には「さくい」と訓(よ)むが、その場合でも、人間の行動の動機に、なにかあまり好ましくない意図が潜むことを言うものである。作意(さくい)には、悪意に近いようなものがあるが、人為(じんい)という場合にも、よろず人間が関わる限りの出来事に、なにか自然界とは異なったものであることへの居心地の悪さのような気づきがある。

 大乗の菩薩の求道は、あらゆる生き方やどのような事情にある命にも、平等の尊さと意味とを見いだして、礼拝(らいはい)していこうとする。「常不軽(じょうふぎょう)菩薩」という名で、あらゆる存在を尊ぼうとすることや、「善財童子(ぜんざいどうじ)」の名でどのような仕事に携(たずさ)わるひとにも、菩薩道を尋ねようとすることなど、さまざまな経典に表現されているとおりである。こういうことが、人間の営みとしての世俗生活にある不平等感や差別感情を突破して、与えられている生存状況を真実にうなづいて受け止めていくための方向をもっていることは明らかであろう。

 その一番の根底に、自分自身の行動の動機に潜む自己関心の影とでもいうべきものへの注意があるのではなかろうか。「作意(さい)」が残るということは、自己の行為経験を自己評価したり、逆に、過ぎ去った過去の出来事に深い執着や後悔や罪障感を抱いて、天空を飛ぶ野鳥のような自由さには達し得ないのであろう。してみると、「自力」が問題とされるのは、努力することそれ自身なのではなく、その努力に付帯する自己顕示欲とか、自己拡張欲のなす「自害害他(じがいがいた)」(自利利他に対する)を指摘することに、眼目があるように思えるのである。

(2005年6月1日)

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第230回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」①
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