親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

「親鸞仏教センター通信」第77号

谷釜智洋 掲載Contents

巻頭言

本多 弘之 「パンデミックの中で法蔵願心を憶う」

■ 近現代『教行信証』研究検証プロジェクト報告

講師 本明 義樹 「『教行信証』の「現代的解釈」に向けての課題—聖教編纂を通して—

報告 藤原  智

■ 第65回現代と親鸞の研究会報告

テーマ 「裁判員制度10年を見つめて」

講師 坂上 暢幸

講師 大城  聡

報告 飯島 孝良

■ 「正信念仏偈」研究会報告

講師 四方田犬彦 「アーカイヴとしての『教行信証』」

報告 東  真行

■ 清沢満之研究会報告

谷釜 智洋 「「語られる清沢満之」という課題――雑誌『精神界』を読む――」

■ 研究員と学ぶ公開講座2020報告

藤村  潔 「救われがたき者とは— 『大乗涅槃経』を読む —」

東  真行 「親鸞を再読するという課題 — 金子大榮による戦後の思索 —」

谷釜 智洋 「大正期における「現代」と真宗 — 真宗大谷派仏教学会の取り組み —」

■ リレーコラム「近現代の真宗をめぐる人々」

東  真行 「西本文英(1920〜2006)」

コラム・エッセイ
講座・イベント

刊行物のご案内

研究会・Interview
投稿者:shinran-bc 投稿日時:

『現代と親鸞』第44号

谷釜智洋 掲載Contents

研究論文
研究レポート
■ 第62回現代と親鸞の研究会

佐藤 卓己 「「ポスト真実」時代の輿論主義と世論主義」

■ 第63回現代と親鸞の研究会

橋本 健二 「現代日本の階級社会とアンダークラス」

■ 第64回現代と親鸞の研究会

伊藤  聡 「「神国日本」という語りの重層性」

■ 第1回「現代と親鸞公開シンポジウム」報告

テーマ:「〈かたられる〉死者」

【問題提起】

中村 玲太 「〈かたられる〉死者」」

【提言】

加藤 秀一 「亡き人を〈悼む〉こと、「死者」を忘れること」

師  茂樹 「「死者」はどこにいるのか―仏教の死者観と人間中心主義―」

吉水 岳彦 「極楽に住き生まれて」

【全体討議】

佐藤 啓介(コメンテーター)・中村 玲太(司会)

■ 連続講座「親鸞思想の解明」

本多 弘之「 浄土を求めさせたもの――『大無量寿経』を読む――(30)」

コラム・エッセイ
講座・イベント

刊行物のご案内

研究会・Interview
投稿者:shinran-bc 投稿日時:

景色がかわるとき

谷釜智洋

親鸞仏教センター研究員

谷釜 智洋

(TANIGAMA Chihiro)

 「人格ある誰かを見失うな」。山川冬樹氏のインタビュー記事の見出しである(『毎日新聞』東京夕刊2020年6月8日)。偶然みつけたこの記事をきっかけに、山川氏が「ハンセン病問題」に向き合った『海峡の歌』というインスタレーションを発表していることを知った。かねてから氏のライブパフォーマンスには常に驚かされ、その世界観に魅了されてきたが、この『海峡の歌』に込められた思いには特に惹きつけられた。

 香川県にあるハンセン病療養所、大島青松園からかつて自由を求めて対岸にある庵治町へ泳いで渡ろうとし、その過程で命を落とした人々がいた。このインスタレーションでは、その事実に基づく映像作品も展示されている。([参照] ART SETOUCHI

 異なる療養所であるが、2014年に私は岡山県の長島愛生園へフィールドワークとして訪れたことがある。その際に園内にある真宗寺院や歴史館においてハンセン病の回復者の方々と交流する機会を得た。そこで眺めた海の景色は、自分には広々と穏やかに見えていた。歴史館の資料や回復者の方々の話から、愛生園から脱走を図った当時の患者達の中にも青松園と同様のことを試みて、亡くなられた方が何人もいたことを知った。この事実を知った途端、言葉では説明できないような感情がこみ上げ、穏やかに見えていた海の景色が一変するという体験をした。

 近代の大谷派と「ハンセン病問題」については、昭和6(1931)年に国が発した「らい予防法」の制定がまず注目される。この法令でいう「予防」とは名目で、ハンセン病患者を強制隔離するための法律であったといわれている。教団としてその政策に加担してきた大谷派は、法令の制定に合わせて、大谷派光明会を結成し、慰問布教として僧侶を療養所に派遣するが、その実質的目標は強制隔離を患者自身の運命としてあきらめさせることにあった。大谷派出身の僧侶であり医学者の小笠原登(1888-1970)は、この隔離政策に異をとなえたが、当時の教団を動かす力とはならなかった(『増補 小笠原登――ハンセン病強制隔離政策に抗した生涯』、東本願寺出版、2019年を参照)。

 2011年12月頃であったか、東日本大震災の被災地のひとつでもある岩手県の大槌町を訪れた際にも、愛生園のときと似たような感覚に襲われた。震災から1年も経たない時期であったが、余震がだいぶ落ち着き始めていたこともあり、同県に住む友人を尋ねた。友人からその景色を見るように促され、一人で大槌町に向かった。私自身にも被災地の現状をこの目で見なければという思いに駆られるところがあった。

 町には更地の中に山積みにされた瓦礫がいくつもあった。その港から海を見た途端、ここで多くの人の命が尽きたことを考えると、身がすくみ、かつてそこにいた人々の声すら聞こえてきたような気がした。なんらかの事実に触れることで普段通りの景色は、まったく違うものに映ってしまう。

 冒頭で言及した映像作品で山川氏は、過去の出来事とは逆に庵治町から大島までみずから泳いで渡るということを試みている。過去の事実に無関心であれば、ただ人が泳いでいる映像にしか見えないかもしれない。氏のやり方で「人格ある誰か」に接近していく試みであったのだと想像する。

 私の景色を一変させたのは、氏の言葉をかりれば「人格ある誰か」の存在だったのだろうか。

(たにがま ちひろ・親鸞仏教センター研究員)

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投稿者:shinran-bc 投稿日時:

『アンジャリ』WEB版(2021年5月15日更新号)

谷釜智洋 目次

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亀裂のなかで生きること
亀裂のなかで生きること 神戸大学人文学研究科講師 齋藤 公太 (SAITO Kota)  新型コロナウイルスの存在が国際ニュースの一角を占めるようになったのは、2019年の末頃だったろうか。それは当初遠い場所の出来事のように聞こえていたが、日本でも感染が広がり、人々の生活が一変するまで、さして長い時間はかからなかった。今や外出時にマスクをつけ、念入りに手指を消毒する生活にはすっかり慣れた。しかし、何か世界の位相がズレてしまったような居心地の悪さは、底流のように続いている。  新型コロナウイルスとは一体何なのか。私たちはなぜこのウイルスに遭遇し、そしてどこへ向かっているのか。そこには何も意味がないのか。すべてが不明瞭なまま、とにかく日々を乗り越えるしかない。そんな感覚を抱いている人は、決して少なくないだろう。そしてこのような感覚は、10年前の東日本大震災の時にもあったことを思い出す。  今回のパンデミックに限らず、自然災害や大きな事故は、普段私たちが世界を認識するために依拠している物語や象徴体系に亀裂を生じさせる。そして、...
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呼びかけられる
呼びかけられる 哲学研究者 永井 玲衣 (NAGAI Rei)  遠くから、おーいと呼びかけられることが好きだった。  おーい、おーい、と声がする。風が顔を吹き付けていて、少し肌寒いと感じるあの日のことだ。西日の傾きがゆっくりと一日が終わることを示していて、放課後の気だるい空気が漂っている。おーい、おーい、とまだ声がする。周りにひとはいなくて、わたしは平坦なゴム製のグラウンドをゆっくり踏みしめて西校舎に向かっている。おーい、おーい。だんだんとその声が、わたしの聞き慣れた声であることが分かってくる。おーい、永井、おーい。わたしの名前が呼ばれる。わたしは振り返って、声のする方を見上げる。友だちが、校舎の3階からわたしに手を振っている。おーい、おーい。  記憶はそこで曖昧になっている。誰かに探されていたのか、その子がわたしに用があったのかは忘れてしまった。にもかかわらず、それはひどく嬉しかった記憶としてわたしの奥底に潜んでいる。  誰かがわたしを呼ぶ声。聞こえるか聞こえないかわからないままに、それでもなお、何度も何度も呼びかけるあの声。おーい、おーーーい、というのん気で、切実な呼びかけ。 *  哲学対話という奇妙な活動をしている。ある問いについて、ひとびとと考え、聞き合い、対話する。ここで行われるのは「会話」でも「議論」でもない。バラバラの人々と集まり、物事をゆっくりと深めていく時間である。  ひとびとと共に考える問いは「人間に価値はあるのか」などいかにも哲学的というものもあれば「人間関係はなぜつらいのか」など日常的な悩みのもの、「友だちの人生を生きられないのはなぜ」など、考えてみればふしぎだと思えるものなど、様々である。  わたしは自治体や学校、美術館や企業などで哲学対話をすることが多いが、ここ数年お寺でも対話を行ってもいる。ちなみに初回は「墓は必要か」という問いで、お坊さんやそのお寺の檀家さん、通りすがりの観光客、近所の人など、色々なひとが集まった。  哲学対話は真理探究の場だが、急いでわかりやすい「正解」を出したりはしない。勝ち負けを決めたり、「いいこと」を言ったひとがえらいわけでもない。ひとびとは問いの下で平等であり、そこに優劣や権力が持ち込まれないように気が払われる。それは、あくまでこの哲学探究が「対話」であることにとどまろうと努力する試みでもある。  哲学対話は「哲学」と「対話」の単なる合成語ではない。哲学的であることは、対話的であることだ。探求をするためには、その場が対話的でないと、哲学は育たない。対話に参加するあなたを、わたしたちは尊重する。言葉につまり、言いよどみ、時に沈黙するその時間も、哲学対話は丁寧に扱う。息遣い、誰かの汗のにおい、遠くで聞こえる工事の音、たまにごつんと当たる隣のひとの肘、すべてがその「場」に存在し、対話に参加していることを感じながら、わたしたちは哲学をする。  新型コロナウイルスの影響で、学校や喫茶店、お寺など、色々な場所でひらかれていた哲学対話は次々と中止になった。輪になって座ることの多い対話は、顔をつきあわせ、互いの身体の近さを感じながら話し合うことがほとんどなので、いちばんの感染症対策は、その場をひらかないことである。  こうして、多くの会議や研究会と同じように、哲学対話はオンラインで行われることが主流となった。  オンラインで対話をすることについては、否定的な意見もあるし、同時に可能性を見出す声も聞こえてくる。おそらくその両方なのだろう。身体性を伴わない対話はどこか不安でつながりが希薄に感じられるが、すべてを等し並みにしてくれる画面は、圧迫感や緊張感を軽減してもくれる。休み時間での隣同士での簡単な会話、帰り道を共にしながら、考えそびれたことを語るあの時間はなくなってしまったが、普段参加しづらい状況にあるひとが参加しやすくなったり、より自由な形式での参加が可能になりもした。  だから、オンラインでの対話は、対面の代替物というよりは、まったく別のものと考えたほうがいいのかもしれない。オンラインによって、対面と比較して何かができなくなってしまったとか、対面が可能になるまでのその場しのぎとかではなくて、また別の新しいコミュニケーションのひとつなのだ。  わたしも最初は、どうやって対面の対話にオンラインの対話を近づけられるかを考えていたように思う。かつて見知っていた地点からしか、変容したあり方を考えることができなかった。  まったく目新しいものとして、オンラインでの対話を見つめ直してみるとどうだろう。それでもやっぱり、これまでのやり方と比べてしまうけど、なぜだかふと頭に浮かんだのは、遠くにいる友だちがわたしに呼びかける声だった。 *  もしもーし、聞こえますか、と誰かがわたしに呼びかけている。はーい、とわたしが応えるが、相手には聞こえていない。オンラインでのある哲学対話の時のことだ。他のひとたちが、聞こえてますよ、こっちはどうですかと呼びかける。あれ、聞こえていないのかな、という独り言がわたしたちの耳に届く。ちがう、あなたの声は聞こえているけど、わたしたちの声があなたに届かないのだ、とわたしたちは悟って、懸命に声を出す。もしもし!聞こえていますよ!おーい、おーい、聞こえています!わたしたちは相手に聞こえないことを分かっていながら、なぜだか呼びかけている。  わたしはあの時間が好きだ。おーい、おーいと友だちがわたしの名前を呼んでくれたうれしさをなぜだか思い出す。呼びかけるということだけに集中しているあの瞬間。すぐそばにいないからこそ、声を張り上げて、その人の名前を呼ぶあの時間。  すぐ近くにいれば、わたしはあなたの肩をそっと叩くことができる。近くに座るだけで、あなたは振り向いてくれる。  だが、わたしたちはとおくとおく離れている。電波を通して、奇妙な仕方で集っている。だからこそ、わたしたちは言葉であなたにふれなければならない。祈るように、あなたに呼びかける。  あっ聞こえるようになりました、とあなたが画面の奥で嬉しそうに笑っている。それをわたしたちはよかったねえ、と祝福している。声が届く、ということによろこぶことができる。こっちも聞こえますよ、ああよかった、聞こえますか?聞こえますよ、聞こえますね、とわたしたちは何度も確かめる。  このとき、「声が届く」という普段見慣れたことがふしぎなことに様変わりする。画面に映るたくさんの人たちの背後には、それぞれの部屋がある。揺れる洗濯物、棚に押し込まれたぬいぐるみ、掃除機をかけるお母さん、横切る猫、少しくすんだ壁紙、走り回る子どもたち。のっぺりとした画面の奥に、パソコンを切ったその後に、ひとびとの生活と、それぞれのはてしなく続く人生がある。  わたしたちは本当にばらばらで、見知らぬ他者同士だ。あなたがこれまで何をして、何を食べて、何にかなしみ笑ってきたのかをわたしは知らない。そして今後、あなたが何に喜び、何を失って、どんな人になるのかも知ることはない。  だがあの瞬間だけは、おーい、おーいと互いに呼びかける。あなたの声が聞きたくて、あなたと話したくて、わたしたちは互いに一生懸命に声を届けようとする。一度つながったとしても、通信の関係で、突如としてあなたがいなくなってしまうこともある。不安定になり、一瞬だけ聞き漏らしてしまうこともある。わたしたちの対話の場は、非常に不安定で、奇妙で、もろいのだ。    本当はオンラインの場でなくたって同じだ。他者と共に考える場は、対話だけでなく議論でも、会話であっても、不安定で奇妙でもろい。しかしオンラインは、そのことがより意識される。そして、普段の場のむずかしさが再び捉え返される契機でもある。  いや、もっとシンプルに考えてもいい。哲学対話は、ひとびとと考えを問い合いながら考えを深めていく。そこにあるのは、独白的な語りではなく、あなたと共に考える共同的な語りだ。あなたが見知らぬ他者であっても、あなたが必要で、あなたと共に考えたいと思うし、あなたにも必要とされたいと思う。だからやっぱり、あなたに呼びかけられることはうれしい。  仕事の帰り道、小さな子どもが、遠くの母親におーい、おーーいと声を出しているのを見かけた。母親は少し離れた駅ビルの二階のガラス窓から、穏やかに手を振っている。子どもは隣にいる父親と手をつなぎながら、おーい、おーーいと嬉しそうに飛び跳ねている。...
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「うったう」――共感するという希望
「うったう」――共感するという希望 シンガーソングライター 寺尾 紗穂 (TERAO Saho)  アーティストとは何だろうとよく考える。私の身の回りの音楽のアーティストを見回すと、よく聞き、よく作り、よく演奏する人々という印象だ。ことに男性アーティストの多くが、熱心なリスナーであり、そこから自らの音楽にエッセンスを取り込んで作っていくことに長けているように感じる。私はと言えば、日常的に音楽を聴くことが出来ない。音楽を聴くときは誰かから「これがいいよ」と音源を渡されたり、知り合いのミュージシャンから新作を手渡された時などだ。歌もののアルバムであれば、歌詞カードを見ながら集中して過ごす一時間弱であって、それ以外に音楽を聴くということから遠ざかっている。加えて音楽を作る時間というのは日常的にない。私にとっての作曲は自転車に乗っているとき、あるいはお風呂に入っている時、あるいは駅で電車を待っている時ふいに思いつくものであって、その場でコードや歌詞を書きとめて、後でまとめることだ。例外的に人の詩に曲をつけたり、珍しく詩だけが先にできあがっている時は、30分くらいピアノの前に座って作るけれど、それは稀にだ。そんな具合だから、意識的に聞いたり作ったりがほとんどない自分はアーティストと名のっていいのかどうか、今でも自信がない。ピアノ弾き語りという形で活動はしているけれど、似非アーティストと言われても、「はい、そうかもしれません」と答えるしかない。  それでも、私は死ぬまで日本のあちこちで歌っている、という勝手な確信がある。それは私がライブをさせてもらう中で感じていることだ。ライブ後に地方で丁寧につづられた手紙をもらう事も多い。ある人は、最近離婚したこと、転職すること、うつ病に苦しんでいること、息子が大学生になること、離婚調停が長引いていることなど、それぞれの近況を綴ってくれる。そしてあなたのこの歌がこんなときに支えになった、といったことを教えてくれる。表現者にとってこれほどありがたいこともないのだ。自分が悩みながら生きて、その過程で生まれた作品が、いつのまにか誰かの心に届いているという事実に、どれほどこちらが励まされることか。  数年前、四日市市にある絵本やさんの二階のホールでライブをしたことがあった。ライブ後に絵本やさんの御主人に言われた言葉がある。 「寺尾さんはミュージシャンじゃないな。ミュージシャンてのは、お客さんを音楽世界に引き込むために、大抵前奏をつけるんだよ。あなたのは、ほとんど前奏なしで歌からぱっと始まる。ミュージシャンじゃなくてメッセンジャーだね」  なるほど、と思った。ではメッセンジャーとは何だろう。シンプルに考えれば、言葉を伝える人だ。そうかもしれない。音楽家によっては、言葉の響きは気にしても、意味をあまり重視しないという人もいる。坂本龍一さんなども、歌詞を聴かないタイプだと聞いたことがある。そういう意味では私のファンの人たちは、とてもよく言葉を聴いてくれる人たちという印象もある。歌というものを考えるとき、メロディが素敵な曲というのは色々ある。けれどその中で時代を経て残っていく歌というのは、必ず言葉が優れている。伝えたい言葉と思いがあって歌になる。それこそが歌が歌として存在する意味ではないかという気がする。  折口信夫によれば、「歌う」は「訴う」と同根の言葉であるという。訴訟と言う意味よりも、哀願や愁訴といったニュアンスだ。たしかに、そうではないだろうか。人類がはっきりとした言葉をもたないころ、つまり限りなく動物に近かったころ、おそらく悲しみや不満を表すとき、犬のようなクーンという音の高低をつけて表現していただろう。そういう原始的なところから、歌は発生している気がする。  古代、語り部といわれる、古い伝承や寿詞、呪言や呪力を有した職業集団の一つに猿女の君がある。古事記のもととなった語りを誦していたと言われる稗田阿礼も猿女の君の支族、稗田氏だ。折口によれば、猿女の君は主として鎮魂の呪言を説いたという。古今悲しみの多くは死別によりもたらされる。呪言が鎮魂のために生まれ、悲しみを「訴え」たりなだめたりして、表現してきたというのは自然なことに思える。  20代のころから別れの歌を多く歌ってきた。死は、避けるべきものではなく、私にとってはどこか身近なことだった。そして誰かを失う悲しみもまた、小さなころから強く感じてきた方だと思う。祖父母と別れる時、もう会えなくなるのではないかと泣きそうになることがよくあった。死を扱う歌も多い。「あなたの歌はどこか鎮魂のようね」と言われることもある。  こうして振り返ると、「メッセンジャー」と言われた意味がだんだん腑に落ちる。私の歌は「訴え」であるのかもしれない。元来無口なほうである。発した先から消えていってしまうような発話の言語によって人と討論することも苦手だ。それゆえ「歌う」ことが私の「訴う」術なのだ。生きれば足跡のように歌が残る。その歌を辿って心寄せてくれる人がいる。私が感じたはずのことをあなたも感じている。誰もが立場が異なり、世の中、分かりあう事の難しさを感じることも多い中で、「訴え」が静かに誰かと共鳴しうることは、今も、これからも私の中の小さな希望である。 (てらお さほ・シンガーソングライター)著書に『彗星の孤独』(スタンドブックス)など。 他の著者の論考を読む...
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「隔離」の残響
「隔離」の残響 現代美術家・ホーメイ歌手 山川 冬樹 (YAMAKAWA Fuyuki)  昨年から「隔離」という言葉を頻繁に耳にするようになった。  この言葉を聞いて、わたしがどうしても想起せざるを得ないのは、ハンセン病をめぐる「絶対隔離」のことである。ここ数年、ハンセン病療養所に通い、回復者たちと密に関わりながらアートプロジェクトに従事してきた身からすると、この「隔離」という言葉を聞くたびに、どこか刃物で胸を突き刺されるような痛みを感じずにはいられない。さすがに最近は少し聞き慣れてはきたものの、この「隔離」という言葉が急にマスメディアで取り沙汰されはじめた頃は、思わず熱を出して寝込んでしまうほどだった。  それはちょっと過敏な反応なのでは、と思う人もいるだろう。しかし果たしてそうだろうか?...
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日常を永遠と。――浄土に呼び起こされる現実について
日常を永遠と。――浄土に呼び起こされる現実について 親鸞仏教センター嘱託研究員 中村 玲太 (NAKAMURA Ryota) 「もっと乱暴に、世の中の宙ぶらりんな物語を終わらせるべく襤褸の少女を派遣するというのはどうだろう。襤褸を着た少女がよたよたと歩いてきて空を見上げ「あ、流れ星」と呟くぐらいでもいいとも思う。世のありとあらゆる物語の中を渡り歩いてラストシーンを飾るというのは、大変に幸せな職業かもしれない」(高山羽根子「「了」という名の襤褸の少女」、『うどん キツネつきの』〔創元SF文庫〕所収)    下に引っ張りすぎたTwitterが更新を渋っている。日常のネタ切れ。最初からそうしていればよいのだが、ようやく電子書籍に目を落とす。  高山羽根子を読む。高山作品としては「母のいる島」「ビースト・ストランディング」が好みではある。奇想的な物語にあって細部が際立つリアルな描写、そこに抜群のユーモアが散りばめられている。この辺が読みやすい物語ではあるが、「オブジェクタム」「居た場所」のような、いびつな日常をウロウロさせ、消化不良が続き、なぜかいつまでも自分の中で生き続ける物語もある。これもまた魅力。    もはや無意識的に「日常」と書いているが、過去に書いた自分の文章を読んでみても、「日常」や「生活」という言葉に高確率で出くわす。着実に「日常」が増えている。地に足つけた日常生活の重要性を、自分に言い聞かせるように書くのは、ダラダラと延々と続く日常の退屈さ、耐えられなさとの葛藤のようにも思う。  高山は冒頭のエッセイ中に、物語を終わらせる行為の難しさを語っている。「とくに現実に近い物語であればあるほど、終わらせ方に困る。そもそも現実は終わらないものだから、物語の上で終わらせる時には違和感を法螺で注意深く塗り潰す作業のような行為が必要だと信じ、そのために手に余らせてしまう」と。現実は歯切れが悪く、どこまでもそうでありながら続く。   Δ    日常と浄土。グダグダと延々と考えている問題だ。日常の延長が浄土なのだろうか。煩悩具足の生活を引き延ばした先が浄土ではないだろう。しかも、煩悩を本質とした生活を、自力の努力でその本質を変えることができないとすれば、我が身の想像の範疇を超えているとしか言いようがないはずだ。    ここで考えるのは、浄土がこの世、穢土と隔絶しているとして、それをどう思考すべきか。穢土と浄土を並べて相対的に比較するのは、穢土も浄土も俯瞰して見る超越的視点である。果たしてこれは凡夫の範疇で成立する視点だろうか。  しないのだと思う。この世界の否定形としてしか我々に現れ得ないのが浄土なのだと思うが、それはこの世界を超えた外側――にこちら側が立つ視点を常に奪う働きである。「今、ここでしかない」と有限性を自覚させる、外へと向かう視線を内側へとひっくり返す働きが「他力」と呼ばれる弥陀の本願力なのだと考えたい。    しかし浄土教は、この世界はこの世界のままでよい、そのまま肯定されるのだ、という思想とは一線を画すものだ。それは外側から世界や〈いのち〉を丸ごと肯定する視点を剥奪するという形で、我々に現前し続けるのが浄土の働きなのだと思う。  法然の直弟、西山義祖・證空は『散善義自筆鈔』巻一で、「具造十悪五逆、トライハ、生々世々ノ中ニ六道ニ輪廻シテ、造ラザル罪ナシ。愚痴迷惑ノ故ニ、スベテ是ヲ知ラズ。今仏願ノ不思議ナル事ヲ知ル時、無始已来ノ諸悪悉ク是ヲ悟ル事ヲ釈シ顕スナリ」(西叢二、187頁)と言う。無限の救済によって知らされる我が身は、あくまで「諸悪」、罪業を造り続けている身なのだ。それ以上ではない。ひとを傷つけ、自分を傷つけ、苦しみ呻く世界。ここにある自他の呻きの声に対して、何か超越的な視点で世界を肯定し、糊塗してしまうのではなく、悪や苦しみを「それをそれとして見る」のだ。しかし、それと同時に、人生を丸ごと否定する視点からも程遠い、いや断絶している。    無限の救済に触れる我々の視点は、この世界や〈いのち〉の全肯定でも全否定でもなく、そうした視点に立ち得ない有限なる在り方の自覚ではないだろうか。我々にできるのはせめて部分肯定だけなのだと。なぜ部分肯定ではダメなのか。本来、こう問われるべきものなのかもしれない。  いずれにせよ、無限の救済に触れる我々の現実は単なる現実ではない、外側のなさと同居した現実であり、それは無限の浄土に裏打ちされた現実なのである。   Δ    5才のよつばの日常を描く漫画、あずまきよひこ『よつばと!』(電撃コミックス)15巻を読み直しながら、『親鸞仏教センター通信』第77号(2021年6月発行)の「あとがき」の校正をしている。自分で執筆したものだが、そこには相も変わらず「日常」と書いている。「帰るべき日常などというものは本来ないのかもしれない。日常は今までに想いを馳せ、新しさに驚嘆しながらちょっとずつ作られていていく――作っていかなければならないのだろう」と。  全肯定/全否定のケジメをつけられない歯切れの悪い私の日常は、常に点検が必要だし、これはまあまあいい経験をしたと喜び、拭えぬ退屈さからSNSに逃避しては現実に巻き戻される。    本来的に帰るべき、という形容がし難いのが日常なら、それを超えた浄土こそ帰るべき存在の本来的世界だとも言えようか。帰るべき世界からの呼び声に耳を傾けて、ふと現実に巻き戻されるだけではなく、そもそも我々にとっての現実とは何かを延々と考えていくべきなのだろう。   ※本稿は、第2回「現代と親鸞」公開シンポジウム(テーマ:生まれることを肯定/否定できるのか?――反出生主義をめぐる問い)の問題提起を受けるものである。報告記事参照のこと。 (なかむら りょうた・親鸞仏教センター嘱託研究員) 他の著者の論考を読む...
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テクストとしての宗教を読むということ――「語られた」像の思想史を描出する
テクストとしての宗教を読むということ――「語られた」像の思想史を描出する 親鸞仏教センター嘱託研究員 飯島 孝良 (IIJIMA Takayoshi)  いささか面映ゆいことではあるが、ごく私的な経験談から始めたい。10代の終わり、学問的な気風に接することなく過ごしてきた私にとって、恩師が示して下さった“聖書学”という分野は、ひとつのカルチャーショックであった。聖書学は、聖書にちりばめられた「奇蹟(物語)」や「超自然」を合理主義の下に排し、人間イエスの精神とその時代を出来る限り客観的に描出することに努める営為である。すなわち、イエス自身の言行と思われたものも、福音書の記述と編集の段階で弟子や原始教団の意図や認識によって創出されたものであって、史実そのもののイエスを語るというよりも、記者や編集者それぞれの問題意識を反映した〈像〉と看做すのである。このように「史的イエス」探究を軸とした聖書学は20世紀に隆盛を極め、古代史学や社会心理学や言語学(言語行為論など)を総合的に踏まえてイエスとその時代を分析する「文学社会学」的聖書学へと結実していった。  視点を仏教に移すと、イエスのみならず仏教者もまた、史的存在であるとともに「語られる」存在たり得る。その具体例として理解しやすいのは、所謂「宗祖」と称される存在である。法然にせよ日蓮にせよ、「救済者」「超越者」として伝承されることもあれば、とくに近現代では苦悩する「求道者」「人間」として語ることが増加する面もみられる。ただ、こうした多層的な「語り」が「宗祖」に関するものと看做される限りにおいて、その「語り」は宗門内部に留まるものになる。その一方、仏教者の中には、その魅力やインパクトが大きい故に、内部だけではなく外部にも波及し得る存在もある。例えば親鸞は、宗門の内部にも外部にも大きな影響を示したのは論をまたない。あるいは一休などは、臨済宗大徳寺派の「宗祖」というわけではなかったが――いや、それ故に――宗門内部よりもむしろ外部で先んじて多く語られ、一般において逸話が広く伝承して「一休ばなし」が形成されたとも考え得る。...
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忘却を経てなお――森﨑東の言葉に寄せて
忘却を経てなお――森﨑東の言葉に寄せて 親鸞仏教センター研究員 東  真行 (AZUMA Shingyo)  言葉はあくまで伝えたいことの「入れ物」なのだと、ある音楽家はいう。寺尾紗穂氏が述べるように「歌」と「訴え」が相通じているとして、こんな言い換えは可能だろうか。訴えの込められた入れ物が歌だと。  切実な思いだからこそ、音に乗せるのか。親鸞もたくさんの和讃を遺している。それらは黙読される文字である以上に、読誦される言葉として今なお息づいている。読む者のみならず、勤行の会座を共にする聴聞者の心身をも文字通り震わせてきた。  昨年の7月になくなった映画監督、森崎東のことをふと連想する。卓越した感性で引用される数多の「歌」と、観念的とも評される直截的な「訴え」とが、森崎作品では同居している。  藤井仁子編『森崎東党宣言』(インスクリプト、2013年)には使用楽曲が約20頁にわたってリスト化されているほどで、本人のエッセイ集『頭は一つずつ配給されている』(パピルスあい、2004年)でもよく「歌」、すなわち往時の流行歌から軍歌、民謡、都々逸、漢詩、革命歌から校歌に至るまでが言及される。森崎は自身の人生を「片端から憶えては忘れてきた歌の総和である」(『頭は一つずつ配給されている』、374頁)と述懐するが、ここに「忘却」という晩年の課題が示唆されてもいるのだろう。  その「訴え」については、敗戦の翌日に自殺した兄、湊に反発するゆえの「左傾傾向」(『森崎東党宣言』、186頁)を告白する通り、天皇制や原子力発電をたびたび烈しく批判した。  また、森崎は「身」にまなざしを注いだ作家でもあった。『田舎刑事 まぼろしの特攻隊』(1979年)や『ペコロスの母に会いに行く』(2013年)では深刻な場面であればこそ、殊更に主人公たちの生身の存在感を強調している。渥美清演じる刑事の水虫、岩松了演じる漫画家の禿頭に執拗なまでに焦点を当てるという演出がそれであり、私などは何というか呆然とするばかりだ。   「精神」と聞いた途端に何やら心に重い疲れを感じる戦中派にとって、霊にしろ、心にしろ、魂にしろ、いわゆる精神論そのものが耐えがたくカッタルイのである。 (『頭は一つずつ配給されている』、383頁)    鈴木大拙のいう「霊性」が果たして「いわゆる精神論」であるかはともかく、大拙の表現に首肯し得なかったと記す森崎である。だからといって身体にのみこだわったわけではない。「日本精神」の鍛錬と称して毎日数百回もの腕立て伏せを断行した兄とは逆の方向で、つまり何らかの強固なイメージに肉体を追いつかせようとするのではなく、むしろ老いていく身体のように精神を捉えること。この身は老病死に遭遇しつつも、まだ何とか生きて血を通わせている。同様に老いる精神にも、しぶとく生々しい肌ざわりを見出し得るのではないか。そのように「身」をみる森崎にとって、心身は老病死の現場であると同時に根源的な生をまざまざと感じる場でもあったのではないか。  晩年の森崎が「認知症」と向き合っていた様子は、ETV特集『記憶は愛である~森崎東・忘却と闘う映画監督~』(2013年)に詳しい。記憶の総和が人生ならば、その喪失過程は生きながらの死か。森崎は自身にその問いを課すのだ。  遺作となった『ペコロスの母に会いに行く』は、ある老女(演じるは赤木春恵)の「認知症」を物語の主軸に据えるという、みずからの苦悩と真正面から対峙する内容である。物語のクライマックスでは、どんな苦難があろうと、大切な記憶を思い起こす力が人間の「身」には生じるのだと高らかに宣言される。どこまでも深く忘れるということがあったうえで、それでも記憶はよみがえるという出来事が描かれており、ここには自身への応答があるのだろう。森崎は次のようにも述べていた。   私は最近ヤタラに忘れっぽくなった自分を死につつある人とは思いません。忘却は死でなく生の普遍現象であって、人は忘却と同時に回想という記憶の再生によって常に新しい生の体験をする。むしろ長い忘却の時間を経ることで、忘れていた体験の真実の意味を知ることすらある。 (『頭は一つずつ配給されている』、379頁)    この稿を書きながら以前お聞きした、ある問いが思い出される。真宗大谷派の僧、暁烏敏から仏教を聞いた岡本禮子(法名は釋暁禮)という方の訴えである。「自分は暁烏先生に出会って、親鸞聖人の教えを聞いて、念仏さえあればどんな人生であっても生きていけると思ってきた。ところが最近は、あれだけ感動した先生の言葉が思い出せない。ときどき娘の名前もわからなくなる。ひょっとするとお念仏も出なくなるかもしれない。それでも私は救われるのか」と(加来雄之『真宗の死生観』〔大和仏教センター、2018年〕を参照)。どんなに深く教えと出会っておられたのだろう。出会ってさえいない者にとっては忘れるどころではない。  森崎は、忘却の時間に裏打ちされた回想では、もともとの経験にそなわる「真実の意味」があらわになる場合さえあると記していた。不可避の忘却を経てなお、常に新鮮に真実を思い起こし得るとは不可思議である。この力には、いかなる表現がふさわしいのだろう。森崎は、あるイギリスの劇作家の「記憶は愛である」(『頭は一つずつ配給されている』、75頁)という言葉を紹介している。あるいは「憶念はすなわちこれ真実の一心なり」(金子大榮校訂『教行信証』、岩波文庫、176頁)と親鸞が記したとき、どんな実感がその胸中に去来していただろうか。 (あずま しんぎょう・親鸞仏教センター研究員) 他の著者の論考を読む...
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景色がかわるとき
景色がかわるとき 親鸞仏教センター研究員 谷釜 智洋 (TANIGAMA Chihiro)  「人格ある誰かを見失うな」。山川冬樹氏のインタビュー記事の見出しである(『毎日新聞』東京夕刊2020年6月8日)。偶然みつけたこの記事をきっかけに、山川氏が「ハンセン病問題」に向き合った『海峡の歌』というインスタレーションを発表していることを知った。かねてから氏のライブパフォーマンスには常に驚かされ、その世界観に魅了されてきたが、この『海峡の歌』に込められた思いには特に惹きつけられた。  香川県にあるハンセン病療養所、大島青松園からかつて自由を求めて対岸にある庵治町へ泳いで渡ろうとし、その過程で命を落とした人々がいた。このインスタレーションでは、その事実に基づく映像作品も展示されている。([参照]...
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「親鸞仏教センター通信」第75号

谷釜智洋 掲載Contents

巻頭言

藤村  潔 「罪と救い―「阿闍世」からの想起―」

■ 「親鸞と中世被差別民に関する研究会」発足に際して

中村 玲太

■ 親鸞と中世被差別民に関する研究会

講師 上杉  聰 「部落史研究からみた親鸞聖人の思想と時代」(前編)

報告 菊池 弘宣

■ 特別寄稿

三枝 暁子 「中世身分制研究の軌跡と展望」

■ リレーコラム「近現代の真宗をめぐる人々」

谷釜 智洋 「米沢英雄(1909〜1991)」

コラム・エッセイ
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研究会・Interview
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今との出会い 第211回「#Black Lives Matter ――差別から思うこと」

谷釜智洋

親鸞仏教センター研究員

谷釜 智洋

(TANIGAMA Chihiro)

 2020年5月、新型コロナウイルスが世界中に蔓延し、パンデミックを引き起こしているさなか、米国ミネソタ州ミネアポリスで白人警官が黒人男性の首を圧迫して死亡させるという事件が起こった。この暴力的逮捕の一部始終をおさめた動画がSNS等を介してWEB上に拡散されると、その白人警官に対する抗議の声が全米に広がった。これを機に、2013年にSNSで上おこった「ブラック・ライヴズ・マター」(「Black Lives Matter」以下、「BLM」)の文言を掲げた人権運動が、改めて世界中から注目を集めている。

 

 上記の事件を目の当たりにし、映画監督のスパイク・リーが脚本と制作を手がけた映画「ドゥ・ザ・ライト・シング」(1989年公開)が想い起こされた。舞台は米国ニューヨーク州ブルックリンの黒人地区。市民は連日の猛暑に見舞われフラストレーションが最高潮に達したその日、同地区で飲食店を経営する白人男性と黒人男性の言い争いが、警官を巻き込む騒動になる。結果、白人警官による黒人男性の暴行致死事件が発生し、暴動が起こるといった内容である。なお、この映画はエンドクレジットに入る直前、キング牧師とマルコムXの両氏による以下の言葉が引用される。


【キング牧師】

暴力は、愛ではなく憎しみの糧として、対話ではなく独白しか存在しない社会を生む。そして、暴力は自らを滅ぼし、生き残った者の心には憎しみを、暴力を振るった者には残虐性をうえつける。


【マルコムX】

私は暴力を擁護する者ではないが、自己防衛のための暴力を否定する者でもない。自己防衛のための暴力は暴力ではなく、知性と呼ぶべきである。


 今日、新型コロナウイルス感染症が渦巻く米国社会の異常事態のもとで起きた、白人警官による黒人男性への暴力的過失致死事件は、件の映画に描かれた事柄と共通することとして改めて認識しなければならない。

 冒頭に取り上げた事件を発端として、「BLM運動」に賛同した多くの企業やアスリートたちがそれぞれの立場で抗議の意を表明している。そのなかでも、プロテニスプレイヤーの大坂なおみ選手による抗議の方法は世界中の話題となり、多くの支持を集めている。彼女の勇気ある主張と行動を誇りに思う。


 ハイチ系アメリカ人(父)と日本人(母)を両親にもつ大坂選手は、自身のツイッターで「アスリートである前に黒人女性。私のプレーを見てもらうよりももっと注目すべき重要なことがある」と投稿し、全米オープン前の大会出場を辞退すると表明して、大会主催者の理解を得ただけではない。彼女は全米オープンの競技会場に入場する際に黒人に対する人種差別に抗議するために、暴行の被害者の名を記した「黒色マスク」を着用するという方法で「BLM運動」に呼応したのである。

 この大坂選手なりの抗議のやり方に対して、「プロスポーツの場で抗議を表明するべきではない」とか「スポーツの場に政治を持ち込むな」等、心無い非難もあったが、彼女の行動が勝った負けたで一喜一憂するスポーツ観戦に対する私たちの意識のあり方に一石を投じるものであったことは間違いない。


 上記の白人警官による黒人男性への残虐な暴行致死事件には憤りをおぼえる。ブラック・カルチャーに影響を受けたひとりとして、私もこの運動を支持したい。同時に、そのことと仏教の学びとがどう関係するのかという問いが頭をよぎる。私はまだ十分な言葉をもって語ることはできないが、差別に向き合うなかで今後、その問いについて模索してゆきたい。

(2020年11月1日)

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繁田
今との出会い第244回「罪と罰と私たち」
今との出会い第244回「罪と罰と私たち」 親鸞仏教センター嘱託研究員 繁田 真爾 (SHIGETA Shinji)  2023年10月、秋も深まってきたある日。岩手県の盛岡市に出かけた。目当ては、もりおか歴史文化館で開催された企画展「罪と罰:犯罪記録に見る江戸時代の盛岡」。同館前の広場では、赤や黄の丸々としたリンゴが積まれ、物産展でにぎわっていた。マスコミでも紹介され話題を呼んだ企画展に、会期ぎりぎりで何とか滑り込んだ。    実はこれまで、同館では盛岡藩の「罪と罰」をテーマとした展示会が三度ほど開催されてきた。小さな展示室での企画だったが、監獄の歴史を研究している関心から、私も足を運んできた。いずれの回も好評だったようで、今回は「テーマ展」から「企画展」へ格上げ(?)したらしい。今回は瀟洒な図録も販売されたが、会期末を待たずに完売。若い来訪者も多く、「罪と罰」に対する人びとの関心の高さに驚かされた。    展示をじっくり観覧して、とくに印象的だったのは、現在の刑罰観との違いだ。火刑や磔や斬首など、江戸時代には苛酷な身体刑が存在したことはよく知られている。だがその他にも、(被害者やその親族、寺院などからの)「助命嘆願」が、現在よりもはるかに大きく判決を左右したこと。「酒狂」(酩酊状態)による犯罪は、そうでない場合の同じ犯罪よりも減刑される規定があったこと。などなど、今日の刑罰との違いはかなり大きい。    現在の刑罰観との違いということでは、もちろん近世の盛岡藩に限らない。たとえば中世日本の一部村落や神社のなかには、夜間に農作業や稲刈りをしてはならないという法令があった。「昼」にはない「夜の法」なるものが存在したのだ(網野善彦・石井進・笠松宏至・勝俣鎭夫『中世の罪と罰』)。そして現代でもケニアのある農村では、共同体や人間関係のトラブルの解決に、即断・即決を求めない。とにかく「待つ」ことで、自己―他者関係の変化を期待するのだという。この慣習は、人が人を裁くことに由来するさまざまな困難を乗り越える一つの英知として、注目されている(石田慎一郎『人を知る法、待つことを知る正義:東アフリカ農村からの法人類学』)。    「罪と罰」をめぐる観念は、このように時代や場所によって大きな違いがみられる。まさに“所変われば品変わる”で、今ある刑罰観が、確固とした揺るぎない真理に基づいているわけではないのだ。    だとすれば私たちは、いったい人間の所行の何を「罪」とし、それを何のために、どのように「罰する」のだろうか。そして罰を与えることで、私たちはその人に何を求めるのだろうか(報復?それとも改善?)。そのことがあらためて問われるに違いない。そして「罪と罰」は、おそらく刑罰に限らず、社会規範・教育・団体規則・子育てなど、私たちの社会や日常生活のさまざまな場面にわたる問題でもあるだろう。    それにしても江戸時代の盛岡では、なぜ酒狂の悪事に対して現代よりも寛容だったのだろうか。帰宅後に土産の地酒を舐めながら、そんなことに思いをはせた。   (2024年3月1日) 最近の投稿を読む...
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今との出会い第243回「磁場に置かれた曲がった釘」
今との出会い第243回「磁場に置かれた曲がった釘」 親鸞仏教センター主任研究員 加来 雄之 (KAKU Takeshi)  西田幾多郎(1870-1945)は、最後の完成論文「場所的論理と宗教的世界観」(1945)の中で、対象論理と場所的論理という二つの論理を区別したうえで、次のように述べている。   真の他力宗は、場所的論理的にのみ把握することができるのである。 (『西田幾多郎哲学論集Ⅲ』岩波文庫、1989年、370頁)    現代思想において「真の他力宗」、つまり親鸞の思想の本質を明らかにしようとするとき、この「場所」もしくは「場」という受けとめ方が有効な視点となるかもしれない。    キリスト教の神学者である八木誠一氏は、(人格主義的神学に対して)場所論的神学を説明するとき次のような譬喩を提示されている。   軟鉄の釘には磁性がないから、釘同士は吸引も反発もしないが、それらを磁場のなかに置くとそれぞれが小さな磁石となり、それらの間には「相互作用」が成り立つ。……磁石のS極とN極のように、区別はできるが切り離すことができないもののことを「極」という。極と対極とは性質は違うが、単独では存立できない。 (八木誠一『場所論としての宗教哲学』法藏館、2006年、4頁)    八木氏は、神の場における個のあり方を、磁場に置かれた釘が磁石になること、磁石となった釘がS極とN極の二極をもつこと、それらの磁石となった釘同士の間に相互作用が成立することに譬えておられる。また、かつてアメリカ合衆国のバークリーにある毎田仏教センター長の羽田信生氏が、如来の本願と衆生との関係を磁場と釘に譬えられたことがあった。二人のお仕事を手掛かりに、私も親鸞の「真の他力宗」を、磁場に置かれた釘に譬えて受けとめてみたい(以下①~⑤)。   ①軟鉄の釘であれば、大きな釘であっても小さな釘であっても、真っ直ぐな釘であっても曲がった釘であっても、強い磁場の中に置かれると、その釘は磁石の性質を帯びるようになる。釘の形状は問わない。    曇鸞は、他力を増上縁と述べ(『浄土論註』取意、『真宗聖典』195頁参照)、親鸞は「他力と言うは、如来の本願力なり」(『真宗聖典』193頁)と言っている。強い磁場、つまり強い磁力をもった場は、如来の本願のはたらきの譬えであり、さまざまな形状の釘は多様な生き方をする有限な私たち衆生の譬えである。釘が強力な磁場の中に置かれることは、衆生が如来の本願力に目覚めることの、軟鉄の釘が磁気を帯びて磁石となることは、衆生が如来の本願力によってみずからの人世を生きるものとなることの譬えである。    強い磁場の中に置かれた軟鉄の釘が例外なく磁力をもつように、如来の本願力に目覚めた衆生は斉しく本願によって生きるものとなる。また如来の本願力についての証人という資格を与えられる。八木氏は、先に引いた著作の中で、神の「場」が現実化されている領域を「場所」と呼び、「場」と「場所」を区別することを提案されているが(詳細は氏の著作を参照)、その提案をふまえて言えば、衆生は如来の本願のはたらきという「場」においてそのはたらきを現実化する「場所」となるのである。   ②磁場に置かれ、磁石の性質を帯びた釘は、等しくS極とN極をもつ。SとNの二つの極は対の関係にある。二つの極は区別できるが切り離すことはできない。    S極を衆生(Shujo)の極、N極を如来(Nyorai)の極に譬えてみよう。(語呂合わせを使うと譬喩が安易に感じられてしまうかもしれないが、わかりやすさのために仮にこのように割り当ててみた。)如来の本願力という場に置かれた私たちの自覚は、衆生のS極と如来のN極という二つの極をもつ。S極は、衆生の迷いの自覚の極まりである。衆生の自覚の極は如来の眼によって見(みそなわ)された「煩悩具足の凡夫」という人間観を深く信ずることである。N極は如来の本願のみが真実であるという自覚の極まりである。如来の本願力という場に入ると私たちはこの二つの極をもった自覚を生きる者とされるのである。   ③磁石の性質を帯びた釘のN極だけを残したいと思って、何度切断しても、どれだけ短く切断しても、磁場にある限りつねに釘はS極とN極をもつ。    衆生の自覚は嫌だから、如来の自覚だけもちたいというわけにはいかない。如来の本願力の場における自覚は、衆生としての迷いの極みと如来としての真実の極みという二つの極をもつ自覚である。どちらか一方の極だけを選ぶということはできないのだ。またこの二つの極をもつ自覚に立たなければ、その自覚は真の意味での「場」の自覚とはいえない。このような自覚は、「を持つ」と表現できるような認識でなく、「に立つ」とか「に入る」と表現されるような場所論的な把握であろう。   ④磁力を与えられた釘の先端(S極かN極)には、別の釘を連ねていくことができる。N極に繋がる釘の先端はS極になる。二つの釘は極と対極によってしか繋がらない。    私たちが如来の本願力を現実化している人に連なろうとすれば、私たちは衆生の極をもってその人の如来の極に繋がらなくてはならない。如来の極をもっては如来の極に繋がることはできない。衆生の極においてのみ真に如来の極を仰ぐことが成り立つのだ。むしろ如来の極に繋がるときに、はじめて衆生の極も成り立つと言うべきかもしれない。    「真の他力宗」の伝統に連なるときもそうなのだろう。法然の自覚のS極の対極であるN極に、親鸞のS極の自覚が繋がるのである。だからこそ親鸞にとって法然は如来のはたらきとして仰がれることになる。私たちも親鸞の自覚のN極にS極をもって繋がる。そして私たちの自覚は二つの極をもつ場所となる。   ⑤強い磁場に置かれていると軟鉄の釘も一時的に磁石となり、磁場を離れても磁力を保つが、長くは持続しない。    長く如来の本願力の場に置かれた衆生が一時的にその場を離れても、その自覚は持続する。しかし勘違いしてはならない。その衆生は決して永久磁石になったわけではない。『歎異抄』の第九章(『真宗聖典』629〜630頁参照)が伝えるように、場を離れた自覚は持続しない。    私たちは永久磁石ではない。永久磁石であれば磁場に置いておく必要はないから。私たちは金の延べ棒でもない。金であれば磁場におかれても磁力をもつことはないから。軟鉄であっても錆びると磁力をもつことはできない。錆びるとは衆生としての痛みを忘れることに譬えることができる。    私は小さな曲がった釘である。私は、如来の本願力という磁力の場に置かれた小さな曲がった釘でありたい。私の課題は、永久磁石になることではなく、如来の本願力という磁場の中に身を置き続けることである。それは贈与された教法の中で如来からの呼びかけを聞き続けること、つまり聞法である。私はこの身を如来の本願力という場に置き、如来の本願力を現実化している場所と連なっていくことができるように努めたいと思う。    「譬喩一分」と言うように、この譬喩で、親鸞の思想を厳密にあらわすことはできないし、また他にも共同体の形成などの問題を考慮しなければならないが、少しでも「真の他力宗」をイメージするための手がかりになればと思う。 (2024年元日) 最近の投稿を読む...
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今との出会い第242回「ネットオークションで出会う、アジアの古切手」
今との出会い第242回 「ネットオークションで出会う、アジアの古切手」 「ネットオークションで出会う、 アジアの古切手」 親鸞仏教センター嘱託研究員 伊藤 真 (ITO...
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今との出会い第241回「「菩薩皇帝」と「宇宙大将軍」」
今との出会い第241回「「菩薩皇帝」と「宇宙大将軍」」 親鸞仏教センター嘱託研究員 青柳 英司 (AOYAGI Eishi) 本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼 (本師、曇鸞は、梁の天子 常に鸞のところに向こうて菩薩と礼したてまつる) (「正信偈」『聖典』206頁)  「正信偈」の曇鸞章に登場する「梁天子」は、中国の南朝梁の初代皇帝、武帝・蕭衍(しょうえん、在位502~549)のことを指している。武帝は、その半世紀近くにも及ぶ治世の中で律令や礼制を整備し、学問を奨励し、何より仏教を篤く敬った。臣下は彼のことを「皇帝菩薩」と褒めそやしている。南朝文化の最盛期は間違いなく、この武帝の時代であった。  その治世の末期に登場したのが、侯景(こうけい、503~552)という人物である。武帝は彼を助けるのだが、すぐ彼に背かれ、最後は彼に餓死させられる。梁が滅亡するのは、武帝の死から、わずか8年後のことだった。  では、どうして侯景は、梁と武帝を破局に導くことになったのだろうか。このあたりの顛末を、少しく紹介してみたい。  梁の武帝が生きた時代は、「南北朝時代」と呼ばれている。中華の地が、華北を支配する王朝(北朝)と華南を支配する王朝(南朝)によって、二分された時代である。当時、華北の人口は華南よりも多く、梁は成立当初、華北の王朝である北魏に対して、軍事的に劣勢であった。しかし、六鎮(りくちん)の乱を端緒に、北魏が東魏と西魏に分裂すると、パワー・バランスは徐々に変化し、梁が北朝に対して優位に立つようになっていった。  そして、問題の人物である侯景は、この六鎮の乱で頭角を現した人物である。彼は、東魏の事実上の指導者である高歓(こうかん、496〜547)に重用され、黄河の南岸に大きな勢力を築いた。しかし、高歓の死後、その子・高澄(こうちょう、521〜549)が権臣の排除に動くと、侯景は身の危険を感じて反乱を起こし、西魏や梁の支援を求めた。  これを好機と見たのが、梁の武帝である。彼は、侯景を河南王に封じると、甥の蕭淵明(しょうえんめい、?〜556)に十万の大軍を与えて華北に派遣した。ただ、結論から言うと、この選択は完全な失敗だった。梁軍は東魏軍に大敗。蕭淵明も捕虜となってしまう。侯景も東魏軍に敗れ、梁への亡命を余儀なくされた。  さて、侯景に勝利した高澄だったが、東魏には梁との戦争を続ける余力は無かった。そこで高澄は、蕭淵明の返還を条件に梁との講和を提案。武帝は、これを受け入れることになる。  すると、微妙な立場になったのが侯景だった。彼は、蕭淵明と引き換えに東魏へ送還されることを恐れ、武帝に反感を持つ皇族や豪族を味方に付けて、挙兵に踏み切ったのである。  彼の軍は瞬く間に数万に膨れ上がり、凄惨な戦いの末に、梁の都・建康(現在の南京)を攻略。武帝を幽閉して、ろくに食事も与えず、ついに死に致らしめた。  その後、侯景は武帝の子を皇帝(簡文帝、在位549〜551)に擁立し、自身は「宇宙大将軍」を称する。この時代の「宇宙」は、時間と空間の全てを意味する言葉である。前例の無い、極めて尊大な将軍号であった。  しかし、実際に侯景が掌握していたのは、建康周辺のごく限られた地域に過ぎなかった。その他の地域では梁の勢力が健在であり、侯景はそれらを制することが出来ないばかりか、敗退を重ねてゆく結果となる。そして552年、侯景は建康を失って逃走する最中、部下の裏切りに遭って殺される。梁を混乱の底に突き落とした梟雄(きょうゆう)は、こうして滅んだのであった。  侯景に対する後世の評価は、概して非常に悪い。  ただ、彼の行動を見ていると、最初は「保身」が目的だったことに気付く。東魏の高澄は、侯景の忠誠を疑い、彼を排除しようとしたが、それに対する侯景の動きからは、彼が反乱の準備を進めていたようには見えない。侯景自身は高澄に仕え続けるつもりでいたのだが、高澄の側は侯景の握る軍事力を恐れ、一方的に彼を粛清しようとしたのだろう。そこで侯景は止む無く、挙兵に踏み切ったものと思われる。  また、梁の武帝に対する反乱も、侯景が最初から考えていたものではないだろう。侯景は華北の出身であり、南朝には何の地盤も持たない。そんな彼が、最初から王朝の乗っ取りを企んで、梁に亡命してきたとは思われない。先に述べたように、梁の武帝が彼を高澄に引き渡すことを恐れて、一か八かの反乱に踏み切ったのだろう。  この反乱は予想以上の成功を収め、侯景は「宇宙大将軍」を号するまでに増長する。彼は望んでもいなかった権力を手にしたのであり、それに舞い上がってしまったのだろうか。  では、どうして侯景の挙兵は、こうも呆気なく成功してしまったのだろうか。  梁の武帝は、仏教を重んじた皇帝として名高い。彼は高名な僧侶を招いて仏典を学び、自ら菩薩戒を受け、それに従った生活を送っている。彼の仏教信仰が、単なるファッションでなかったことは事実である。  武帝は、菩薩として自己を規定し、慈悲を重視して、国政にも関わっていった皇帝だった。彼は殺生を嫌って恩赦を連発し、皇族が罪を犯しても寛大な処置に留めている。  ただ、彼は、慈悲を極めるができなかった。それが、彼の悲劇であったと思う。恩赦の連発は国の風紀を乱す結果となり、問題のある皇族を処分しなかったことも、他の皇族や民衆の反発を買うことになった。  その結果、侯景の反乱に与(くみ)する皇族も現われ、最後は梁と武帝に破滅を齎(もたら)すこととなる。  悪を望んでいたのではないにも関わらず、結果として梁に反旗を翻した侯景と、菩薩としてあろうとしたにも関わらず、結果として梁を衰退させた武帝。彼らの生涯を、同時代人である曇鸞は、どのように見ていたのだろうか。残念ながら、史料は何も語っていない。 最近の投稿を読む...

著者別アーカイブ

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「親鸞仏教センター通信」第74号

谷釜智洋 掲載Contents

巻頭言

谷釜 智洋 「自分の足跡を消さない」

■ 連続講座「親鸞思想の解明」報告

講師 本多 弘之 「「無慚無愧」ということ

報告 越部 良一

■ 第64回現代と親鸞の研究会報告

講師 伊藤  聡 「「神国日本」という語りの重層性」

報告 飯島 孝良

■ 「正信念仏偈」研究会報告

東  真行 「親鸞にとって七高僧とは」

■ 源信『一乗要決』研究会報告

藤村  潔 「『一乗要決』成立にいたるまでの源信の思想史的検証」

■ 清沢満之研究会報告

長谷川琢哉 「『他力門哲学骸骨試稿』――自筆ノートの調査から見えてくる研究課題――」

■ BOOK OF THE YEAR 2020 

●『こまゆばち』(文・澤口たまみ、絵・舘野鴻)

紹介者:東  真行

●『僕という容れ物』(壇廬影 )

紹介者:谷釜 智洋

●『死の影の谷間』(ロバート・C・オブライエン著、越智道雄訳)

紹介者:伊藤  真

●『リベラリズムはなぜ失敗したのか』(パトリック・J・デニーン著、角敦子訳)

紹介者:宮部  峻

■ リレーコラム「近現代の真宗をめぐる人々」

伊藤  真 「加能作次郎(1885〜1941)」

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投稿者:shinran-bc 投稿日時: