親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

今との出会い 第230回「本願成就の「場」」

中村研究員のエッセイ

親鸞仏教センター嘱託研究員

中村 玲太

(NAKAMURA Ryota)

 「信仰を得たら何が変わりますか?」――訊ねられる毎に苦悶する難問であり、断続的に考えている問題である。これは自身の研究課題とする西山義祖・證空(1177 – 1247)に次のような言葉があることにも起因している。

 

他力の人は、心に極楽を願う信心いたくおこらず、妄念すべて止まらぬにつけても、あら忝なの仏の願行や、五劫思惟の願が凡夫往生の願とならせずんば我等が往生は思いぎりなん。我等が願行を成じたまえる忝なさよと拝む故に、夜もすがら念じ日ねもす唱うれども、自力にはあらず、念々声々に他力の功徳が円満するなり。(證空『述成』、『西山上人短編鈔物集』、88頁)

 

 ここで「他力の人」と言われる念仏者について、浄土を願う心もおこらず、迷妄も止まない姿が語られるが、證空における自覚の吐露だと言ってもよいのであろう。それでは「他力の人」になっても何も変わらないのではないか。正確に言えば、弥陀の本願に帰するという宗教体験は、個人の人格を変えるものではないのか。変えるものではないとするならば、「他力の人」になるとは如何なる意味で従前の自己とは違うのか。こうした問いである。現段階のひとまずの回答として考えているのは、本願に帰入するということは、私の人格が変わるという体験ではなく、立つべき土台、大地が与えられるという世界の変容ではないかということである。これについて少し考えてみたい。

 我々は刻々と変化だけはしているのであり、求めているのは「意味のある」変化であろう。求道上で言えば、本願を信じて浄土を喜べるようになった、ありがたさを感じるようになったという変化があれば、仏道を歩んできた有意味な結果として安堵できるのかもしれない。しかし、そうした変化、体験をして往生の確証とするわけにはいかないであろう。これは求道心が変化することの価値を否定するものではなく、凡夫の知恵で判断、確信できる範疇に往生浄土はないということである。

 證空は「自力の人」については、「信ずる心発る時は往生も近々と覚え、妄念発りて心ならぬ時は、往生も遠々と覚ゆるなり」(同上、87頁)としている。本願を信じる心がおきる時は往生を確信し、そのような心でいられない時には往生も遠いと思うのが「自力の人」の姿なのだという。これは何が問題なのだろうか。おそらく、浄土を近くに感じ取るようになったなどという変化をもって、それを往生において「意味のある」変化だと受け止める態度が問題にされているのであろう。往生という次元においては、自らが「意味のある」と思う変化、体験にすがる心こそ自力と言われるのである。

 弥陀の本願に照らされて仏道を歩むというのは、我々にわかりやすく有意味な変化や体験が与えられるものではないということにもなろう。その反面、歩みの一つ一つを我々が思う有意味/無意味という範疇では判定されないということでもある。

 しかし、これは無心に、気兼ねなく歩ける道が与えられるというものではない。凡夫の抱える罪悪は変わらないのであり、罪悪は罪悪として知らされるのである。それは罪悪の凡夫とは、浄土にしても僧伽(サンガ)にしてもそれが与えられるに値する存在ではないということの自覚でもある。しかし、この罪悪離れがたき凡夫を場として成就するのが、浄土を与えんとする弥陀の本願なのである。先の『述成』で證空は、妄念の止まない自己に満ちる他力の功徳を「あら忝(かたじけ)なの仏の願行」だと言っていた。これは本願への讃嘆であり、卑小な自己の分を超えた境遇であることの自覚でもある。かたじけなくも、弥陀が本願を成就していく実践の場として、凡夫の世界が宗教的な意味転換をするのである(これは證空のいわゆる「往生正覚倶時」説から敷衍して考え得るものである。拙稿「天台本覚思想と證空――「現生往生」思想の究明を射程に入れて」『花野充道博士古稀記念論文集 仏教思想の展開』〔山喜房仏書林、2020〕参照)。

 あえて言えば、弥陀の歩みの場として我々にも道が与えられていくということになろうか。冒頭の問いに対して、以上のような立つべき、歩むべき世界の変容があるのではないかということを考えている。

(2022年6月1日)

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今との出会い 第220回「そういう状態」

中村研究員のエッセイ

親鸞仏教センター嘱託研究員

中村 玲太

(NAKAMURA Ryota)

「空き巣でも入ったのかと思うほどわたしの部屋はそういう状態」

(平岡あみ)


 穂村弘『はじめての短歌』(河出文庫)の第一講のタイトルは、「ぼくらは二重に生きていて、短歌を恋しいと思っている」。さらにその第一節のタイトルは、「〇・五秒のコミュニケーションが発動する」。そこで紹介される短歌、「空き巣でも入ったのかと思うほどわたしの部屋はそういう状態」にある、「そういう状態」はことあるごとに反すうしている、してしまう。ここで穂村が提示する改悪例は、「空き巣でも入ったのかと思うほどわたしの部屋は散らかっている」だ。

 誤読の可能性を減らすのが目的であれば、「散らかっている」がよい文章になる。しかし、穂村はそれを短歌における改悪例だとし、「「散らかっている」と言われると、それ以上意識や感情が動かない。「散らかっている」という言葉はラベルだから、それをペタリと貼られると、心が動かない。/だけど「そういう状態」というのは明確なラベルじゃないから「え、そういう状態って?」という心が発動する」と解説する。


 穂村弘はコミュニケーションの発動に注目するが、この言葉はあえて共通理解(穂村の言うラベル)を外す、絶妙にずらすことで、ラベルを貼りつけては表現できない生の存在、リアリティとでも言うべきものが現れていると見ることも可能だろう。それは〈生きる〉ということは、この私にしか生きられない生を生きるということであり、どうしても他者からすれば共通した理解から外れた、曖昧でわかりにくい部分が存在するはずだ。こうした部分が存在することにこそ一人一人の〈生きる〉手触りのようなものが立ち現れているとも言えよう。

 先の「そういう状態」というのは、あえてわかりやすいラベルを貼るのを一歩止まることで、そうとしか言いようのない私に生きられた部屋の手触りが現れている。


 あるいは当人にしか見えないリアリティを具体的に言語化する。このような表現はまさに詩人の面目躍如と言ったところであろう。では、「散らかっている」というようなわかりやすいラベルを貼ることは間違いなのか。そうとは言えないと思う。詩や一般的なコミュニケーションレベルの問題ではなく、私たちは常日頃、そうした共通理解の得られるような何の変哲もない言葉に、意識・無意識的に自分にしか生きられない生を託しているのではないだろうか。自分にしか生きられない生を生きている以上、どう表現されたとしてもその背後には私だけの〈生きる〉手触りが隠されている。しかし、その手触りが、他者に向けた電波には乗らないのである。

 表現されたものに〈生きる〉手触りを教えられることもある一方で、ラベリングした言葉だけの世界を生きることで、いまこの世界がわかりやすい、しかし自己のリアリティから離れたものにもなる。世界が滞留していく。心を動かなくさせるのは、自分自身についてもである。


 浄土教の説く「悪」というのは、それは普遍的な「悪」なのであろう。その悪を具体的に生きるのが私たちである。ちょうど三次元立体の表面を二次元の展開図にするようなもので、森博嗣の言葉を借りれば、「展開というのは、自分にできること、自分の現実に存在するものとして、具体化すること」(『キャサリンはどのように子供を産んだのか?』、講談社タイガ)。

 悪を自覚した先達の言葉を聞き、自分以上に自分を言い当てた言葉と出会っていく。そして私もまた罪悪を表現していく。ただ、普遍的に響く教え――個人を超えた他力による言葉――は私の生においてそれが具体的な形となって展開されていくはずだ。自分にしかない罪悪の現実性がある。


 罪悪を吐露した言葉が、一種のラベルとなり、自分が属するコミュニティではわかりやすい定型句と化していく時、果たしてそれがいま・私のリアリティと乖離してはいないか。つねにズレていくものであり、そのズレを自覚し、表現されたものと私の現実性とのあいだを揺れ動かなければならないのであろう。この二重性は離れ得るものではないが、揺れ動くことでしか世界は攪拌されないように思う。

(2021年8月1日)

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今との出会い 第209回「順接か逆接かそれとも超越か」

中村研究員のエッセイ

親鸞仏教センター嘱託研究員

中村 玲太

(NAKAMURA Ryota)

 雨が重い。この重さは実際には主観の域を出ないくらいのものだ。特に何の想いもなくなるようななだらかな雨の日に、思い出す言葉があるのだが、少し回り道をしながら遠出もしよう。

 

「間違って降りてしまった駅だから改札できみが待ってる気がする」

(鈴木美紀子)


 この短歌を穂村弘は、「こちらも間違いがもう一つの世界を開くパターンの歌。「だから」で一瞬混乱する。でも、合っているのだ。正しい「駅」には「きみ」はいないのだから。偶然の間違いによって、パラレルなもう一つの人生に踏み込んだ感覚がときめきに繫がっている」と解説する(『ぼくの短歌ノート』〔講談社文庫、2018〕、「間違いのある歌 その2」より)。

 穂村弘の指摘通り、「だから」で、順接で確かに合っているのだ。しかし、ここで焦点を合わせるべきは「ときめき」なのだろうか。勿論、間違いに踏み込むその一瞬にときめきが雪崩れ込んでくる感覚はわかる。しかし、正しい駅にはきみはいないという叶わぬ、もしくは終わった何かを懐いた日常感覚が逆接的に前景化している一首なのではないかと考える。


「雨が好きなんです。晴れているとみんながキラキラしているように感じて、それがなんとなくグサッて心に響いたり。私が泣くときは、雨が降っている日が多いんです(笑)」

(平手友梨奈、『Numero TOKYO』2020年3月号より)


 ここには順接も逆接もない。「私が泣くとき」は、文脈上どのように位置づけられるのかが少し難しい。晴れの日がグサっと心に響く、「だから」。ならば、(反対に)価値あるものとして「私が泣くとき」を意味づけ、そのときである雨の日が好きなんだとわかりやすい。それはきっと違うような気がする。順接も逆接もなく、雨が好きだし、晴れの日はグサって心に響くし、私は雨の日に泣く。どれもシームレスにつながっていて、意義の地平としては同じところにあるのではないかと思う。


――私は悪人、だが、救われるのだろうか。それが真に信じられるかは別にして、この逆接はわかりやすい。私は悪人、だから、救われるのだろうか。諸仏も見捨てた罪悪を抱える凡夫を、正覚成就の場として選んだ弥陀の本願をこのような順接として捉えることは可能かもしれない。

 しかし、「悪人」ということ一つとってもそれが如来にとってどのような意味があるのか、わかり得るものであるのか。先の問いは正確には、如来にとって私は悪人、だが/だから、ということになる。ここにある如来の範疇としての意味連関を凡夫が認識できるとは思えない。凡夫が想定し得る道徳的な因果律との断絶を示すのが弥陀の本願ではないのだろうか。


 そこにあるのは、悪人(私)は救われる、というたった一つの事象ではないか。それだけで十分なはずだ。しかし、だが/だから、と右往左往せねばわからないのが凡夫である。その順接逆接を行き来しながら、「だが」と卑下せず、「だから」と開き直らない世界を聞かなければならないのだと思う。

(2020年9月1日)

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今との出会い 第199回「曖昧なブラック」

中村研究員のエッセイ

親鸞仏教センター嘱託研究員

中村 玲太

(NAKAMURA Ryota)

 9月18日。染め上げられた緑が静寂に圧倒されるのも束の間、それはまるで王蟲のように、一気に場面は赤くなる。叫べ。

 

 歌人・穂村弘は「共感(シンパシー)」と「驚異(ワンダー)」について度々言及するが、『短歌という爆弾――今すぐ歌人になりたいあなたのために』(小学館、2000)にはまさに「共感と驚異」という章でその両者の共振が生む短歌の魅力を解説している。ここでは共感と驚異の共振性が解説されているが、『整形前夜』(講談社文庫、2012)になると「驚異」に力点を置いた――「共感」が溢れる社会への警鐘を促す論へと軸足が動いているように思われる。『整形前夜』には以下のようにある。

 

何かに感動する人間って鈍感なんじゃないか、と思うことがある。中学生のとき、世界の名作文学を何冊読んでも何も感じなかった。大人になって改めて読み直してみてその面白さに驚いたのだが、これは経験を積んで作品の魅力がより深くわかるようになったということなのだろうか。どうも違うような気がする。加齢と共に「驚異」を「驚異」のままキャッチする能力が衰えて「共感」に変換して味わうようになったのではないか。

(「共感と驚異 その3」より)

 

 この最後の一文にドキッとするわけであるが、これは他者理解でも言えることではないのか。そう思うと余計に考えてしまう。以前ほど対人関係に息苦しさを感じなくなったのは、他者という〈驚異〉そのものをうまく「共感」へと変換しているからではないか。自分の言葉で他者を翻訳・一般化し、他者を理解可能な物語の中で消化できるようになる。それは生きていく上で不可避なことであり、これが大人になるということなのでもあろう。

 

 しかしこの「共感」の物語にこそ息苦しさを感じていたのではなかったのか。違う現実を生きる我々はそれだけで本来〈驚異〉そのものだと思う。うまく共感へと変換できない、そのまま驚異としてキャッチするしかないものも多数あるはずだ。共感が求められる社会で驚異が行き場を失い、共感の範疇から疎外された存在を無視してはいないだろうか。置き去りにされた「よくわからない」自己/他者に再び目を向けることはできるのだろうか。僕の心には共感が溢れている。

 

 年末に向けて脱線しておこう(いや復線だ)。今年2月にMVが公開された欅坂46「黒い羊」は、共感の範疇から疎外された「僕」の物語であると一応は言えよう。ここで注目したいのは、「黒い羊」のMVを監督した新宮良平の言葉だ。センターの平手友梨奈について語った言葉である。

 

 “僕”というのは平手さんそのものだと思っている。彼女はメンバーとかいろんな大人の中で、心を打ちひしがれているわけです。まさに「黒い羊」そのものというか。平手さんがみんなの前で「私はこれでいい」と言い切るシーンがどうしても作りたかったのはあります。

『BRODY』2019年4月号より

 

 平手友梨奈は、パフォーマンスの舞台上を「自分が自分でいられる環境」(『ROCKIN’ON JAPAN』2019年4月号、173頁)とするが、作品世界上でまさに“僕”が“僕”となる――あるいは「なれない」そのリアルを目撃するわけである。「自分が自分でいられる環境」と言うが、特に2017年夏以降必ずしも舞台上で順風満帆であったわけではないことは多くの人が知るところであろう。動けないことへの批判は数多あった。全国ツアー2018も、調子が良かったとはまず言えないパフォーマンスであったが、「自分が納得いってないステージになぜ立たなきゃいけないのかっていうことを、考えて考えてやってました。毎公演、毎公演、スタッフさんと話して、出るのか出ないのかっていう話をして」(前出、174頁 ※ライブ演出についてストーリー性のぶれ等を問題にしている)と語っている。

 

 ロキノンを読めば分かるが、決して平手友梨奈は開き直っているわけではない。しかし、考えすぎてしまう自分をやめれば楽になるのに、と言いながら、そうやって楽になった自分についての想像は、「まったくつかない。うん。たぶん全部をはっきりさせたいから。はっきりさせないとダメだから」(前出、178頁)と。こうしたところを含めて我々は、“僕”が“僕”になるという意味を目前で問われるわけである。自分を誤魔化さない、このシンプルな言葉が現実に実行される時、現在進行形で様々な波紋を呼んでいる――「共感」の物語に仕立てられたらどんなに楽か!という現にそこかしかに在るはずの〈驚異〉の暴力性と魅力をそこに感じる。

 

 9月19日。東京ドーム。5万人の聴衆を前に、「らしさって一体何?」と問いながら彼女は一人で最後の幕を閉めた。

(2019年12月1日)

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今との出会い 第194回「星の祝祭を手のひらに」

中村研究員のエッセイ

親鸞仏教センター嘱託研究員

中村 玲太

(NAKAMURA Ryota)

参照:映画『海獣の子供』(渡辺 歩監督、2019年6月公開) ※以下、映画『海獣の子供』のネタバレをやや含みます


 「生命は流れ、種は自らを再生する。それは事実である。だがそれと同時に私たちは、来たるべき子どもたちに、かつて親などというものはいなかったかのようにふるまうことを教えることができるのである」(222頁)、これは加藤秀一『〈個〉からはじめる生命論』(NHKブックス、2007)の最後の一節である。


 映画『海獣の子供』にこの夏を飲み込まれた。この映画の主題、大きな軸の一つは何といっても「生まれる」ということであろう。我々はどこから来たのか。これが事あるごとに問われている。ジュゴンに育てられた少年、海(ウミ)と空(ソラ)……最後までその起源、どこから来たのかということは曖昧で有耶無耶で神秘的だ。いや、そこは有耶無耶でいいのだ。自己の起源はどうであれ――確かにそれは存在するのだろう――もはや生まれてしまった〈個〉はその起源を超えていくことができる(ナウシカのように闇に葬ることも可能だ)、「どこから」という根を有耶無耶にすることができる。正確には、〈生まれる〉とはそれが可能になる事態を指す言葉だ。

 そして我々は浮遊するのでもなく、自ら新たに根を張り直していく存在なのであろう。


 海と空が教える神秘的な起源。しかし、これはあくまで海から来た海と空の話なのではないか。もう一人の主人公、街に暮らす琉花はどうなのか。そのどこからともなく誕生する星の物語(強いて言えば海が生んだとしか言いようがない誕生の物語)を、宇宙を、握りしめて帰ってくるのが琉花だ。ラスト、〈生まれる〉という物語を確かに自分の物語として生きようとする琉花の眼前に広がる、海と空。ちょっと窮屈な海と空だが我々はそこを生きていくしかない――のだけれど、確実にそこには神秘の物語を携えて生きていくことができる姿がある。海と空に根を張った少女の姿をそこに見てしまった。

 映画『海獣の子供』が安易な生命循環の尊さなどを謳っていないのは明らかであると思うが、受け渡されていく隕石は、一人ひとりが星として生まれるべき存在であることが独りから独りへと伝播していく様を描いているのかもしれない。


 ――エンドロールが終わった後、母親第二子の出産に立ち会う中、生まれた子のへその緒を切る琉花はこんな一言をつぶやく。「命を断つ感触がした」――母体から切り離された赤ちゃんはまったく別物なのだ。母体とつながっていた存在は「もういない」、そう言ってよいのだ。

(2019年7月1日)

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今との出会い 第184回「ひとりの夢を」

中村研究員のエッセイ

親鸞仏教センター嘱託研究員

中村 玲太

(NAKAMURA Ryota)

 私は孤独の椅子を探して、都会の街街(まちまち)を放浪して来た。そして最後に、自分の求めてるものを知つた。(萩原朔太郎「虚無の歌」、『四季』1936年5月号)


 なんだか北区は暑く感じる。言いがかりなのは承知である。必要に迫られてであるが、引っ越してからというものよく歩くようになった。余計に暑さを感じるのは仕方ない。特に歩くのは田端周辺であるが、この一帯は戦前には多くの芸術家、文士が集まった地であり田端文士村と呼称されている。この田端に居を構えたこともあるのが詩人・萩原朔太郎(1886~1942)である。以前、この朔太郎の作品群をキャラクター化した朔を主人公にした漫画、清家雪子『月に吠えらんねえ』(アフタヌーンKC)についてこんなブックレビューを書いたことがある(※『月に吠えらんねえ』巻三についてである)。


 次々と戦争を讃える詩人たちに、熱狂にうずもれていく人々。みんな愉快に「同じ顔」して踊り続けていける。悲惨な現実なんていらない、詩人に求められているのは「夢」であり、生んでほしいのは「ひとりの夢より/みんなの夢を」――鋭く現況を問いながらも、この熱狂にうずもれていく朔は、犀に次のような言葉を投げかける。


 言葉は

 現実を覆すことはできないけど

 同じ夢はみせられるよ


 振り返るとこのときに意識した問題は、「言葉」が見せる夢についてでありそれ以上のものはなかった。しかし「ひとりの夢より/みんなの夢を」、今はこの一節がどうしても頭から離れない。「みんなの夢」を生むことの問題。ちなみにこの一節は、『月に吠えらんねえ』を特集した『現代詩手帖』2018年6月号でも複数の人が取り上げている(特に川口晴美「これから『月に吠えらんねえ』を読むシ人たちへ」は必読である)。

 確かに我々凡夫は煩悩具足の身であり、「ひとりの夢」にも際限はないのかもしれない。しかし、勿論個人差はあるが現実的には、ひとりで叶(かな)えられる夢には限度がある。心から夢見る範囲にもある程度の限度があることは身に染みているのではないだろうか。だが、ひとりでは思いもよらない夢も「みんな」であれば思い描くことができるかもしれない。家族、友人、クラス、学校、会社や教団、そして国。個人では到底実現できないスケールの願望を「みんな」であれば夢見れる。それを一概に悪だとは言えないであろうし、そうした大きな主体がなさねばならないことは確かにある。しかし、その熱狂させる「みんなの夢」はもはや〈個〉ではどうすることもできず、〈個〉を飲み込みながら暴走し得るのも歴史が教えるところであろう。

 松尾匡はこう論ずる。


私利私欲を求めることこそ諸悪の根源と考えて、みんなが利己心を抑えて社会のためにつくす世の中を目指した人も多かったのです。こうなると往々にして、人間が利益を求めることを価値の低いことのように見下してしまいます。利益を超越した理念を追うことこそ価値の高いことだと。/こんな態度がいきつくと、現実の人間を理念の手段として踏みにじってしまいますので注意しなければなりません。はなはだしくは、たくさんの人命を平気で犠牲にするようになってしまいます。

(『新しい左翼入門――相克の運動史は超えられるか』講談社現代新書、2012)


 これは理念を掲げる者だけの問題ではなく、「みんなの夢」に共鳴して自己の利益を容易(たやす)く放棄するだけの魅力を感ずる凡夫の問題でもある。「みんなの夢」が見せる熱狂に人命を、己を超えるような誘因があると言ってもよいであろう。

 その熱を問う、〈個〉の視点はどこまでも忘れずにいたい。

(2018年9月1日)

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今との出会い 第174回「そしてハイシャはつづく」

中村研究員のエッセイ

親鸞仏教センター嘱託研究員

中村 玲太

(NAKAMURA Ryota)

 歯が痛い。

 「これ、普通の人だと夜も眠れない状態ですよ」――その一歩手前で踏みとどまっていたのだろうが、悪夢にはうなされていた。赤ん坊を、恐ろしい目をした黒ずんだ赤ん坊をにこやかに何の疑問ももたずに抱っこしている自分を見ていた。寝た気がしなくてどっと疲れた。それにしても、今書くとよくできた悪夢だったと思う。


 虫歯は、実に己の業というものを思い出させる。放っておけば確実に進行していくし、決して自己の力で自然に治癒できるものではない。虫歯は治療してもらわなければならない。そんなことは百も承知である。しかし、何とかなる気がする、自分は大丈夫かも、こう放置し続けて右上の犬歯が悲鳴をあげた。悪夢まで現れて完全に現実逃避包囲網である。そもそもの生活習慣の悪さ、自分だけは大丈夫だと自惚(うぬぼ)れる己の傲慢(ごうまん)さをまざまざと見せつけてくれるのだ。 急きょ予約した歯医者までの時間が長かった。不用意に頭を揺らすと脳天に突き刺さるような痛みが襲ってくる。何もできない。この途方もない時間は、一瞬が永遠に感じる――とは少し違うかもしれない。穂村弘は「彼女が泣くと永遠を感じます」という言葉について、こう語る。


「彼女が泣く」という一種の非常事態によって、それまで淡々と水平方向に流れていた日常の時間に突然、垂直の裂け目が生じる。「今、ここに生きている」という実感の濃度が急激に高まって、それが〈全て〉になるのではないか。「永遠」とは死へ向かって流れることをやめた時間の特異点のことなのだ。

(『絶叫委員会』、ちくま文庫〔2013〕、43頁)


 痛みに抗するために、今ここにあることを急速に拒否しようとする、存在の濃度を薄めようとする。しかし、そうした企ては失敗し、どうしても不快だ(かと言って、その企ては放棄できない)。そして、「死」には向かわない(と思う)が、〈この先〉を常に想起してしまう。ここに在るのは、ぼんやりと間延びした単なる長い時間であり、そこでじっくりと知らされてくる。大地の如くためてきた業は、その存在の自己主張抜きがたく、耳を塞いではいられなくなるということを。


 虫歯だけではない。心身には、この世界には、忘れ去られた業が悲痛な叫びとなって現れている。その叫びから逃げ切れるのならそれでいい。逃げ切れないのなら、その声をまずは聞くしかない。ただ、自分一人で聞ききれるとは思えない。そもそもその声の正体を見極めることができない、受け止められない脆(もろ)さ危うさを抱えるのが凡夫であろう。はたして声を聞かしめる存在はあるのか、問うていかねばなるまい。


 さて歯医者に行こう。

(2017年11月1日)

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投稿者:shinran-bc 投稿日時:

今との出会い 第164回「誰かと生きる時間」

中村研究員のエッセイ

親鸞仏教センター研究員

中村 玲太

(NAKAMURA Ryota)

 少々長いが、哲学者・田島正樹氏の「ララビアータ」に投稿された「「全体的」「本来的」」の記事について、「生きる時間」を中心にして紹介したい(主題である「死」と全体性についての刺激的な論考全般については、下記を参照されたい)。

〔http://blog.livedoor.jp/easter1916/archives/52469129.html〕


亡き人が何をもたらしてくれたのかは、すぐにはわからない。生きている間には、それを考えることは難しい。なぜなら、生きている人には、応答し、かかわり続けなければならないからである。/かかわる時間、生きる時間は、互いに積み上げ、紡ぎあう時間であり、何が与えられたのかを考える時間ではない。/意味を考える時間は、亡き人を思う時にやってくる。終わった生を全体としてまとめ上げ、その存在の意味を問い直すこと、その言動を一つのテクストとして読解することは、死後に初めてやってくる。

(「「全体的」「本来的」」より)


 ここから展開していき、田島氏は、「それゆえ、人間の言動の(テクストとしての)意味が――つまりは意味として問われる人間存在そのものが、全体的かつ本来的に問われ得るのは、死によって遠く隔てられた他者の存在としてのみである。/それゆえ、愛し合うことは、本来不可能であることがわかる。我々は生きてかかわりあう限り、その存在を互いに全体的に本来的に考えることができないからである」と。


 生きて応答し続けるかぎり、「全体的に本来的に考えることができない」――確かにそうなのであろう。しかし、生きる者同士の問題として深刻なことは、そうとは思えないことではないだろうか。我々はつとに他者の一部を存在の全体に見立てて尊び、そして蔑む。「何が与えられたのかを考える時間ではない」かもしれないが、自分にとって相手がどんな存在なのかを確定せずには不安でいられないのが凡夫なのだと思う。それほど全体性が見えない生きる人間存在が不気味なのだとも言える(自他共に)。


 しかし、田島氏が言うように、どのように他者の存在をまとめ上げ意味を付しても、決してそれは相手を全体的、本来的に考え得ているわけではない。それを自覚せずに何かの存在全体を一方的に規定するのは、時に暴力的ですらある。


 そもそも愛情をもつとは、相手を一つの意味のなかに閉じ込めず、わかり得ない他者の存在の不気味さに目を開きながら互いに何かを紡ぎ続けようとすることを指すのかもしれない。その「何か」とは一体何か――それは、その意味が開示されるまでそっと待ち続けるしかないものなのであろう。

(2017年1月1日)

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