親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

今との出会い第239回「Aの報酬がAであるという事態」

研究員のエッセイ「今との出会い」

親鸞仏教センター嘱託研究員

越部 良一

(KOSHIBE Ryoichi)

 私はいったいいつから哲学し出したのか、という問いに、私はこう考えることにしている。それは12歳の時、ビートルズの「A Day in the Life」に出会った時であると。

 大学教授であったカール・ヤスパースが、高齢になって大学を退職した後、自身の仕事場とした大学というものを回顧してこう述べている。「大学の理念というものを、大学入学以来、真剣に受け止めてきた一人の男が、この理念がほとんど通用していなかったドイツの大学企業体に入り込んだのだった」(ヤスパース『運命と意志』)。

 精神的なものを求めて動いてゆきながら、精神を窒息させる状況に入り込む。精神の開放を求めて動いたのか、精神を閉じ込めるために動いたのか、わけがわからない。どこにでもあることだ。だから人は、その動いた初心を忘れないようにしなければならない。

 次の表現は、こうした初心を示そうとしているのだと、私は見る。

「状況の中で状況と共に絶えず流転しながら、私がまだ存在しなかった暗闇からもはや存在しない暗闇へと、私は流れ落ちていく。[中略]流れ落ちてゆくにまかせながら、何かを掴まなければ、その何かは永遠に失われてしまうと考えて私は脅えるが、その何かが何であるのかがわからない。私は単に消滅するのでない存在を求める」

(ヤスパース『哲学』)

 単に消滅するのではない存在、つまり永遠的なるものに遭遇する在り方を、ロック・ギタリストのロバート・フィリップ(キング・クリムゾン)は、音楽家にふさわしく、次のように表現する。

「音楽家が得る唯一の報酬は音楽である。音楽がわれわれを覆い、われわれにその秘密をあかすとき、音楽の現前のただ中に立つという恩典である。同じことが聴衆にも言える。この瞬間に、他のすべての物事は色あせ、力を失う。音楽の中にいるこの者たちにとって、これこそ、人生が現実になる瞬間である」

(キング・クリムゾンの4枚組ライブCD『The Great Deceiver』の

ブックレット中のフィリップの文章)

 初心とは、形式的に表せば、自らにとってAの報酬がAである、そうしたAに出会った心である。だが、こうした心をもってしても、人は、Bの報酬がCである、Cの報酬がDである、Dの報酬がEである…、というきりのない状況に、相変わらず絡めとられる。だからこの持続する状況を、Aの報酬がAであるという事態でもって突破してゆくこと、それが「希哲学」(philosophyの最初の訳語)たる哲学の、不断の課題となるのである。

(2023年6月1日)

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今との出会い第238回「寺を預かる」

研究員のエッセイ「今との出会い」

親鸞仏教センター嘱託研究員

田村 晃徳

(TAMURA Akinori)

 学ぶ喜びは知識を得ることであるが、学びにより発見されるのは自分の無知であろう。人は無知と言われないように学ぶ面がある。「無知の知」とは古来より伝わる大切な言葉だ。しかし、この言葉には無知である自分を蔑むニュアンスはない。それどころか、無知であることに気づいた自分のことを誇ってさえいるようにも聞こえる。学びとは知識を得ることではない。知識を得ることを通じ、自分を知ることにその目的はある。

 

 歴史を学ぶ喜びも同様である。歴史的事項を知ることはとても楽しい。しかし事項を知るだけではただの物語だろう。それが、どのように今日の自分と関わりをもつか。このことを考えることにより自身に肉薄した事実として理解されるだろう。その時に、気づくことはただ一つ。私は先人達の努力により、今ここで生きていることができているということである。

 

 その先人とはもちろん、祖父や父も含む。しかし、寺を支えてくれた門徒の皆さんも当然入る。門徒の方を支えてくれた、そのご家族も含むだろう。さらには、信仰を伝えてくれた先人達も含まれるだろう。このように遡っていくならば、いつかは親鸞聖人や釈尊にもつながるに違いない。

 

 そのように考えるときに、住職達がよく使う大切な言葉を思い出した。それは「お寺を預かる」という表現である。当然のことであるが、住職が「ここは自分の寺だ」などと言い出したら、そのお寺はおしまいである。そうさせない大切な発想。それが「預かる」というものだろう。つまり、私は今、預かっているお寺において、先人達により伝えられた仏法に出遇うというご縁をいただいているのだ。親鸞聖人も『歎異抄』でお釈迦様や善導大師の名を挙げて、伝えられてきた仏法に出会えた喜びを述べている。そこに浄土真宗は自分の教えだ、といった傲慢さは皆無である。親鸞聖人もいただいた法を後世に伝えられた。それが今、私にまで伝わっている。ならば私のやるべき事も同じである。法を後世に伝えることである。

 

 寺の歴史を学ぶ。それは知的関心だけではない。一つのお寺が誕生するまでには、悠久の仏法や、人々の歴史が必要であったことを知る。それは住職としての責任感を改めて自覚させる気づきなのである。

(2023年4月1日)

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今との出会い第237回「本当に守るべきものを明らかにする」

研究員のエッセイ「今との出会い」

親鸞仏教センター嘱託研究員

菊池 弘宣

(KIKUCHI Hironobu)

「あわれ、生きものは互いに食(は)み合う」

(なんと悲しいことか、生きものはお互いに争い食らい合っている)

 

 それは、お釈迦さまの少年時代、農耕祭に臨まれた時のことである。土の中から一匹の虫が這い出てくるところに、一羽の鳥がやって来て、ついばむやいなや、飛び去っていった。それをじっと見ておられた悉多太子(しったたいし、釈尊の成道以前の名)が、深い悲しみの中より発せられた言葉であると、仏伝は伝えている。(以上、信國淳『無量寿の目覚め』〔樹心社、2005年〕所収「「個人」と「衆生」」、26頁取意)

 大谷専修学院という場の基礎を築いた信國淳先生は、以下のように、「生類相克(そうこく)」を目の当たりにした少年太子の胸中に思いをいたす。

 

この場合太子の胸は、すべての生きものへの同苦共感の世界に生きたのである。鳥からついばまれる虫と、虫を食っていのちを養う鳥と、そのいずれにも与することなく、そのいずれをも生き、そのいずれにおいても、太子自らが生きている生命との交感、交流を感じつつ、そこに衆生世界を感得し、「あわれ、生きものは互いに食み合う」と、その如実知見を表白したのである。

(同前、26頁~27頁)

 

「そのいずれにも与(くみ)することなく」という一言が、私の心に残っている。食われ殺される側、食い殺す側、そのどちらか一方を支持し、正当化するというのではない。そのようなメッセージとして受け取った。思い起こされるのは、私自身の少年時代、遠足に出掛けた時のことである。一羽のアゲハチョウが、カマキリに捕まり、今まさに食われようとしている場面に遭遇した。それを見て私は、「かわいそうに。なんてひどいことをするんだ」と思い、蝶の羽からカマキリの鎌を引き離し、助けてあげた。すると、蝶はすっと飛び立っていったが、今度は、カマキリがぐったりとして動かなくなってしまった。それを見て私は、「なんてことをしてしまったんだ」とショックを受けた。カマキリは、力尽きて死んでしまったのかもしれない。どうなったのか、その顛末を見届けることはできなかった。その時のことが思い起こされてくるのである。

 

 その時のカマキリと同じように、私自身は平生、食い殺す側になっている。自分が直接手を下さずとも、誰かに頼って、他の生き物のいのちを奪っている。他の生き物を殺して食べなければ、自身のいのちを継ぐことはできない。自分という存在は、無数の生き物たちの犠牲の上に成り立っていると言える。

 

 さらに言えば、私は、ゴキブリやムカデなどのいわゆる害虫は、容赦なく殺してきている。害をもたらすと感じるものを何であれ、都合によって殺すような自分だから、もしも戦場に出るようなことになったら、ためらいなく人を殺してしまうのではないかと危惧している。

 

 一方で時には、食われ殺される側に自分の身を置くということも起こり得るのかもしれない。しかし、正直に言って、食われたくないし、殺されたくない。要するに、あきらめが悪いのである。その心中は、仏陀釈尊が、『法句経』(ダンマパダ)に説かれている通りである。

 

一二九 すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ。

一三〇 すべての者は暴力におびえる。すべての(生きもの)にとって生命は愛(いと)しい。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ。

(中村元訳『ブッダ真理のことば・感興のことば』ワイド版岩波文庫、28頁)

 

 私自身は、自分にも、他者にも、殺されたくないのである。存在を尊重されたい、尊重したいと願っているのである。同じようにして、他者の上に私自身のすがたを見出すのであれば、他者を殺したくない、誰かに殺させたくない。その存在を尊重したいのである。

 たとえ戦禍に巻き込まれたとしても、できることならば、殺されていくよりも、殺していくよりも、誰かに殺させていくよりも、どこへでも逃げ出して生き延びたいと願っている。それは、誰も皆、一人一人、仏法がはたらく器であると信じるからなのだろうか。

 

 いま現在、ロシアによるウクライナ侵攻に端を発する戦争の惨状を、映像で目の当たりにしている。周辺国の脅威とも相まって、日本でも武器保有、防衛費の問題が急展開してしまっている感じがする。「敵基地攻撃能力(反撃能力)」という言葉が象徴しているように、「敵」という文字が露骨に表れるようになってきている。敵と見なされたものは、当然、警戒心、不信感を抱くに違いない。それは結局、お互いを尊重して協力し助け合うような関わり合いを放棄するという方向になるのではないか。ここにきて、守るための戦いを正当化することは、極めて危険だと感じている。日本は、かつての戦争を通して、大空襲や原爆投下による被害の悲惨、苦痛、そして加害性について、身をもって知ってきたのだから、同じあやまちを繰り返してしまわないように、メッセージを発信し続けていくべきだと考える。被害の側、加害の側、どちらにもならないように模索するということがあって然るべきだと思うのである。

 

 仏教が重んじる精神は「不害」であると聞いてきた。私自身の在り方を振り返れば、前述した通り、それを実行できてはいない。背いてばかりであると言わざるを得ない。しかし、その精神には賛同したい。誰も、傷つけない、傷つかない解決の道がある。それを探求していったのが、少年悉多太子の仏に成る歩みではなかったか。

 

 一切の苦悩する衆生を摂め取って捨てないと誓う、本願の光に照らされて、自己中心的に分別する、執着する心の否定をくぐる。阿弥陀如来の大いなる慈悲・浄土の光に包まれて、存在の本来性に帰る。「一つである」という道理にまっすぐ順い、現実の「食み合う」世界に責任を取って生きる。それは、本願の名号・南無阿弥陀仏という呼びかけを聞く、信心をいただくというところに帰着する。

 

 尊ぶべきは法である。本当に守るべきものを明らかにしたいと思った次第である。

202331日)

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今との出会い第236回「想いだされ続けるということ――「淵源(ルーツ)」を求めて」

研究員のエッセイ「今との出会い」

親鸞仏教センター嘱託研究員

飯島 孝良

(IIJIMA Takayoshi)

 ラジオ界やテレビ界を支えた稀代の放送作家・タレントの永六輔(1933~2016)は、繰り返しこう述べていた――

「人間は二度死にます。まず死んだ時。それから忘れられた時」

ここでいう一度目の死とは、肉体的に生命を終えるときである。二度目の死とは、その存在を心のなかに覚えてくれている人がいなくなったときである。これを裏返すと、人間は想いだされる限り死んではいない、ということになる。ただ、この「想いだす」「想いだされる」とは、どのようなことを言うのであろうか。

 この問いに関わる映画『リメンバー・ミー』(ピクサー・アニメーション・スタジオ製作)は、メキシコの「死者の日」において死者の国へ迷い込んだ少年の物語である。生者の国の祭壇に写真が飾られていない死者は「死者の日」に生者の国へ戻ることができず、生者の誰からも想いだされない者は死者の国からも消え去ってしまう。主人公の少年は、自分のなかに活きている音楽への情熱が誰から受け継がれたものなのかを求め、死者の国にいるであろう音楽家の祖先を探し求める――。この物語は、自分が直接に会ったことのない情熱の「淵源(ルーツ)」を求め、その「淵源」というべき祖先がなおも想いだされるべき存在なのか、自分とその家族のなかに問い続けるという構成をとる。つまり、音楽家であったらしいその「淵源」が放蕩の限りを尽くしたともいわれるため、実直な靴屋となった少年の一家からは疎んじられており、もはや誰も想いださなくなりそうになっていた――そればかりか、一家にとっては音楽そのものが忌避されてもいたのである。

 こうしたとき、少年にとっての「淵源」が周囲からは忌み嫌われるものであり、少年のなかにある情熱そのものが封じられかねなくなる。自分を活かしているその「淵源」を、周囲が何と言おうとも渇望し続ける少年の姿に、この作品の眼目のひとつがある。

 そうした渇望は、仏教史における「語り」にも見出し得る。この「語り」にある特徴を、近藤俊太郎「親鸞とマルクス主義への入射角」(『親鸞とマルクス主義』、2021年)は、次のように美事に分析している。


「経典に記された言葉の真理性を起点に、それを読む、聞くといった解釈学的実践を連鎖させ、それを積み重ねてきたのが仏教の歴史である。厖大な仏典やそれについての数えきれないほどの理解(八万四千の法門)の存在は、仏教に一貫性や中心的な思想がなく、唯一絶対の解釈など成立しないことを意味している。

 したがって、仏教の歴史は、経典解釈やそれに基づく倫理・規範が、新たな解釈とそれに基づく倫理・規範によって内破され続けてきた歴史でもある。仏教は仏教批判を繰り返し、既成の仏教理解を否定し、解体し続ける。仏教は何らかの根拠というよりも、人間を内縛してきた根拠から解放するはたらきであり、かつすべての人間につねにすでに平等に開かれているのである。【中略】

 この否定のはたらきは、歴史的世界の住人たる信仰主体に例外なく向けられている。ただしそのことは、信仰主体に新たな人間観・世界観を知らせる契機ともなりうるもので、人間存在の有限性の自覚や絶対的平等を願う主体への生成変化を可能にするのである。こうした仏教の否定性をめぐる問題は、仏教が空・非我・無常といった否定表現を特徴とすることとも関連するだろう」


 これはまさに、阿弥陀仏を前に「罪悪深重」を自覚せしめられる真宗の歴史に見出し得る動性であろう。更に言えば、「以心伝心」「不立文字」を旨とするといわれる禅でさえ――だからこそ――数えきれぬほど問答が繰り返され、自己の有限性は常に否定され、自らに連なる先師を語り継ぐ年譜が書き残され、その法脈は形成され長らえてきた。仏教史という営為は、いわば自己がそれまでの価値観を解体されながら法系へと接続することを自覚する「語り」であり、その過程を「伝統」として把握しようと渇望することであったといえるのではないか。

 人間を縛り付けるものを否定し解放されることで、自己を活かすものへの眼が開かれ、自己へ連なる「伝統」を成り立たせてきた存在の数々が、はるか昔から自らのなかに生きてくる――仏教の歴史は、それを想いだしつづける営みといえまいか。

(2023年2月1日)

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今との出会い第237回「本当に守るべきものを明らかにする」
今との出会い第237回「本当に守るべきものを明らかにする」 親鸞仏教センター嘱託研究員 菊池 弘宣 (KIKUCHI Hironobu) 「あわれ、生きものは互いに食(は)み合う」 (なんと悲しいことか、生きものはお互いに争い食らい合っている)    それは、お釈迦さまの少年時代、農耕祭に臨まれた時のことである。土の中から一匹の虫が這い出てくるところに、一羽の鳥がやって来て、ついばむやいなや、飛び去っていった。それをじっと見ておられた悉多太子(しったたいし、釈尊の成道以前の名)が、深い悲しみの中より発せられた言葉であると、仏伝は伝えている。(以上、信國淳『無量寿の目覚め』〔樹心社、2005年〕所収「「個人」と「衆生」」、26頁取意)  大谷専修学院という場の基礎を築いた信國淳先生は、以下のように、「生類相克(そうこく)」を目の当たりにした少年太子の胸中に思いをいたす。   この場合太子の胸は、すべての生きものへの同苦共感の世界に生きたのである。鳥からついばまれる虫と、虫を食っていのちを養う鳥と、そのいずれにも与することなく、そのいずれをも生き、そのいずれにおいても、太子自らが生きている生命との交感、交流を感じつつ、そこに衆生世界を感得し、「あわれ、生きものは互いに食み合う」と、その如実知見を表白したのである。 (同前、26頁~27頁)   「そのいずれにも与(くみ)することなく」という一言が、私の心に残っている。食われ殺される側、食い殺す側、そのどちらか一方を支持し、正当化するというのではない。そのようなメッセージとして受け取った。思い起こされるのは、私自身の少年時代、遠足に出掛けた時のことである。一羽のアゲハチョウが、カマキリに捕まり、今まさに食われようとしている場面に遭遇した。それを見て私は、「かわいそうに。なんてひどいことをするんだ」と思い、蝶の羽からカマキリの鎌を引き離し、助けてあげた。すると、蝶はすっと飛び立っていったが、今度は、カマキリがぐったりとして動かなくなってしまった。それを見て私は、「なんてことをしてしまったんだ」とショックを受けた。カマキリは、力尽きて死んでしまったのかもしれない。どうなったのか、その顛末を見届けることはできなかった。その時のことが思い起こされてくるのである。    その時のカマキリと同じように、私自身は平生、食い殺す側になっている。自分が直接手を下さずとも、誰かに頼って、他の生き物のいのちを奪っている。他の生き物を殺して食べなければ、自身のいのちを継ぐことはできない。自分という存在は、無数の生き物たちの犠牲の上に成り立っていると言える。    さらに言えば、私は、ゴキブリやムカデなどのいわゆる害虫は、容赦なく殺してきている。害をもたらすと感じるものを何であれ、都合によって殺すような自分だから、もしも戦場に出るようなことになったら、ためらいなく人を殺してしまうのではないかと危惧している。    一方で時には、食われ殺される側に自分の身を置くということも起こり得るのかもしれない。しかし、正直に言って、食われたくないし、殺されたくない。要するに、あきらめが悪いのである。その心中は、仏陀釈尊が、『法句経』(ダンマパダ)に説かれている通りである。   一二九 すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ。 一三〇 すべての者は暴力におびえる。すべての(生きもの)にとって生命は愛(いと)しい。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ。 (中村元訳『ブッダ真理のことば・感興のことば』ワイド版岩波文庫、28頁)    私自身は、自分にも、他者にも、殺されたくないのである。存在を尊重されたい、尊重したいと願っているのである。同じようにして、他者の上に私自身のすがたを見出すのであれば、他者を殺したくない、誰かに殺させたくない。その存在を尊重したいのである。  たとえ戦禍に巻き込まれたとしても、できることならば、殺されていくよりも、殺していくよりも、誰かに殺させていくよりも、どこへでも逃げ出して生き延びたいと願っている。それは、誰も皆、一人一人、仏法がはたらく器であると信じるからなのだろうか。    いま現在、ロシアによるウクライナ侵攻に端を発する戦争の惨状を、映像で目の当たりにしている。周辺国の脅威とも相まって、日本でも武器保有、防衛費の問題が急展開してしまっている感じがする。「敵基地攻撃能力(反撃能力)」という言葉が象徴しているように、「敵」という文字が露骨に表れるようになってきている。敵と見なされたものは、当然、警戒心、不信感を抱くに違いない。それは結局、お互いを尊重して協力し助け合うような関わり合いを放棄するという方向になるのではないか。ここにきて、守るための戦いを正当化することは、極めて危険だと感じている。日本は、かつての戦争を通して、大空襲や原爆投下による被害の悲惨、苦痛、そして加害性について、身をもって知ってきたのだから、同じあやまちを繰り返してしまわないように、メッセージを発信し続けていくべきだと考える。被害の側、加害の側、どちらにもならないように模索するということがあって然るべきだと思うのである。    仏教が重んじる精神は「不害」であると聞いてきた。私自身の在り方を振り返れば、前述した通り、それを実行できてはいない。背いてばかりであると言わざるを得ない。しかし、その精神には賛同したい。誰も、傷つけない、傷つかない解決の道がある。それを探求していったのが、少年悉多太子の仏に成る歩みではなかったか。    一切の苦悩する衆生を摂め取って捨てないと誓う、本願の光に照らされて、自己中心的に分別する、執着する心の否定をくぐる。阿弥陀如来の大いなる慈悲・浄土の光に包まれて、存在の本来性に帰る。「一つである」という道理にまっすぐ順い、現実の「食み合う」世界に責任を取って生きる。それは、本願の名号・南無阿弥陀仏という呼びかけを聞く、信心をいただくというところに帰着する。    尊ぶべきは法である。本当に守るべきものを明らかにしたいと思った次第である。 (2023年3月1日) 最近の投稿を読む...
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今との出会い第236回「想いだされ続けるということ――「淵源(ルーツ)」を求めて」
今との出会い第236回「想いだされ続けるということ――「淵源(ルーツ)」を求めて」 親鸞仏教センター嘱託研究員 飯島 孝良 (IIJIMA...

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今との出会い第235回「太った白人の家族――ネブワース2022旅行記」

研究員のエッセイ「今との出会い」

親鸞仏教センター研究員

宮部 峻

(MIYABE Takashi)

 今年の6月、常勤研究員として着任して早々、有給休暇をいただき、5年ぶりにイギリスを訪れることができた。目的は私が尊敬してやまない人物の一人である唯一無二のロックンロール・スター、リアム・ギャラガーのネブワース公演を観に行くことであった。


 原油高、空前絶後の円安、そしてウクライナ情勢の問題もあり、旅行費はずいぶんと高くついた。その事実だけで私のなかにある政治不信、反戦感情はますます高まってくるわけであったが、ともかく、リアム・ギャラガーの歴史に名を残すこととなったネブワース公演を観ることができたわけである。魅了されて以来、これまでリアムとノエルのどちらかが来日すればほぼすべてを観に行った私であるが、なかでも特別なコンサートの一つとなった。


 メディアの報道で見聞きしていたが、イギリスに訪れると、ちらほらマスクをしている人もいたものの、コロナ前とほとんど変わらない日常が広がっていた。コンサート会場に移動するバスでもマスクはおろか、朝からギネスを大量に飲み、歌い、騒いでいた。私も隣の知らない客にギネスを渡された。これぞイギリス流のおもてなし。


 さて、二日間で16万5千人を動員したコンサートでは、両日ともにそれぞれ前座が4組ずつ出た。私が観に行った二日目には、Fat White Familyが出演していた。セールス的にいえば、それほど売れているバンドではないが、ダニー・ボイルが監督を務めた『T2 トレインスポッティング』にも曲が使用されるなど、注目を集めているバンドである。実は2019年3月に初来日公演が行われる予定で、私もコロナ前にチケットを取っていたものの、残念ながらパンデミックで中止になっていたのである。そんなこともあり、ネブワースで彼らのパフォーマンスが観られることを楽しみにしていた。


 いざ登場すると、音源で聴いていた以上にシュールである。上半身裸で肌色のパンツを履いて、客席に飛び込むボーカルのパフォーマンスは、江頭2:50を想い起こさせる。マイクの前に仁王立ちするリアム・ギャラガーとは対極の存在かもしれない。


 渡英前、てっきり私はFat White Familyは、イギリスでは人気なんだろうと思っていた。しかし、どうも大いなる誤解であったらしい。客席に飛び込んだ途端、ボーカルにはビールやら靴やら何やらいろんなものが投げつけられていた。最初は、「さすがフーリガンの国だ。歓迎の仕方が違うなあ」などと呑気に感心していたのだが、周りの反応をみると何やら苛立っている様子であった。私の前にいた高校生らしき集団は、耳を塞いで、「うるせえ」と言っていた。演奏が終わると、客の中には中指を突き立てる人もおり、私の後ろからは「Get Off!!(失せろ)」との声が聞こえた。後日、ネットで調べてみると、「最低のパフォーマンスだった」と書かれていた。舞台袖で嬉しそうに眺めていたリアムの息子、ジーンとレノンの反応とは対照的である。何が起きているんだ。


 どうやらイギリス社会の根深い問題を現しているようである。Fat White Familyのメンバーには、移民の流れがあるらしい。対して、リアムのライブを観に来るファンの多くは、白人労働者階級である。第67回「現代と親鸞の研究会」で江原由美子先生がオーウェン・ジョーンズの『チャヴ』を紹介しながらおっしゃっていたように、一部の白人労働者階級は、移民に対する怒りを抱いている。なるほど、こういうことかと身をもってわかった。よく考えてみれば、バンド名からして「太った白人の家族」である。挑発的だ。ロックンロールは人々の怒りを表現することがしばしばあるが、現代イギリスにおける歪み、そこから生まれる苛立ちがバンドと観客のパフォーマンスとして表現されていたわけである。


 ちょうどそのときは、ジュビリーであった。かつてテムズ川で女王陛下に対して「ノー・フューチャー」とからかいを見せたセックス・ピストルズを支持したロックンロールのファンは、今、ジュビリーの只中で、移民のバンドに対して中指を突き立てる。このことは何を意味するのだろうか。そんなことをネブワースの芝生に寝転びながら考え、リアムの登場を待ったのであった。

(2023年1月1日)

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今との出会い第239回「Aの報酬がAであるという事態」
今との出会い第239回「Aの報酬がAであるという事態」 親鸞仏教センター嘱託研究員 越部 良一 (KOSHIBE Ryoichi)  私はいったいいつから哲学し出したのか、という問いに、私はこう考えることにしている。それは12歳の時、ビートルズの「A...
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今との出会い第238回「寺を預かる」
今との出会い第238回「寺を預かる」 親鸞仏教センター嘱託研究員 田村 晃徳 (TAMURA Akinori)  学ぶ喜びは知識を得ることであるが、学びにより発見されるのは自分の無知であろう。人は無知と言われないように学ぶ面がある。「無知の知」とは古来より伝わる大切な言葉だ。しかし、この言葉には無知である自分を蔑むニュアンスはない。それどころか、無知であることに気づいた自分のことを誇ってさえいるようにも聞こえる。学びとは知識を得ることではない。知識を得ることを通じ、自分を知ることにその目的はある。    歴史を学ぶ喜びも同様である。歴史的事項を知ることはとても楽しい。しかし事項を知るだけではただの物語だろう。それが、どのように今日の自分と関わりをもつか。このことを考えることにより自身に肉薄した事実として理解されるだろう。その時に、気づくことはただ一つ。私は先人達の努力により、今ここで生きていることができているということである。    その先人とはもちろん、祖父や父も含む。しかし、寺を支えてくれた門徒の皆さんも当然入る。門徒の方を支えてくれた、そのご家族も含むだろう。さらには、信仰を伝えてくれた先人達も含まれるだろう。このように遡っていくならば、いつかは親鸞聖人や釈尊にもつながるに違いない。    そのように考えるときに、住職達がよく使う大切な言葉を思い出した。それは「お寺を預かる」という表現である。当然のことであるが、住職が「ここは自分の寺だ」などと言い出したら、そのお寺はおしまいである。そうさせない大切な発想。それが「預かる」というものだろう。つまり、私は今、預かっているお寺において、先人達により伝えられた仏法に出遇うというご縁をいただいているのだ。親鸞聖人も『歎異抄』でお釈迦様や善導大師の名を挙げて、伝えられてきた仏法に出会えた喜びを述べている。そこに浄土真宗は自分の教えだ、といった傲慢さは皆無である。親鸞聖人もいただいた法を後世に伝えられた。それが今、私にまで伝わっている。ならば私のやるべき事も同じである。法を後世に伝えることである。    寺の歴史を学ぶ。それは知的関心だけではない。一つのお寺が誕生するまでには、悠久の仏法や、人々の歴史が必要であったことを知る。それは住職としての責任感を改めて自覚させる気づきなのである。 (2023年4月1日) 最近の投稿を読む...
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今との出会い第236回「想いだされ続けるということ――「淵源(ルーツ)」を求めて」
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今との出会い第234回「「適当」を選ぶ私」

研究員のエッセイ「今との出会い」

親鸞仏教センター研究員

谷釜 智洋

(TANIGAMA Chihiro)

 東京はセカセカした街と感じることがある。立ち止まった途端に取り残される気がする。だから、私は余計に張り詰める日々を過ごしているのだと思う。

 5lack(スラック)というラッパーには、ことさら影響を受けた。かれの名のりである “Slack” という語句には「たるんだ、ゆるい」等の意味があり、うたいまわしや紡ぐ言葉にさえも緩さが溢れている。実際にかれのうたには、しばしば緩さをあらわす「適当」という言葉があらわれる。本来は「ある状態・目的・要求などにうまくあうこと。ほどよくあてはまること。ふさわしいこと」(『日本国語大辞典』第二版)を指す言葉だが、おおよそ、いい加減とかザツといった印象をまとってしまっている。不誠実、なげやりといった感さえある言葉だ。しかし 5lack はこの言葉をもちいながら、本来の通俗的な意味だけではなく、新たな意味をも開示しようとしているかのように私は思える。

 

 自身の能力のなさに嘆き立ち止まってしまった時、かれの「適当」というフレーズは、張り詰める生活とは真逆の、緩やかな温かみを感じさせる。かれはうたう。

 

あいつがまたいいこと教えてくれれば

今日は救われたって言えるかな

あんな日もあるさまぁしょうがないけど

もうたくさんだなんてさ思うかな

適当にいけよ適当にいけよ

適当にいけよ適当にいけよ

考え込むな考え込むな

考え込むな考え込むな〔……〕

想像で落ちるな適当にいけよ

i’m serious serious. 過ぎでも 

考え込むな考え込むな

そんな日もあるさっていえば光が隙間からこぼれた

(「NEXT」『WHALABOUT』、2009)

 

 「適当」と言い放ちながらも、かれが誠実な人間であるのが伝わってくる。張り詰める生活のなかでしばしば自分の立ち位置が分からなくなることがあるし、まだ起こっていない先(未来)のことに惑わされ振り回されたりもする。誠実であろうとすればするほど息が詰まる。

 それ故に、かれの紡ぐフレーズの一つひとつが、セカセカとした日常を思い悩みながら生活する今の私には響いてくるのかもしれない。

 

 そもそもアーティスト、つまり表現者は、華やかで好きなことだけやっているようにみられがちだ。しかし、かれらは想像もつかないような努力や身を削りながら制作している。少なくとも5lackに関していえば、精力的に制作に取り組み、多くの作品をリリースしている。だからこそ、かれが発する「適当」という言葉には、それぞれの場所で奮闘している者にとって、寄り添う言葉となって働き、支持されているのではないだろうか。

 かれのいう「適当」には、「自律」といった新たな意味をも開示しているように私には思える。「自律」には「自分で自分の行いを規制すること。外部からの力にしばられないで、自分の立てた規範に従って行動すること」(『日本国語大辞典』第二版)等の意味がある。

 この世界に押しつぶされるな。おれたちの「適当」を決めるのは、おれたちだろ?そんで、「適当」に生きなよ――かれのうたから、そんなメッセージをも感じる。自分の「適当」を決めるのは、自分自身のはずだ。かれのうたに励まされる日々はまだまだ続きそうだ。

(2022年12月1日)

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今との出会い第236回「想いだされ続けるということ――「淵源(ルーツ)」を求めて」 親鸞仏教センター嘱託研究員 飯島 孝良 (IIJIMA...

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今との出会い第233回「8月半ば、韓国・ソウルを訪れて」

研究員のエッセイ「今との出会い」

親鸞仏教センター嘱託研究員

伊藤  真

(ITO Makoto)

 8月のお盆休み中、学会発表のために韓国・ソウルを訪れた。海外へ渡航するのも、「リモート」でなく「対面」で学術大会に参加するのも、コロナ禍以来初めてだから実に3年ぶり。ビザの申請に韓国領事館前で炎天下に3時間並び、渡航前・ソウル到着時・帰国前と1週間で3度の規定のPCR検査に緊張し、日韓双方のアプリの登録や電子証明取得など、渡航は苦労の連続だったが、それだけの甲斐はあったと思う。今回は韓国で体験したさまざまな「出会い」について書いてみたい。

 私が参加したのは国際仏教学会(IABS)が3年に一度開催する学術大会で、当初2020年の開催予定だったがコロナ禍で延期され、5年ぶりに開催にこぎつけたものである。最終的には「リモート」と「対面」を併用する「ハイブリッド」型の大会となったが、世界中から集まる数百名の研究者や学生たちが直に会って仏教について論じ合い、親交を深めることにこだわった開催校・ソウル大学の皆さんに賛辞と謝意を贈りたい。私は「現代社会における仏教」という部会で「印陀羅網のメタファー再考―井上円了の思想を手がかりに」という華厳思想と近代仏教に関連する論題で発表した。休憩時間や部会終了後にも、各国の参加者の方たちと発表内容やお互いの研究について貴重な情報交換をすることができた。人と人が直接触れ合うありがたさ、コロナ禍で失われていたものの大きさを実感した5日間だった。

 今回は職場からの出張ではなく自主的な自費渡航だったため、日程は比較的自由で、寺院や博物館見学の時間も作れた。韓国最大の宗派である曹渓宗の本山・曹渓寺では、大音量のマイクで僧侶が詠唱をリードする中、本堂を埋めた信者さんたちが五体投地をする法要に出会うことができた。ソウル中心部の繁華街の一角の、生きた信仰の場であった。一方、軍事博物館である「戦争記念館」では、遥か先史時代と三国時代に始まり、同館の中心とも言える現代の朝鮮戦争の一部始終、そしてベトナム戦争への韓国軍の派兵まで、3階建ての巨大な博物館に展示室がずらりと並ぶそのスケールに圧倒された。ユーラシア大陸と地続きの地政学的な事情からも、朝鮮半島の人々がいかに歴史を通じて戦争と向き合ってきたか、改めて突きつけられる展示には重みがある。日本による植民地支配や秀吉の朝鮮出兵(壬申倭乱)には当然多くのスペースが割かれていたが、倭寇に関するかなり詳しい展示や、朝鮮戦争に国連軍として参加した16カ国の派遣部隊すべてについて、それぞれ丁寧な展示があったことも、ハッとする出会いであった。

 そして今回の旅で学会以外で一番印象深かったのは、北朝鮮との国境地帯の「非武装地帯」(Demilitarized Zone、通称DMZ)へのバスツアーに参加したことである。私はかつて北朝鮮による拉致被害者・曽我ひとみさんの夫で元米兵の故チャールズ・ジェンキンスさんの自叙伝『告白』(角川文庫)を訳出させていただいたから、ぜひ国境の「38度線」は訪れてみたかった。首都ソウルからわずか45キロ北方のDMZへは、通訳ガイドが同行する半日の大型バスツアーを数社の旅行社が毎日運行している。南北のバッファーゾーンであるDMZは「38度線」から南北それぞれ2キロの幅で朝鮮半島を東西に貫くが、板門店(パンムンジョン)付近の韓国側の一部は観光客の立ち入りが可能だ。もちろんバスに兵士が乗り込んできてパスポートをチェックしたり、大型観光バスの立ち入りは1日5台の制限があったりはするのだが(そのため各社の先陣争いでツアーは早朝6時半に出発して猛スピードで高速道路を飛ばす)。なお、板門店は残念ながらコロナ禍以来、観光客は入れない。

 ツアーではまず、北朝鮮側が囚人を動員して国境を越えて韓国側まで掘削した極秘襲撃作戦用の「南侵トンネル」を見学(高さ・幅約2メートル、全長約1.6キロ。韓国側約450メートルの半分ほどが公開)。地下75メートル、へっぴり腰の私たち見学者がコツン、コツンと次々と天井に安全用ヘルメットをぶつけるようなトンネルで、3万人の襲撃部隊を韓国側へ瞬時に送り込む目論見だったというから驚きだ。ダイナマイトで岩盤を爆破しつつ手掘りで仕上げたというそのゴツゴツした壁面を見て、囚人たちの作業の過酷さと、それを強いた者の恐ろしい執念が感じ取れるように思えた。

  続いて、北朝鮮側が遠望できる「DMZ展望台」を訪れた。デッキへ出ると、運良く快晴となった青空の下に緑の大地が北方へと続いていた(曇天だと国境の向こうは見えないという)。手すりに沿って何台も並ぶ見学用の双眼鏡で覗くと、北朝鮮側のDMZの内外に作られた国策村の家々や、DMZの向こう側の高層住宅、さらには南北融和の象徴だったが今や機能停止している開城(ケソン)工業団地の一部が遠望できた。銃声もプロパガンダ放送の音もしない、静かな美しい緑豊かな大地のわずか数キロ先に、政治的・経済的統制下で暮らすことを強いられている人々の日常がある……それを想像するのは何とも非現実的な感覚だった。57年前の厳冬の夜、「38度線」から転戦してベトナム戦争の前線へ派遣されるのではとの恐怖に、やむにやまれず徒歩で密かに国境線を越えて逃亡したジェンキンス軍曹の姿も、思い浮かべることは難しかった。見学を終え、「今晩は繁華街の明洞(ミョンドン)でどんな韓国料理を食べようかな」などと考えながら、韓国の自由のすばらしさを思ったが、その自由の裏には時が止まったように70年間も続く南北の分断と対立・緊張の現実があること、そして自由な韓国に暮らす人々の「同胞」が(さらに拉致被害者の方たちも)北朝鮮の圧政下に日々を送っていること、そんな影の部分とのコントラストを真夏の強烈な太陽が却って鮮明に感じさせる気がした。

 最後に付け加えるならば、IABSの大会初日は8月15日、日本の「終戦記念日」は韓国では日本の支配を脱して国権を回復した「光復節」だった。DMZに隣接する見学施設には日韓で論争の絶えない「慰安婦問題を象徴する少女像」もあって、初めて実際に目にして強い印象を受けた。日韓の歴史と現実に「出会う」旅でもあったが、日本をはじめ各国の研究者や観光客を温かく迎えてくれた韓国の多くの人たちに直接出会うことができたことに、心より感謝したいと思う。

(2022年10月1日)

 8月のお盆休み中、学会発表のために韓国・ソウルを訪れた。海外へ渡航するのも、「リモート」でなく「対面」で学術大会に参加するのも、コロナ禍以来初めてだから実に3年ぶり。ビザの申請に韓国領事館前で炎天下に3時間並び、渡航前・ソウル到着時・帰国前と1週間で3度の規定のPCR検査に緊張し、日韓双方のアプリの登録や電子証明取得など、渡航は苦労の連続だったが、それだけの甲斐はあったと思う。今回は韓国で体験したさまざまな「出会い」について書いてみたい。

 私が参加したのは国際仏教学会(IABS)が3年に一度開催する学術大会で、当初2020年の開催予定だったがコロナ禍で延期され、5年ぶりに開催にこぎつけたものである。最終的には「リモート」と「対面」を併用する「ハイブリッド」型の大会となったが、世界中から集まる数百名の研究者や学生たちが直に会って仏教について論じ合い、親交を深めることにこだわった開催校・ソウル大学の皆さんに賛辞と謝意を贈りたい。私は「現代社会における仏教」という部会で「印陀羅網のメタファー再考―井上円了の思想を手がかりに」という華厳思想と近代仏教に関連する論題で発表した。休憩時間や部会終了後にも、各国の参加者の方たちと発表内容やお互いの研究について貴重な情報交換をすることができた。人と人が直接触れ合うありがたさ、コロナ禍で失われていたものの大きさを実感した5日間だった。

 今回は職場からの出張ではなく自主的な自費渡航だったため、日程は比較的自由で、寺院や博物館見学の時間も作れた。韓国最大の宗派である曹渓宗の本山・曹渓寺では、大音量のマイクで僧侶が詠唱をリードする中、本堂を埋めた信者さんたちが五体投地をする法要に出会うことができた。ソウル中心部の繁華街の一角の、生きた信仰の場であった。一方、軍事博物館である「戦争記念館」では、遥か先史時代と三国時代に始まり、同館の中心とも言える現代の朝鮮戦争の一部始終、そしてベトナム戦争への韓国軍の派兵まで、3階建ての巨大な博物館に展示室がずらりと並ぶそのスケールに圧倒された。ユーラシア大陸と地続きの地政学的な事情からも、朝鮮半島の人々がいかに歴史を通じて戦争と向き合ってきたか、改めて突きつけられる展示には重みがある。日本による植民地支配や秀吉の朝鮮出兵(壬申倭乱)には当然多くのスペースが割かれていたが、倭寇に関するかなり詳しい展示や、朝鮮戦争に国連軍として参加した16カ国の派遣部隊すべてについて、それぞれ丁寧な展示があったことも、ハッとする出会いであった。

 そして今回の旅で学会以外で一番印象深かったのは、北朝鮮との国境地帯の「非武装地帯」(Demilitarized Zone、通称DMZ)へのバスツアーに参加したことである。私はかつて北朝鮮による拉致被害者・曽我ひとみさんの夫で元米兵の故チャールズ・ジェンキンスさんの自叙伝『告白』(角川文庫)を訳出させていただいたから、ぜひ国境の「38度線」は訪れてみたかった。首都ソウルからわずか45キロ北方のDMZへは、通訳ガイドが同行する半日の大型バスツアーを数社の旅行社が毎日運行している。南北のバッファーゾーンであるDMZは「38度線」から南北それぞれ2キロの幅で朝鮮半島を東西に貫くが、板門店(パンムンジョン)付近の韓国側の一部は観光客の立ち入りが可能だ。もちろんバスに兵士が乗り込んできてパスポートをチェックしたり、大型観光バスの立ち入りは1日5台の制限があったりはするのだが(そのため各社の先陣争いでツアーは早朝6時半に出発して猛スピードで高速道路を飛ばす)。なお、板門店は残念ながらコロナ禍以来、観光客は入れない。

 ツアーではまず、北朝鮮側が囚人を動員して国境を越えて韓国側まで掘削した極秘襲撃作戦用の「南侵トンネル」を見学(高さ・幅約2メートル、全長約1.6キロ。韓国側約450メートルの半分ほどが公開)。地下75メートル、へっぴり腰の私たち見学者がコツン、コツンと次々と天井に安全用ヘルメットをぶつけるようなトンネルで、3万人の襲撃部隊を韓国側へ瞬時に送り込む目論見だったというから驚きだ。ダイナマイトで岩盤を爆破しつつ手掘りで仕上げたというそのゴツゴツした壁面を見て、囚人たちの作業の過酷さと、それを強いた者の恐ろしい執念が感じ取れるように思えた。

   続いて、北朝鮮側が遠望できる「DMZ展望台」を訪れた。デッキへ出ると、運良く快晴となった青空の下に緑の大地が北方へと続いていた(曇天だと国境の向こうは見えないという)。手すりに沿って何台も並ぶ見学用の双眼鏡で覗くと、北朝鮮側のDMZの内外に作られた国策村の家々や、DMZの向こう側の高層住宅、さらには南北融和の象徴だったが今や機能停止している開城(ケソン)工業団地の一部が遠望できた。銃声もプロパガンダ放送の音もしない、静かな美しい緑豊かな大地のわずか数キロ先に、政治的・経済的統制下で暮らすことを強いられている人々の日常がある……それを想像するのは何とも非現実的な感覚だった。57年前の厳冬の夜、「38度線」から転戦してベトナム戦争の前線へ派遣されるのではとの恐怖に、やむにやまれず徒歩で密かに国境線を越えて逃亡したジェンキンス軍曹の姿も、思い浮かべることは難しかった。見学を終え、「今晩は繁華街の明洞(ミョンドン)でどんな韓国料理を食べようかな」などと考えながら、韓国の自由のすばらしさを思ったが、その自由の裏には時が止まったように70年間も続く南北の分断と対立・緊張の現実があること、そして自由な韓国に暮らす人々の「同胞」が(さらに拉致被害者の方たちも)北朝鮮の圧政下に日々を送っていること、そんな影の部分とのコントラストを真夏の強烈な太陽が却って鮮明に感じさせる気がした。

 最後に付け加えるならば、IABSの大会初日は8月15日、日本の「終戦記念日」は韓国では日本の支配を脱して国権を回復した「光復節」だった。DMZに隣接する見学施設には日韓で論争の絶えない「慰安婦問題を象徴する少女像」もあって、初めて実際に目にして強い印象を受けた。日韓の歴史と現実に「出会う」旅でもあったが、日本をはじめ各国の研究者や観光客を温かく迎えてくれた韓国の多くの人たちに直接出会うことができたことに、心より感謝したいと思う。

(2022年10月1日)

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今との出会い 第232回「漫画の中の南無阿弥陀仏」

研究員のエッセイ「今との出会い」

親鸞仏教センター嘱託研究員

青柳 英司

(AOYAGI Eishi)

 日本の仏教史において、南無阿弥陀仏という言葉が持った意味は極めて重い。

 この六字の中に、法然は阿弥陀仏の「平等の慈悲」を発見し、親鸞は一切衆生を「招喚」する如来の「勅命」を聞いた。彼らの教えは、身分を越えて様々な人の支援を受け、多くの念仏者を生み出すことになる。そして、現代においても南無阿弥陀仏という言葉は僧侶だけが知る特殊な用語ではない。一般的な国語辞典にも載っており、広く人口に膾炙(かいしゃ)したものであると言える。

 では、現代の日本において、南無阿弥陀仏はどのような場面で使われ、どのように理解されているのだろうか。ここでは、日本のポップ・カルチャーの代表である「漫画」を取り上げ、一般的な日本人にとって、南無阿弥陀仏とは何であるのかを考えてみたい(ただし、仏教的なものが直接のテーマとなっている漫画は、すでに論じているものがあるため、ここでは敢えて取り上げなかった)。

 筆者の管見に入った南無阿弥陀仏の用例は、以下の6種に大別される。 なお、漫画は煩を避けるために、関連するものを1つずつ挙げるに留めた。

A、キャラ付け

金城宗幸/ノ村優介『ブルーロック』(講談社)

  主人公のチームメイト・五十嵐栗夢(いがらし ぐりむ)は、寺の息子という設定。このように、登場人物の特徴を際立たせるために、(何の脈絡もなく)南無阿弥陀仏が使われることがある。

B、弔いの言葉として

鳥山明『ドラゴンボール』(集英社)

 敵のロボットの首を吹き飛ばしてしまい、手を合わせる主人公の孫悟空(そん ごくう)。

C、呪文として

うすた京介『ピューと吹く!ジャガー』(集英社)

 クリスマスの夜に現れた幽霊に対して、「ナムアミダブツ」を連呼するピヨ彦。それによって、幽霊が消滅しかけている。このようなシーンにおける南無阿弥陀仏は、何の効果も発揮しないことが多い。そのため、この描写は、極めて例外的なものであると言える。

D、危機的な状況における祈りの言葉として

アジチカ/梅村真也/フクイタクミ『終末のワルキューレ』(コアミックス)

 神々と人類との最終闘争(ラグナロク)が始まるシーンで、必死に念仏を唱える僧侶。

 このようなシーンの念仏は、何の効果も発揮しない「虚しい祈り」である場合が多い。

E、他者を攻撃する(殺す)際の言葉として

手塚治虫『シュマリ』(小学館)

 登場人物の1人である十兵衛(じゅうべえ)は、敵の腕を切り落とす際に「ナムアミダブツ」と呟く。

 このような念仏には、相手への弔い、または贖罪の意味が籠められていると思われる。

F、その他

オダトモヒト『古見さんは、コミュ症です。』(小学館)

 主人公の弟・古見笑介が、米粒に南無阿弥陀仏を書き入れるシーン。なぜ、南無阿弥陀仏なのかは、よくわからない。

 以上のように、南無阿弥陀仏は様々な文脈の中に登場する。

 ただ、法然や親鸞の思想に沿った用例は皆無であり、それどころか、往生や成仏を願うという例も、ほぼ見られない。むしろ、現代日本において南無阿弥陀仏という言葉には、特定の宗派性を越えた仏教的(宗教的)表象という役割が、与えられているように思われる。
 一方、近年の漫画ほど、南無阿弥陀仏を漢字で表記する傾向が強いように感じられる。最早、仮名の表記では、南無阿弥陀仏は宗教的表現として十分に機能しないと、見られるようになっているのかもしれない。現代の日本において南無阿弥陀仏は、仏教性や宗教性を表わすフレーズとして、確固たる地位を占めているように見えるが、それが今後も続くという保証は、どこにも無いのである。そのことを我々は、確かめておくべきであろう。

 最後になったが、南無阿弥陀仏が出てくる漫画は、明治大学の学生諸君から教えてもらったものが多い。この場を借りて御礼申し上げる。

(2022年9月9日)

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今との出会い第237回「本当に守るべきものを明らかにする」
今との出会い第237回「本当に守るべきものを明らかにする」 親鸞仏教センター嘱託研究員 菊池 弘宣 (KIKUCHI Hironobu) 「あわれ、生きものは互いに食(は)み合う」 (なんと悲しいことか、生きものはお互いに争い食らい合っている)    それは、お釈迦さまの少年時代、農耕祭に臨まれた時のことである。土の中から一匹の虫が這い出てくるところに、一羽の鳥がやって来て、ついばむやいなや、飛び去っていった。それをじっと見ておられた悉多太子(しったたいし、釈尊の成道以前の名)が、深い悲しみの中より発せられた言葉であると、仏伝は伝えている。(以上、信國淳『無量寿の目覚め』〔樹心社、2005年〕所収「「個人」と「衆生」」、26頁取意)  大谷専修学院という場の基礎を築いた信國淳先生は、以下のように、「生類相克(そうこく)」を目の当たりにした少年太子の胸中に思いをいたす。   この場合太子の胸は、すべての生きものへの同苦共感の世界に生きたのである。鳥からついばまれる虫と、虫を食っていのちを養う鳥と、そのいずれにも与することなく、そのいずれをも生き、そのいずれにおいても、太子自らが生きている生命との交感、交流を感じつつ、そこに衆生世界を感得し、「あわれ、生きものは互いに食み合う」と、その如実知見を表白したのである。 (同前、26頁~27頁)   「そのいずれにも与(くみ)することなく」という一言が、私の心に残っている。食われ殺される側、食い殺す側、そのどちらか一方を支持し、正当化するというのではない。そのようなメッセージとして受け取った。思い起こされるのは、私自身の少年時代、遠足に出掛けた時のことである。一羽のアゲハチョウが、カマキリに捕まり、今まさに食われようとしている場面に遭遇した。それを見て私は、「かわいそうに。なんてひどいことをするんだ」と思い、蝶の羽からカマキリの鎌を引き離し、助けてあげた。すると、蝶はすっと飛び立っていったが、今度は、カマキリがぐったりとして動かなくなってしまった。それを見て私は、「なんてことをしてしまったんだ」とショックを受けた。カマキリは、力尽きて死んでしまったのかもしれない。どうなったのか、その顛末を見届けることはできなかった。その時のことが思い起こされてくるのである。    その時のカマキリと同じように、私自身は平生、食い殺す側になっている。自分が直接手を下さずとも、誰かに頼って、他の生き物のいのちを奪っている。他の生き物を殺して食べなければ、自身のいのちを継ぐことはできない。自分という存在は、無数の生き物たちの犠牲の上に成り立っていると言える。    さらに言えば、私は、ゴキブリやムカデなどのいわゆる害虫は、容赦なく殺してきている。害をもたらすと感じるものを何であれ、都合によって殺すような自分だから、もしも戦場に出るようなことになったら、ためらいなく人を殺してしまうのではないかと危惧している。    一方で時には、食われ殺される側に自分の身を置くということも起こり得るのかもしれない。しかし、正直に言って、食われたくないし、殺されたくない。要するに、あきらめが悪いのである。その心中は、仏陀釈尊が、『法句経』(ダンマパダ)に説かれている通りである。   一二九 すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ。 一三〇 すべての者は暴力におびえる。すべての(生きもの)にとって生命は愛(いと)しい。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ。 (中村元訳『ブッダ真理のことば・感興のことば』ワイド版岩波文庫、28頁)    私自身は、自分にも、他者にも、殺されたくないのである。存在を尊重されたい、尊重したいと願っているのである。同じようにして、他者の上に私自身のすがたを見出すのであれば、他者を殺したくない、誰かに殺させたくない。その存在を尊重したいのである。  たとえ戦禍に巻き込まれたとしても、できることならば、殺されていくよりも、殺していくよりも、誰かに殺させていくよりも、どこへでも逃げ出して生き延びたいと願っている。それは、誰も皆、一人一人、仏法がはたらく器であると信じるからなのだろうか。    いま現在、ロシアによるウクライナ侵攻に端を発する戦争の惨状を、映像で目の当たりにしている。周辺国の脅威とも相まって、日本でも武器保有、防衛費の問題が急展開してしまっている感じがする。「敵基地攻撃能力(反撃能力)」という言葉が象徴しているように、「敵」という文字が露骨に表れるようになってきている。敵と見なされたものは、当然、警戒心、不信感を抱くに違いない。それは結局、お互いを尊重して協力し助け合うような関わり合いを放棄するという方向になるのではないか。ここにきて、守るための戦いを正当化することは、極めて危険だと感じている。日本は、かつての戦争を通して、大空襲や原爆投下による被害の悲惨、苦痛、そして加害性について、身をもって知ってきたのだから、同じあやまちを繰り返してしまわないように、メッセージを発信し続けていくべきだと考える。被害の側、加害の側、どちらにもならないように模索するということがあって然るべきだと思うのである。    仏教が重んじる精神は「不害」であると聞いてきた。私自身の在り方を振り返れば、前述した通り、それを実行できてはいない。背いてばかりであると言わざるを得ない。しかし、その精神には賛同したい。誰も、傷つけない、傷つかない解決の道がある。それを探求していったのが、少年悉多太子の仏に成る歩みではなかったか。    一切の苦悩する衆生を摂め取って捨てないと誓う、本願の光に照らされて、自己中心的に分別する、執着する心の否定をくぐる。阿弥陀如来の大いなる慈悲・浄土の光に包まれて、存在の本来性に帰る。「一つである」という道理にまっすぐ順い、現実の「食み合う」世界に責任を取って生きる。それは、本願の名号・南無阿弥陀仏という呼びかけを聞く、信心をいただくというところに帰着する。    尊ぶべきは法である。本当に守るべきものを明らかにしたいと思った次第である。 (2023年3月1日) 最近の投稿を読む...
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今との出会い第236回「想いだされ続けるということ――「淵源(ルーツ)」を求めて」
今との出会い第236回「想いだされ続けるということ――「淵源(ルーツ)」を求めて」 親鸞仏教センター嘱託研究員 飯島 孝良 (IIJIMA...

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今との出会い 第231回「病に応じて薬を授く」

研究員のエッセイ「今との出会い」

親鸞仏教センター主任研究員

加来 雄之

(KAKU Takeshi)

また次に善男子、仏および菩薩を大医とするがゆえに、「善知識」と名づく。何をもってのゆえに。病を知りて薬を知る、病に応じて薬を授くるがゆえに。」(『教行信証』化身土巻、『真宗聖典』354頁

 ブッダが大いなる医師に、その教えが薬に喩えられることは、よく知られていることである。

 私が愛読している仏教通信誌に『崇信』がある。その最近号に次の文が出ていた。

語れないことを語ってしまっていないか、語りすぎていないか、ということがあります。これは児玉〔暁洋〕先生が、どこかでいわれていたことだと思いますが、医者は間違った薬を出したり、間違った処置をしたら、人を殺してしまうことがある。お坊さんは間違った説教をしたら、いのちを殺してしまう、というようなことをいわれていたと思います。(7頁)

 この文を記したのが岸上仁氏である。医者であり僧侶でありまた仏教研究者でもある岸上氏の表現だけに説得力がある。そして、このことは、私もつねづね感じていたことであった。もちろん私も、人生に苦悩を抱えた一人と向き合うときは、それなりに緊張し、言葉を選びながら語っている。数学においてはたった一つの数字のミス、法廷においては不用意な一言が、致命的な結果をもたらすことになる。果たして私はそのような厳しさをもって、仏典を読み、仏教を他者に語っているだろうか。はたして私は、医療行為に関わるような覚悟をもって、親鸞の教えに関わっているだろうか。

 いや、私には、そのような姿勢はないとはっきりと言える。先ほどの岸上氏の文のもととなった児玉師の言葉の中に「人びとが、それほど真剣に聴いてくれないのであるから幸いであるが」という指摘がある。その状況に救いを見出しているのが私の正直なところである。

 お釈迦さまは、多くの場合、ただ一人の人に向かって、その人の問いに対して、語りかけている。そこに人生の医師として応病与薬(病に応じて薬を与える)という厳粛な姿勢がある。一人の人生を左右するような極限の場面においては、語ってはいけない時と言葉があり、語らねばならない時と言葉があるのだ。

 仏教を他者に語るとはどういうことか。それは、冷たい説明や解答を提供することでもなく、相手の感情に巻き込まれることでもなく、時流に迎合することでもない。たとえ正解はなくとも、たとえ試行錯誤に終わっても、つねに生きることの深みと悲しみに立って、ともに如来の智慧のもとに所与の問題に向かい合うことなのだ。

 私は、『親鸞仏教センター通信』80号のリレーコラム欄(「近現代の真宗をめぐる人々」)において、山形県大石田町浄栄寺の住職であった織江祐法(19131989)氏と安田理深先生夫妻との交流について紹介させてもらった。祐法氏の肖像掲載の許可をとるために孫で現住職の織江尚史さんに連絡した。そのとき、祐法氏の生誕100周年記念誌『ふるさと』に掲載されている、手術前のものと手術後のものとの二つのご夫婦の写真を示し、できれば祐法氏が手術によって上顎と口蓋を失った写真を使用したいと申し入れた。スペースの関係で二つを載せることは難しかったからである。

 尚史さんは、遺族としては元気なときの祖父母の写真が好ましいが、術後の写真でも問題ないとの返答があった。それでも私は心配で、「前回、掲載写真についてお気持ちを聞かせていただき感銘を致したのですが、やはりご遺族様のお気持ちが気に掛かっております。ご連絡お待ちします」というメッセージを送った。尚史氏より次のようなメッセージが返ってきた。

 「写真については、この写真が病気を患った祖父のありのままの姿でありますので、そのまま載せていただいてもよいと考えます。手術後の写真を人目にさらすことを避けるようでは、門徒さんの前でもあえてマスクをつけなかった祖父の思いに反するような気がするからです。」

 この返事を受けて、ありのままの姿を正直に生きようとした祐法氏の勇気を改めて教えられ、またそのことを受けとめようとするご遺族の姿勢に感じるものがあった。ここに掲載できなかったご夫婦のもう1枚の写真を載せておく。

 織江氏の問いがもつ特異性は、病気の苦痛や不安に加えて、教えが説くような病気を事実のままに受けとめる信仰が実現できず動揺するという不審を正直に告白したことにある。この不審という病に対する薬を祐法氏は求めていた。安田理深夫妻の処方した薬は、すぐ効くということにはならなかったが、決して完治することのない実存の病において命終わるまで服用しつづける質のものとなった。

(2022年7月1日)

【参考文献】『ふるさと——父からのたより——(織江祐法・義 生誕100周年記念誌)』(浄栄寺、2014年)。本多弘之「安田理深『僧伽』を念じつづけて 『織江氏の問いに答えて』(『親鸞に出会った人びと5』同朋舎)。『崇信』(崇信学舎、202251日発行)。

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今との出会い第238回「寺を預かる」 親鸞仏教センター嘱託研究員 田村 晃徳 (TAMURA Akinori)  学ぶ喜びは知識を得ることであるが、学びにより発見されるのは自分の無知であろう。人は無知と言われないように学ぶ面がある。「無知の知」とは古来より伝わる大切な言葉だ。しかし、この言葉には無知である自分を蔑むニュアンスはない。それどころか、無知であることに気づいた自分のことを誇ってさえいるようにも聞こえる。学びとは知識を得ることではない。知識を得ることを通じ、自分を知ることにその目的はある。    歴史を学ぶ喜びも同様である。歴史的事項を知ることはとても楽しい。しかし事項を知るだけではただの物語だろう。それが、どのように今日の自分と関わりをもつか。このことを考えることにより自身に肉薄した事実として理解されるだろう。その時に、気づくことはただ一つ。私は先人達の努力により、今ここで生きていることができているということである。    その先人とはもちろん、祖父や父も含む。しかし、寺を支えてくれた門徒の皆さんも当然入る。門徒の方を支えてくれた、そのご家族も含むだろう。さらには、信仰を伝えてくれた先人達も含まれるだろう。このように遡っていくならば、いつかは親鸞聖人や釈尊にもつながるに違いない。    そのように考えるときに、住職達がよく使う大切な言葉を思い出した。それは「お寺を預かる」という表現である。当然のことであるが、住職が「ここは自分の寺だ」などと言い出したら、そのお寺はおしまいである。そうさせない大切な発想。それが「預かる」というものだろう。つまり、私は今、預かっているお寺において、先人達により伝えられた仏法に出遇うというご縁をいただいているのだ。親鸞聖人も『歎異抄』でお釈迦様や善導大師の名を挙げて、伝えられてきた仏法に出会えた喜びを述べている。そこに浄土真宗は自分の教えだ、といった傲慢さは皆無である。親鸞聖人もいただいた法を後世に伝えられた。それが今、私にまで伝わっている。ならば私のやるべき事も同じである。法を後世に伝えることである。    寺の歴史を学ぶ。それは知的関心だけではない。一つのお寺が誕生するまでには、悠久の仏法や、人々の歴史が必要であったことを知る。それは住職としての責任感を改めて自覚させる気づきなのである。 (2023年4月1日) 最近の投稿を読む...
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今との出会い 第230回「本願成就の「場」」

研究員のエッセイ「今との出会い」

親鸞仏教センター嘱託研究員

中村 玲太

(NAKAMURA Ryota)

 「信仰を得たら何が変わりますか?」――訊ねられる毎に苦悶する難問であり、断続的に考えている問題である。これは自身の研究課題とする西山義祖・證空(1177 – 1247)に次のような言葉があることにも起因している。

 

他力の人は、心に極楽を願う信心いたくおこらず、妄念すべて止まらぬにつけても、あら忝なの仏の願行や、五劫思惟の願が凡夫往生の願とならせずんば我等が往生は思いぎりなん。我等が願行を成じたまえる忝なさよと拝む故に、夜もすがら念じ日ねもす唱うれども、自力にはあらず、念々声々に他力の功徳が円満するなり。(證空『述成』、『西山上人短編鈔物集』、88頁)

 

 ここで「他力の人」と言われる念仏者について、浄土を願う心もおこらず、迷妄も止まない姿が語られるが、證空における自覚の吐露だと言ってもよいのであろう。それでは「他力の人」になっても何も変わらないのではないか。正確に言えば、弥陀の本願に帰するという宗教体験は、個人の人格を変えるものではないのか。変えるものではないとするならば、「他力の人」になるとは如何なる意味で従前の自己とは違うのか。こうした問いである。現段階のひとまずの回答として考えているのは、本願に帰入するということは、私の人格が変わるという体験ではなく、立つべき土台、大地が与えられるという世界の変容ではないかということである。これについて少し考えてみたい。

 我々は刻々と変化だけはしているのであり、求めているのは「意味のある」変化であろう。求道上で言えば、本願を信じて浄土を喜べるようになった、ありがたさを感じるようになったという変化があれば、仏道を歩んできた有意味な結果として安堵できるのかもしれない。しかし、そうした変化、体験をして往生の確証とするわけにはいかないであろう。これは求道心が変化することの価値を否定するものではなく、凡夫の知恵で判断、確信できる範疇に往生浄土はないということである。

 證空は「自力の人」については、「信ずる心発る時は往生も近々と覚え、妄念発りて心ならぬ時は、往生も遠々と覚ゆるなり」(同上、87頁)としている。本願を信じる心がおきる時は往生を確信し、そのような心でいられない時には往生も遠いと思うのが「自力の人」の姿なのだという。これは何が問題なのだろうか。おそらく、浄土を近くに感じ取るようになったなどという変化をもって、それを往生において「意味のある」変化だと受け止める態度が問題にされているのであろう。往生という次元においては、自らが「意味のある」と思う変化、体験にすがる心こそ自力と言われるのである。

 弥陀の本願に照らされて仏道を歩むというのは、我々にわかりやすく有意味な変化や体験が与えられるものではないということにもなろう。その反面、歩みの一つ一つを我々が思う有意味/無意味という範疇では判定されないということでもある。

 しかし、これは無心に、気兼ねなく歩ける道が与えられるというものではない。凡夫の抱える罪悪は変わらないのであり、罪悪は罪悪として知らされるのである。それは罪悪の凡夫とは、浄土にしても僧伽(サンガ)にしてもそれが与えられるに値する存在ではないということの自覚でもある。しかし、この罪悪離れがたき凡夫を場として成就するのが、浄土を与えんとする弥陀の本願なのである。先の『述成』で證空は、妄念の止まない自己に満ちる他力の功徳を「あら忝(かたじけ)なの仏の願行」だと言っていた。これは本願への讃嘆であり、卑小な自己の分を超えた境遇であることの自覚でもある。かたじけなくも、弥陀が本願を成就していく実践の場として、凡夫の世界が宗教的な意味転換をするのである(これは證空のいわゆる「往生正覚倶時」説から敷衍して考え得るものである。拙稿「天台本覚思想と證空――「現生往生」思想の究明を射程に入れて」『花野充道博士古稀記念論文集 仏教思想の展開』〔山喜房仏書林、2020〕参照)。

 あえて言えば、弥陀の歩みの場として我々にも道が与えられていくということになろうか。冒頭の問いに対して、以上のような立つべき、歩むべき世界の変容があるのではないかということを考えている。

(2022年6月1日)

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今との出会い第237回「本当に守るべきものを明らかにする」
今との出会い第237回「本当に守るべきものを明らかにする」 親鸞仏教センター嘱託研究員 菊池 弘宣 (KIKUCHI Hironobu) 「あわれ、生きものは互いに食(は)み合う」 (なんと悲しいことか、生きものはお互いに争い食らい合っている)    それは、お釈迦さまの少年時代、農耕祭に臨まれた時のことである。土の中から一匹の虫が這い出てくるところに、一羽の鳥がやって来て、ついばむやいなや、飛び去っていった。それをじっと見ておられた悉多太子(しったたいし、釈尊の成道以前の名)が、深い悲しみの中より発せられた言葉であると、仏伝は伝えている。(以上、信國淳『無量寿の目覚め』〔樹心社、2005年〕所収「「個人」と「衆生」」、26頁取意)  大谷専修学院という場の基礎を築いた信國淳先生は、以下のように、「生類相克(そうこく)」を目の当たりにした少年太子の胸中に思いをいたす。   この場合太子の胸は、すべての生きものへの同苦共感の世界に生きたのである。鳥からついばまれる虫と、虫を食っていのちを養う鳥と、そのいずれにも与することなく、そのいずれをも生き、そのいずれにおいても、太子自らが生きている生命との交感、交流を感じつつ、そこに衆生世界を感得し、「あわれ、生きものは互いに食み合う」と、その如実知見を表白したのである。 (同前、26頁~27頁)   「そのいずれにも与(くみ)することなく」という一言が、私の心に残っている。食われ殺される側、食い殺す側、そのどちらか一方を支持し、正当化するというのではない。そのようなメッセージとして受け取った。思い起こされるのは、私自身の少年時代、遠足に出掛けた時のことである。一羽のアゲハチョウが、カマキリに捕まり、今まさに食われようとしている場面に遭遇した。それを見て私は、「かわいそうに。なんてひどいことをするんだ」と思い、蝶の羽からカマキリの鎌を引き離し、助けてあげた。すると、蝶はすっと飛び立っていったが、今度は、カマキリがぐったりとして動かなくなってしまった。それを見て私は、「なんてことをしてしまったんだ」とショックを受けた。カマキリは、力尽きて死んでしまったのかもしれない。どうなったのか、その顛末を見届けることはできなかった。その時のことが思い起こされてくるのである。    その時のカマキリと同じように、私自身は平生、食い殺す側になっている。自分が直接手を下さずとも、誰かに頼って、他の生き物のいのちを奪っている。他の生き物を殺して食べなければ、自身のいのちを継ぐことはできない。自分という存在は、無数の生き物たちの犠牲の上に成り立っていると言える。    さらに言えば、私は、ゴキブリやムカデなどのいわゆる害虫は、容赦なく殺してきている。害をもたらすと感じるものを何であれ、都合によって殺すような自分だから、もしも戦場に出るようなことになったら、ためらいなく人を殺してしまうのではないかと危惧している。    一方で時には、食われ殺される側に自分の身を置くということも起こり得るのかもしれない。しかし、正直に言って、食われたくないし、殺されたくない。要するに、あきらめが悪いのである。その心中は、仏陀釈尊が、『法句経』(ダンマパダ)に説かれている通りである。   一二九 すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ。 一三〇 すべての者は暴力におびえる。すべての(生きもの)にとって生命は愛(いと)しい。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ。 (中村元訳『ブッダ真理のことば・感興のことば』ワイド版岩波文庫、28頁)    私自身は、自分にも、他者にも、殺されたくないのである。存在を尊重されたい、尊重したいと願っているのである。同じようにして、他者の上に私自身のすがたを見出すのであれば、他者を殺したくない、誰かに殺させたくない。その存在を尊重したいのである。  たとえ戦禍に巻き込まれたとしても、できることならば、殺されていくよりも、殺していくよりも、誰かに殺させていくよりも、どこへでも逃げ出して生き延びたいと願っている。それは、誰も皆、一人一人、仏法がはたらく器であると信じるからなのだろうか。    いま現在、ロシアによるウクライナ侵攻に端を発する戦争の惨状を、映像で目の当たりにしている。周辺国の脅威とも相まって、日本でも武器保有、防衛費の問題が急展開してしまっている感じがする。「敵基地攻撃能力(反撃能力)」という言葉が象徴しているように、「敵」という文字が露骨に表れるようになってきている。敵と見なされたものは、当然、警戒心、不信感を抱くに違いない。それは結局、お互いを尊重して協力し助け合うような関わり合いを放棄するという方向になるのではないか。ここにきて、守るための戦いを正当化することは、極めて危険だと感じている。日本は、かつての戦争を通して、大空襲や原爆投下による被害の悲惨、苦痛、そして加害性について、身をもって知ってきたのだから、同じあやまちを繰り返してしまわないように、メッセージを発信し続けていくべきだと考える。被害の側、加害の側、どちらにもならないように模索するということがあって然るべきだと思うのである。    仏教が重んじる精神は「不害」であると聞いてきた。私自身の在り方を振り返れば、前述した通り、それを実行できてはいない。背いてばかりであると言わざるを得ない。しかし、その精神には賛同したい。誰も、傷つけない、傷つかない解決の道がある。それを探求していったのが、少年悉多太子の仏に成る歩みではなかったか。    一切の苦悩する衆生を摂め取って捨てないと誓う、本願の光に照らされて、自己中心的に分別する、執着する心の否定をくぐる。阿弥陀如来の大いなる慈悲・浄土の光に包まれて、存在の本来性に帰る。「一つである」という道理にまっすぐ順い、現実の「食み合う」世界に責任を取って生きる。それは、本願の名号・南無阿弥陀仏という呼びかけを聞く、信心をいただくというところに帰着する。    尊ぶべきは法である。本当に守るべきものを明らかにしたいと思った次第である。 (2023年3月1日) 最近の投稿を読む...
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投稿者:shinran-bc 投稿日時: