親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

今との出会い第234回「「適当」を選ぶ私」

谷釜研究員のエッセイ

親鸞仏教センター研究員

谷釜 智洋

(TANIGAMA Chihiro)

 東京はセカセカした街と感じることがある。立ち止まった途端に取り残される気がする。だから、私は余計に張り詰める日々を過ごしているのだと思う。

 5lack(スラック)というラッパーには、ことさら影響を受けた。かれの名のりである “Slack” という語句には「たるんだ、ゆるい」等の意味があり、うたいまわしや紡ぐ言葉にさえも緩さが溢れている。実際にかれのうたには、しばしば緩さをあらわす「適当」という言葉があらわれる。本来は「ある状態・目的・要求などにうまくあうこと。ほどよくあてはまること。ふさわしいこと」(『日本国語大辞典』第二版)を指す言葉だが、おおよそ、いい加減とかザツといった印象をまとってしまっている。不誠実、なげやりといった感さえある言葉だ。しかし 5lack はこの言葉をもちいながら、本来の通俗的な意味だけではなく、新たな意味をも開示しようとしているかのように私は思える。

 

 自身の能力のなさに嘆き立ち止まってしまった時、かれの「適当」というフレーズは、張り詰める生活とは真逆の、緩やかな温かみを感じさせる。かれはうたう。

 

あいつがまたいいこと教えてくれれば

今日は救われたって言えるかな

あんな日もあるさまぁしょうがないけど

もうたくさんだなんてさ思うかな

適当にいけよ適当にいけよ

適当にいけよ適当にいけよ

考え込むな考え込むな

考え込むな考え込むな〔……〕

想像で落ちるな適当にいけよ

i’m serious serious. 過ぎでも 

考え込むな考え込むな

そんな日もあるさっていえば光が隙間からこぼれた

(「NEXT」『WHALABOUT』、2009)

 

 「適当」と言い放ちながらも、かれが誠実な人間であるのが伝わってくる。張り詰める生活のなかでしばしば自分の立ち位置が分からなくなることがあるし、まだ起こっていない先(未来)のことに惑わされ振り回されたりもする。誠実であろうとすればするほど息が詰まる。

 それ故に、かれの紡ぐフレーズの一つひとつが、セカセカとした日常を思い悩みながら生活する今の私には響いてくるのかもしれない。

 

 そもそもアーティスト、つまり表現者は、華やかで好きなことだけやっているようにみられがちだ。しかし、かれらは想像もつかないような努力や身を削りながら制作している。少なくとも5lackに関していえば、精力的に制作に取り組み、多くの作品をリリースしている。だからこそ、かれが発する「適当」という言葉には、それぞれの場所で奮闘している者にとって、寄り添う言葉となって働き、支持されているのではないだろうか。

 かれのいう「適当」には、「自律」といった新たな意味をも開示しているように私には思える。「自律」には「自分で自分の行いを規制すること。外部からの力にしばられないで、自分の立てた規範に従って行動すること」(『日本国語大辞典』第二版)等の意味がある。

 この世界に押しつぶされるな。おれたちの「適当」を決めるのは、おれたちだろ?そんで、「適当」に生きなよ――かれのうたから、そんなメッセージをも感じる。自分の「適当」を決めるのは、自分自身のはずだ。かれのうたに励まされる日々はまだまだ続きそうだ。

(2022年12月1日)

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今との出会い第240回「真宗の学びの原風景」
今との出会い第240回「真宗の学びの原風景」 親鸞仏教センター主任研究員 加来 雄之 (KAKU Takeshi)  今、私は、親鸞が浄土真宗と名づけた伝統の中に身を置いて、その伝統を学んでいる。そして、その伝統の中で命を終えるだろう。    この伝統を生きる者として私は、ときおり、みずからの浄土真宗の学びの原風景は何だったのかと考えることがある。    幼い頃の死への戦きであろうか。それは自我への問いの始まりであっても、真宗の学びの始まりではない。転校先の小学校でいじめにあったことや、高校時代、好きだった人の死を経験したことなどをきっかけとして、宗教書や哲学書などに目を通すようになったことが、真宗の学びの原風景であろうか。それは、確かにそれなりの切実さを伴う経験あったが、やはり学びという質のものではなかった。    では、大学での仏教の研究が私の学びの原風景なのだろうか。もちろん研究を通していささか知識も得たし、感動もなかったわけではない。しかしそれらの経験も真宗の学びの本質ではないように感じる。    あらためて考えると、私の学びの出発点は、十九歳の時から通うことになった安田理深(1900〜1982)という仏者の私塾・相応学舎での講義の場に立ち会ったことであった。その小さな道場には、さまざまな背景をもつ人たちが集まっていた。学生が、教員が、門徒が、僧侶が、他宗の人が、真剣な人もそうでない人も、講義に耳を傾けていた。そのときは意識していなかったが、今思えば各人それぞれの属性や関心を包みこんで、ともに真実に向き合っているのだという質感をもった場所が、確かに、この世に、存在していた。    親鸞の妻・恵信尼の手紙のよく知られた一節に、親鸞が法然に出遇ったときの情景が次のように伝えられている。   後世の助からんずる縁にあいまいらせんと、たずねまいらせて、法然上人にあいまいらせて、又、六角堂に百日こもらせ給いて候いけるように、又、百か日、降るにも照るにも、いかなる大事にも、参りてありしに、ただ、後世の事は、善き人にも悪しきにも、同じように、生死出ずべきみちをば、ただ一筋に仰せられ候いしをうけ給わりさだめて候いしば…… (『真宗聖典』616〜617頁)    親鸞にとっての「真宗」の学びの原風景は、法然上人のもとに実現していた集いであった。親鸞の目撃した集いは、麗しい仲良しサークルでも、教義や理念で均一化された集団でもなかったはずである。そこに集まった貴賤・老若・男女は、さまざまな不安、困難、悲しみを抱える人びとであったろう。また興味本位で訪れてきた人や疑念をもっている人びともいただろう。その集まりを仏法の集いたらしめていたのはなにか。それは、その場が、「ただ……善き人にも悪しきにも、同じように」語るという平等性と、「同じように、生死出ずべきみちをば、ただ一筋に」語るという根源性とに立った場所であったという事実である。そうなのだ、平等性と根源性に根差した語りが実現している場所においてこそ、「真宗」の学びが成り立つ。    このささやかな集いが仏教の歴史の中でもつ意義深さは、やがて『教行信証』の「後序」に記される出来事によって裏づけられることになる。そして、この集いのもつ普遍的な意味が『教行信証』という著作によって如来の往相・還相の二種の回向として証明されていくことになるのである。親鸞の広大な教学の体系の原風景は、このささやかな集いにある。    安田理深は、この集いに、釈尊のもとに実現した共同体をあらわす僧伽(サンガ)の名を与えた。そのことによって、真宗の学びの目的を個人の心境の変化以上のものとして受けとめる視座を提供した。   本当の現実とはどういうものをいうのかというと、漠然たる社会一般でなく、仏法の現実である。仏法の現実は僧伽である。三宝のあるところ、仏法が僧伽を以てはじめて、そこに歴史的社会的現実がある。その僧伽のないところに教学はない。『選択集』『教行信証』は、僧伽の実践である。   (安田理深師述『僧伽の実践——『教行信証』御撰述の機縁——』 遍崇寺、2003年、66頁)    「教学は僧伽の実践である」、このことがはっきりすると、私たちの学びの課題は、この平等性と根源性の語りを担保する集いを実現することであることが分かる。また、この集いを権力や権威で否定し(偽)、人間の関心にすり替える(仮)濁世のシステムが、向き合うべき現代の問題の根底にあることが分かる。そしてこのシステムがどれほど絶望的に巨大で強固であっても、このささやかな集いの実現こそが、それに立ち向かう基点であることが分かる。    私は、今、自分に与えられている学びの場所を、そのような集いを実現する場とすることができているだろうか。 (2023年7月1日) 最近の投稿を読む...
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今との出会い 第222回「仏教伝道の多様化にいかに向き合うか」

谷釜研究員のエッセイ

親鸞仏教センター研究員

谷釜 智洋

(TANIGAMA Chihiro)

 近年インターネット並びに電子機器の発展に伴い仏教伝道の方法に多様化がみられる。例えばYou Tubeでは僧侶や寺院が自らのチャンネルを開設し、法話が配信されている。仏教に関連する「法話」・「聞法」等といった言葉をYou Tube上で検索すれば宗派を問わず多くの僧侶が動画を投稿している。なかには数十万回以上再生された動画も存在する。

 新たな仏教伝道の方法は法話に限らない。現代的な音楽に合わせて『般若心経』を読誦する動画も人気を博している。多種多様な入り口を介して仏教に触れてもらう狙いがあるのだろう。

 これらについて賛否はあるようであるが、新たな仏教伝道の試みとして注目されるものである。


 さて、いくつか現在の仏教伝道の方法についてみてきたが、時代に応じた伝道は、常に仏教者たちによって模索されてきた。近代には、叢書を用いた伝道が始まり、時間や場所を問わず、人々が仏教に触れる機会を広げたとも言われている。

 戦後日本、真宗大谷派からも「同朋叢書」が刊行され、同朋会運動の一端を担ってきた。同叢書において人気を博した著者の一人に米沢英雄がいる。彼の代表作である『魂の軌跡』は、当時多くの同朋の心を掴みベストセラーとなり広く親しまれてきた。著作集のあとがきで、『魂の軌跡』について次のように回想している。


文中に『法華経』のことが出ます。真宗に法華経は不穏当だと言われそうですが、要はわかればいいと思っています。日本人だからといって日本料理だけ食べるわけじゃないでしょう[……] 栄養になれば何を食べていいと思います。主体さえ確立出来れば、それでいいのではないか。

(『米沢英雄著作集』第1巻、217頁)


 このように、教理を料理に例え、「栄養になれば何を食べてもいい」と、信仰の「主体」さえ確立することが出来れば、どのような教理に触れてもよいのではないのかという。


 また、米沢は『別冊同朋』の報恩講特集号に次のような文章も寄せている。


人間は何か新しい療法を求めたり、コンピューターによる何々とかにとびついたりします。しかし今新しいものは、やがて古いものになるのです。仏法は永遠に古くならないものです。[……] 真実というのはいつも新しい、この真実をつきつめたところに真宗があるのです。これは流行に左右されません。どんな平凡な、毎日同じような仕事をやっていても、宗教心さえ芽生えておれば、いつも新しく生きておられるのだと思います。

(「真なる故に新しい」『米沢英雄著作集』第1巻、209頁)


 ここで米沢は、新しいものはやがて古いものになるが仏法は永遠に古くならないという。また、仏法を真実という言葉に置き換え、それは流行に左右されないという。


 いつの時代も仏教伝道の方法は様々なものが試されてきた。しかし、方法は問題ではないのだろう。発信側、受信側に限らず、確かな信仰とは何かということが問題ではないだろうか。なるほど、米沢の言葉は流行に左右されるものではない。だからこそ、今も新鮮だ。

(2021年10月1日)

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今との出会い第240回「真宗の学びの原風景」
今との出会い第240回「真宗の学びの原風景」 親鸞仏教センター主任研究員 加来 雄之 (KAKU Takeshi)  今、私は、親鸞が浄土真宗と名づけた伝統の中に身を置いて、その伝統を学んでいる。そして、その伝統の中で命を終えるだろう。    この伝統を生きる者として私は、ときおり、みずからの浄土真宗の学びの原風景は何だったのかと考えることがある。    幼い頃の死への戦きであろうか。それは自我への問いの始まりであっても、真宗の学びの始まりではない。転校先の小学校でいじめにあったことや、高校時代、好きだった人の死を経験したことなどをきっかけとして、宗教書や哲学書などに目を通すようになったことが、真宗の学びの原風景であろうか。それは、確かにそれなりの切実さを伴う経験あったが、やはり学びという質のものではなかった。    では、大学での仏教の研究が私の学びの原風景なのだろうか。もちろん研究を通していささか知識も得たし、感動もなかったわけではない。しかしそれらの経験も真宗の学びの本質ではないように感じる。    あらためて考えると、私の学びの出発点は、十九歳の時から通うことになった安田理深(1900〜1982)という仏者の私塾・相応学舎での講義の場に立ち会ったことであった。その小さな道場には、さまざまな背景をもつ人たちが集まっていた。学生が、教員が、門徒が、僧侶が、他宗の人が、真剣な人もそうでない人も、講義に耳を傾けていた。そのときは意識していなかったが、今思えば各人それぞれの属性や関心を包みこんで、ともに真実に向き合っているのだという質感をもった場所が、確かに、この世に、存在していた。    親鸞の妻・恵信尼の手紙のよく知られた一節に、親鸞が法然に出遇ったときの情景が次のように伝えられている。   後世の助からんずる縁にあいまいらせんと、たずねまいらせて、法然上人にあいまいらせて、又、六角堂に百日こもらせ給いて候いけるように、又、百か日、降るにも照るにも、いかなる大事にも、参りてありしに、ただ、後世の事は、善き人にも悪しきにも、同じように、生死出ずべきみちをば、ただ一筋に仰せられ候いしをうけ給わりさだめて候いしば…… (『真宗聖典』616〜617頁)    親鸞にとっての「真宗」の学びの原風景は、法然上人のもとに実現していた集いであった。親鸞の目撃した集いは、麗しい仲良しサークルでも、教義や理念で均一化された集団でもなかったはずである。そこに集まった貴賤・老若・男女は、さまざまな不安、困難、悲しみを抱える人びとであったろう。また興味本位で訪れてきた人や疑念をもっている人びともいただろう。その集まりを仏法の集いたらしめていたのはなにか。それは、その場が、「ただ……善き人にも悪しきにも、同じように」語るという平等性と、「同じように、生死出ずべきみちをば、ただ一筋に」語るという根源性とに立った場所であったという事実である。そうなのだ、平等性と根源性に根差した語りが実現している場所においてこそ、「真宗」の学びが成り立つ。    このささやかな集いが仏教の歴史の中でもつ意義深さは、やがて『教行信証』の「後序」に記される出来事によって裏づけられることになる。そして、この集いのもつ普遍的な意味が『教行信証』という著作によって如来の往相・還相の二種の回向として証明されていくことになるのである。親鸞の広大な教学の体系の原風景は、このささやかな集いにある。    安田理深は、この集いに、釈尊のもとに実現した共同体をあらわす僧伽(サンガ)の名を与えた。そのことによって、真宗の学びの目的を個人の心境の変化以上のものとして受けとめる視座を提供した。   本当の現実とはどういうものをいうのかというと、漠然たる社会一般でなく、仏法の現実である。仏法の現実は僧伽である。三宝のあるところ、仏法が僧伽を以てはじめて、そこに歴史的社会的現実がある。その僧伽のないところに教学はない。『選択集』『教行信証』は、僧伽の実践である。   (安田理深師述『僧伽の実践——『教行信証』御撰述の機縁——』 遍崇寺、2003年、66頁)    「教学は僧伽の実践である」、このことがはっきりすると、私たちの学びの課題は、この平等性と根源性の語りを担保する集いを実現することであることが分かる。また、この集いを権力や権威で否定し(偽)、人間の関心にすり替える(仮)濁世のシステムが、向き合うべき現代の問題の根底にあることが分かる。そしてこのシステムがどれほど絶望的に巨大で強固であっても、このささやかな集いの実現こそが、それに立ち向かう基点であることが分かる。    私は、今、自分に与えられている学びの場所を、そのような集いを実現する場とすることができているだろうか。 (2023年7月1日) 最近の投稿を読む...
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今との出会い第239回「Aの報酬がAであるという事態」
今との出会い第239回「Aの報酬がAであるという事態」 親鸞仏教センター嘱託研究員 越部 良一 (KOSHIBE Ryoichi)  私はいったいいつから哲学し出したのか、という問いに、私はこう考えることにしている。それは12歳の時、ビートルズの「A...

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今との出会い 第211回「#Black Lives Matter ――差別から思うこと」

谷釜研究員のエッセイ

親鸞仏教センター研究員

谷釜 智洋

(TANIGAMA Chihiro)

 2020年5月、新型コロナウイルスが世界中に蔓延し、パンデミックを引き起こしているさなか、米国ミネソタ州ミネアポリスで白人警官が黒人男性の首を圧迫して死亡させるという事件が起こった。この暴力的逮捕の一部始終をおさめた動画がSNS等を介してWEB上に拡散されると、その白人警官に対する抗議の声が全米に広がった。これを機に、2013年にSNSで上おこった「ブラック・ライヴズ・マター」(「Black Lives Matter」以下、「BLM」)の文言を掲げた人権運動が、改めて世界中から注目を集めている。

 

 上記の事件を目の当たりにし、映画監督のスパイク・リーが脚本と制作を手がけた映画「ドゥ・ザ・ライト・シング」(1989年公開)が想い起こされた。舞台は米国ニューヨーク州ブルックリンの黒人地区。市民は連日の猛暑に見舞われフラストレーションが最高潮に達したその日、同地区で飲食店を経営する白人男性と黒人男性の言い争いが、警官を巻き込む騒動になる。結果、白人警官による黒人男性の暴行致死事件が発生し、暴動が起こるといった内容である。なお、この映画はエンドクレジットに入る直前、キング牧師とマルコムXの両氏による以下の言葉が引用される。


【キング牧師】

暴力は、愛ではなく憎しみの糧として、対話ではなく独白しか存在しない社会を生む。そして、暴力は自らを滅ぼし、生き残った者の心には憎しみを、暴力を振るった者には残虐性をうえつける。


【マルコムX】

私は暴力を擁護する者ではないが、自己防衛のための暴力を否定する者でもない。自己防衛のための暴力は暴力ではなく、知性と呼ぶべきである。


 今日、新型コロナウイルス感染症が渦巻く米国社会の異常事態のもとで起きた、白人警官による黒人男性への暴力的過失致死事件は、件の映画に描かれた事柄と共通することとして改めて認識しなければならない。

 冒頭に取り上げた事件を発端として、「BLM運動」に賛同した多くの企業やアスリートたちがそれぞれの立場で抗議の意を表明している。そのなかでも、プロテニスプレイヤーの大坂なおみ選手による抗議の方法は世界中の話題となり、多くの支持を集めている。彼女の勇気ある主張と行動を誇りに思う。


 ハイチ系アメリカ人(父)と日本人(母)を両親にもつ大坂選手は、自身のツイッターで「アスリートである前に黒人女性。私のプレーを見てもらうよりももっと注目すべき重要なことがある」と投稿し、全米オープン前の大会出場を辞退すると表明して、大会主催者の理解を得ただけではない。彼女は全米オープンの競技会場に入場する際に黒人に対する人種差別に抗議するために、暴行の被害者の名を記した「黒色マスク」を着用するという方法で「BLM運動」に呼応したのである。

 この大坂選手なりの抗議のやり方に対して、「プロスポーツの場で抗議を表明するべきではない」とか「スポーツの場に政治を持ち込むな」等、心無い非難もあったが、彼女の行動が勝った負けたで一喜一憂するスポーツ観戦に対する私たちの意識のあり方に一石を投じるものであったことは間違いない。


 上記の白人警官による黒人男性への残虐な暴行致死事件には憤りをおぼえる。ブラック・カルチャーに影響を受けたひとりとして、私もこの運動を支持したい。同時に、そのことと仏教の学びとがどう関係するのかという問いが頭をよぎる。私はまだ十分な言葉をもって語ることはできないが、差別に向き合うなかで今後、その問いについて模索してゆきたい。

(2020年11月1日)

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