親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

〈いのち〉という語りを問い直す

親鸞仏教センター嘱託研究員

中村 玲太

(NAKAMURA Ryota)

■特集の趣旨

 いのち(命・生命・イノチ・寿))―の次に続ける言葉は何ですか。「大切」?それとも「矛盾」?

 私たちは「いのちという矛盾」を生きているように思います。大いなる、しかし個性も名前もないいのちれたいのはに対して、いまここを生きる「私」の誕生。大切にされたいのはいのちなのか、私なのか。私という個としてのいのちと、大いなるいのちを生きつつ、ここには調和されない緊張関係があるのではないでしょうか。そして、私を生きる以上、避けることのできない罪悪、いのちがいのちを害さずにはいられない、という問題。この罪悪の私は大切なのだろうか。

 このいのちという語りは時代によって変化し、宗教、文学、科学などによっても様々に語られてきました。いのちを語り始めるとき、まずその複雑さに一度驚くべきなのかもしれません。特集では、 〈いのち〉という語りについて改めて考えていきます。

(なかむら りょうた・親鸞仏教センター嘱託研究員)

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いのちの否定と肯定 PDF版をDL 大阪教育大学教育学部教授 岩田 文昭 (IWATA Fumiaki)  浄土教にはいのちを否定する面と肯定する面がある。自己を罪悪深重の凡夫として捉え、この世を穢土として否定する面とともに、浄土に往生する救いの法を教え、凡夫の身をそのまま肯定する面である。このような浄土教の救いの法は、時代を越えるものである。  とはいえ、その説き方は時代により人によって変わってきた。たしかにかつては、一器の水を他の一器に移すように、師の教えがそのまま伝えられたとされた。しかし、現代ではその教説の歴史的変遷の経緯が明確に知られている。この歴史性の自覚により、過去の浄土教の教説を金科玉条のように受け取るのではなく、時機相応のものとして改めて受け取り直すことが要求されているといえよう。現代における受け取り方を探求するために、この問題をより広い文脈において考えてゆきたい。 ◆ウィリアム・ジェイムズの二類型  自己のあり方を肯定する方法は、さまざまな仕方で探求されてきた。ごくおおざっぱにそれらの方法は、二通りにわけることができる。一つはできるだけ善きことに関心をむけるという方法である。悪いものを見ないようにし、自己においても世界においても、善きことを積極的に捉え直し、その中で善きことを実践していこうとする。もう一つは、否定的なものの存在を厳粛に受けとめながら、その上でそれを乗り越える世界に触れようという方法である。悪や苦が自己やこの世界に不可避なものであるという認識をもちつつ、それらを含みながらも、自己が肯定される高い次元を模索しようとする。  この二つの方法について、ウィリアム・ジェイムズはその著『宗教的経験の諸相』の中で分析している。ジェイムズは、宗教的回心をする人には、「健全な心」と「病める魂」の二つの性格類型があると論じている。健全な心は、善きものに意図的に目を向けるあり方をしている。それに対して、病める魂は、悪や苦を見据えながら、より高い自己の在り方を模索するという。  健全な心の持ち主は、人生を善きものと感じ、世界の暗い面や自己自身の不完全さに思い悩むことは少ない。この心の持ち主は、さしあたり無意識のうちに世界の善性を信頼し、自然に幸福を感じる人といえる。しかし、むしろこの類型の本領は、意志的・組織的に悪を自身の視野の外に締め出す方法を用いることにある。ものごとを全体として善と考え、意識的に楽観的な人生観にもとづき、人間の生を肯定するのである。ジェイムズは当時のアメリカで起こっていた「マインド・キュア(精神治療)」運動を具体的な例としてとりあげ、積極的に人生を肯定する方法の特色を紹介している。  マインド・キュアは、ニューソートとも呼ばれるが、このような方法論にもとづいて、自己を肯定しようとする動きは、当時の合衆国にだけ存在したのではない。現代の日本の新宗教や精神運動においてもこのような形態はひろく認められる。新宗教のひとつである生長の家の創始者、谷口雅春は実際にニューソート(生長の家ではこれを「光明思想」と呼ぶ)に大きな影響を受けて、活動を展開していった。光明思想のような生命観は、戦後、教勢を著しく拡大した新宗教の大きな特徴である。その生命観は、ひとりひとりの心の状態や思いは、宇宙の本源的実在やエネルギーと密接につながっていると想定する。そして、宇宙の諸存在はすべて一つの生命体であり、悪は根源的な実在性をもたないとされる。新宗教におけるこのような理論構成は、宗教学者によって「生命主義」として研究されてきた(対馬路人他「新宗教における生命主義的救済観」『思想』665号、1979年)。来世ではなく現世に重きを置くのも、生命主義の特徴のひとつである。  しかし、生命主義的な思想は新宗教だけにみられるものではない。新宗教の教理ほど体系的ではなく、また徹底したものではないにしろ、現代の学校教育やマスコミなどでも、生命主義に親近した考え方が暗黙のうちに浸透している。しばしば、「すべてのものはつながっている」「すべてのいのちは輝いている」「あなたには無限の可能性がある」などという表現がなされる。ひとりひとりの生をかけがえのないものとして見据え、できるだけ善いことや長所を見いだすことで、生が肯定されるという発想である。このような思考形態は現代における「いのち教」と呼ぶことができよう。  それでは、ジェイムズがいう「病める魂」はどのような性格類型であろうか。病める魂の持ち主は、悪の存在に悩まされる人である。世界や自己の悪い面が切実に感じられ、悪と向き合うことが本当のあり方だと考える。そのように悪や苦しみに向きあうことで、古い自己が死に、新たな自己が蘇ることがある。再生された自己においては、悪や苦は必然的なものと認められ、それらは内に含まれた仕方で統合される。このような死と再生の経験は、伝統的な宗教、とくにキリスト教や仏教において顕著にみられてきたことだとジェイムズは指摘する。事実、キリスト教では人間を原罪があるものとし、仏教では生老病死などの四苦や八苦を説く。ジェイムズはキリスト教と仏教は本質的に「救済(deliverance)」の宗教であり、その教えの核心をこう述べる。「真実なるいのち(life)に生まれうるには、人はまず真実でないいのちを忘れさらねばならない」。 ◆上田閑照の宗教哲学生命/生/いのち  キリスト教や仏教など救済宗教の「いのち」理解を考察するためのよい手がかりを上田閑照は提示している(上田閑照『宗教』岩波現代文庫、2007年)。近年の宗教哲学者の代表的存在である、上田の論をもとに肯定と否定との問題をさらに考えてみよう。  本来的に「人間として生きる」という観点から、上田は宗教の問題を考察する。上田によれば、「生きる」ことには「生命」と「生」と「いのち」の三つの次元があり、それらがダイナミックに連関してこそ「生きる」ことになる。「生命」は、生物学や生命科学の対象となるものである。「生」には「生活」という面や「人生」という面もある。そのため、さまざまな人文科学の対象となる。「生」はさまざまな意味連関の中におかれるが、それを包括する場所が「世界」である。宗教との関係で重要なのは「いのち」である。「いのち」は学問の対象とはならずに、対象化することでは触れることができないところで生きられる。生命や生とは質を異にし、詩・文学や芸術や宗教などで直接に「いのち」の言葉に触れて、「いのち」の目覚めが生起する。「いのち」の目覚めは宗教にかぎらず、詩や芸術でも自覚されることがある。ただし、「生命」から人間的な「生」へは量的な飛躍であるのに対し、「生」から「いのち」への飛躍はそうした飛躍の線を断ち切ったところから出てくる質的な飛躍である。「死」や「貧」といった否定的な契機を通して自覚されてくるのが「いのち」なのである。そして、こうしたすべての連関を含めて、その全体が生きられることが「人間として生きること」になるのだという。  上田は、悪や苦などの否定的なものを真正面から見すえることが本当の意味で「生きる」ことだとするのであり、この点、ジェイムズのいう「病める魂」と論が重なる。  ここで大切なのは、上田が捉える救済宗教の本質である。意味の総枠である「世界」と、それを越えるものは異質で断絶している。伝統的に「宗教」とされるのは、「世界」を越え包む限りない「開け」が、「世界」の内から主題化されたものだと上田は捉える。具体的にいえば、神域・神殿・教会などは地図の上に位置づけ可能な、目に見える局所であるが、本来的には「世界」とは断絶した場所なのである。しかし、それを目に見える世界内のものとして捉えると問題が起こる。  人間にはそもそも「歪み」と「転倒」の危険性がある。「歪み」とは、人間的生に関わる世界がすべてだとし、それを越えるものを見ないことである。これは宗教的なものを意図的に見ない歪みである。「転倒」とは、本来、人間的生においては見えないものを見てわかったものとして、人間的生の次元に引きずりおろすという転倒である。歪みや転倒は宗教の歴史の中でしばしば生じており、宗教思想家はそれぞれの仕方でその危険性を乗り越えようとしてきた。 ◆浄土教における否定と肯定法然・證空・親鸞  さて、上田やジェイムズの提示した宗教モデルをもとに、浄土教について考えてみよう。浄土教の祖師たちは、いずれも病める魂の持ち主であり、自己の罪悪をみすえている。なるほど、法然は通仏教の側からも「智恵第一の法然房」と讃えられ、また持戒堅固の清僧と知られていた。しかしながら自身を「戒定慧の三学の器にあらず」と認識し、また「十悪の法然」「愚痴の法然」と自覚していたと伝えられている。その法然が称名念仏の教えを説いた。ただし、念仏一行を「選択」したのは法然ではなく、阿弥陀仏であることを見失ってはならない。阿弥陀仏が余行ではなく、念仏を選択し、それを往生の本願としたということが『選択本願念仏集』の主旨であり、そのことが決定的な意味を有している。この著作には、人間的生に関わる意味世界ではない、絶対の側からの働きが表現されている。上田の言葉に従えば、「いのち」の言葉が念仏なのである。その念仏の働きには自力無功という否定の契機が内包されている。  しかし、このような法然の立場は、念仏以外の行を修する仏教者から非難されることになる。また人間の意味世界を越えた絶対の働きと、人間の生の意味世界との関係が問われることになった。法然自身は、当時の社会の仏教や道徳の規範に則った清僧として一生を過ごした。すなわち、このようにして法然は「人間として生きた」のだ。とはいえ、教団が大きくなり、信者が増えていく中で、この課題に理論的に答える必要もでてきた。  法然の高弟、證空は法然が残した課題に取り組んだ一人である。のちに浄土宗西山派の派祖とされた證空の教義は独特な名目や高尚な哲理を含んでおり理解は容易ではない。天台本覚思想に基づいた現実肯定の思想として誤解されることもある。しかし、證空も病める魂の持ち主であった。證空は人間を総じて「濁世の凡夫」「垢障の凡夫」「垢障覆の衆生」と理解し、悪や罪を正面から捉えている。そして、仏性が遍満するとしているが、遍満する仏性は「弥陀の理性」であり、そのことの「領解」がなければ、衆生は三界流転するという。さらに、念仏においても「自力の念仏」と「本願に相応した他力の念仏」とを区別している(『女院御書』下巻第七章)。阿弥陀仏の絶対性が見据えられているといえる。しかし、領解の信心において、あらゆることの意味が復活する。通仏教の修行や世俗の道徳が生き返り、人間的生の意味が肯定されるのである。古来より法然は「諸行の頸を切り」、證空は「諸行を生け捕りに」したと評される所以である。  證空は現生往生である「即便往生」を表だって説いている。「生きて身を蓮の上に宿さずば念仏申す甲斐やなからん」。この和歌は、臨終時の往生(證空はこれを当得往生という)のみでなく、生きながら往生することの重要性を端的に表現したとされている。證空はこのような独自の教学をもとに、人間として生きた。證空の場合、肯定の契機を強調することが多い。そのため、「生」から「いのち」への否定の契機がともすれば見落とされがちになる。後世において證空は、健全な心の持ち主のようにみなされ、生命主義的に解釈されることもでてきた。  親鸞の自己の罪悪性への自覚は痛切である。病める魂の典型的人物といってよい。親鸞の教えの核心は、阿弥陀仏の本願への疑いが滅して、正定聚に入って生きることにある。このことは、まさに虚仮のいのちを捨て真実なるいのちに生まれかわることを表現していることにほかならない。法然への論難に対して答えることは親鸞にとっても課題であり、『教行信証』執筆の大きな動機であった。残された課題の一つに菩提心の問題がある。親鸞はこれに対して、信心も自己がおこすものではなく、弥陀よりたまわるものだと示した。後世、絶対他力と称されるほど、弥陀の絶対性を強調したのである。他力信心に関する論理を徹底させながら、親鸞も人間として生きた。しかし、親鸞も理論的課題をすべて解決したわけではない。人間的生の意味連関の中で道徳・倫理をどう捉えるのかという課題は、そのひとつであろう。信心を獲て、現生正定聚の中に入ることは、むしろ人間的生の意味連関の再構築の始まりとなる。  ジェイムズや上田の理論が必ずしも全面的に妥当するとは限らず、また浄土教をかれらの理論で考察する必要もない。しかし、浄土教の思想をその文字の表面的な意味理解に限らず、より普遍的な次元で捉え返すことは大切なことであろう。浄土教は、現代に流布している「いのち教」と違うのか否か。あるいは、俗世から断絶した浄土を人間的生の次元に引きずりおろす転倒は生じていないか。いのちの肯定と否定の問題は、そのような問いを投げかけているように思われる。 (いわたふみあき・大阪教育大学教育学部教授)著書に、『近代仏教と青年――近角常観とその時代』(岩波書店、2014)、編著『知っておきたい日本の宗教』(ミネルヴァ書房、2020)など。 他の著者の論考を読む...
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投稿者:shinran-bc 投稿日時:

SFのSは、セイメイのS?

アンジャリWEB版

親鸞仏教センター嘱託研究員

伊藤  真

(ITO Makoto)

■特集を捉える[池澤春菜「ヒトのイノチのその先に」へのコメント]

 池澤春菜氏の「ヒトのイノチのその先に」では、冒頭で「テセウスの船」という命題が紹介されている。「船の部品を一つずつ入れ替えていく。すべて新しい部品となった船は、果たして元の船と同じと言えるのか。その部品でもう一つ船を作った場合、それは新しい船か、それとも元の船か」。ローマ時代のギリシャ人哲学者プルタルコスが提示し、近代の哲学者たちまでが取り組んだ問題だ。SFでは脳と体を別のものと入れ替えたり、脳をコンピュータなどに複写・転写する技術などのストーリーを通じ、「何をもって、命と、人とするのか」、さらにAIや機械が生命を持ち得るかというテーマを考えさせてくれると池澤氏は言う。私も一人のSFファンとしてルーディ・ラッカーの『ソフトウェア』(ハヤカワ文庫SF、1989年)などが思い浮かぶが、仏教的な面でも刺激を受けた。

 今回のウェブ企画にも寄稿いただいている師茂樹氏の論考「人工知能を有情とみなすことは可能か」(『人間とは何か(Ⅱ)』、日本佛教学会編、法藏館、2019年所収)では、古い仏典に出る「テセウスの船」によく似たSFチックなストーリーが考察されている。ある旅人が鬼たちに遭遇し、腕や足、胴体から頭まで、順にすべてを引きちぎられ、鬼が持っていた人間の死骸のものと順に入れ替えられてしまう。そして鬼たちは旅人からとりはずした手足など新鮮な(?)身体をぺろりと平らげてしまう。そこで旅人はこれでもなお自分の体だと言えるのか、と悩む。やがて旅人は仏教僧に出会い、あなたは(世界の構成要素である)「四つの元素が集まったものを、自分の体だ、と思い込んでいるだけです」と説かれ、仏教の無我説に目覚めるのだ(詳細は師氏の上記論考を参照。なお、師氏が指摘するとおり、仏教的な枠組みで考える場合は輪廻への問いが欠かせないが、本稿では触れない)。

 仏教の「五蘊仮和合(ごうんけわごう)」という考え方では、私たち人間の存在を物質と精神(感覚・表象・意志的形成力・認識)の5つの要素がさまざまな因と縁によって仮に集まって構成されたものと理解する。そこに実体的な「我」は存在しない。仏典『ミリンダ王の問い』でも人間を「車」に喩え、車輪や車軸など部品に分解しても組み立てても、どこにも「我」は見当たらないと語られる。イギリスの哲学者エドワード・クレイグ氏によれば、これに対して古代ギリシャのプラトンは2頭の馬(理性と感性)に引かれた戦車(身体)を操る御者を自己に見立て、古代インドの『カタ・ウパニシャッド』では馬(感性)を操る御者(知性)に導かれた戦車(身体)に自己(アートマン)が乗っていると考えたというが、その自己は実際のところどこにいるのだろう。

 この点、池澤氏が挙げるジェイムズ・P・ホーガンの『造物主の掟』(名作『星を継ぐもの』の作者の作品。創元SF文庫、1985年)では、みずからロボットや機械類を製造して異星で資源を採掘する自律型ロボットの機械人「タロイド」たちが登場する。それらはプログラムの暴走で独自の進化を遂げ、長大な時間を経て、自我意識もあれば独裁者や宗教までもある中世的な社会を築いている。作中、自分たちの「生命」の源はどこかと疑問を抱いたあるタロイドが、「死んだ」機械を分解する。すると彼は「管や繊維や金属構造材やベアリングなどのおそろしく複雑な配列……以外には、何も見つけだすことができなかった」。そして問う——「では、魂はどこにあるのか?」。

 一方、池澤氏が紹介する別の作品、アン・マキャフリーの『歌う船』(創元SF文庫、1984年)では、主人公のヘルヴァは人間の脳がいわば「御者」的に宇宙船の船体に組み込まれて一体化した存在だが、どちらか一方だけでは本当のヘルヴァとは言えない。彼女は宇宙船であり、宇宙船であって初めて彼女なのだ。この作品から思い出すのはベトナムにもルーツを持つフランス人作家アリエット・ド・ボダールのアジアン・テイスト満載のSFミステリ作品『茶匠と探偵』(竹書房、2019年)。主人公のシャドウズ・チャイルドと呼ばれる宇宙船「マインド・シップ」も頭脳は人工知能的なものだが、船全体がひとつの有機的・人格的存在だ。彼女は過去の事故の深いトラウマを抱え、航行していないときは心を落ち着けるドラッグを調合する「茶匠」として日銭を稼ぐ。『2001年宇宙の旅』のコンピュータHALも意思や多少の感情を示したが、「マインド・シップ」は深層心理を含む感情面が大きなウェイトを占めているのが印象深い。

 脳やソフトウェアとハードウェアとの組み合わせであるどの宇宙船も機械人も、構造的にはまさに「五蘊仮和合」。しかしここに挙げたSF作品を読んでいると、(フィクションだとはいえ)そこに否定し難い「自己」的なるものが立ち現れ得る不思議に惹かれてしまう。我が身もまた、「自己」は脳の生理学的プロセスの産物に過ぎず、「無我」であると合理的に考え得たとしても、全身を捉える不安や焦燥や愛慕などを感じるとき、それはひと筋縄ではいかないのではないか……。生命はあくまでも機械に宿ると信じている機械人タロイドから見ると、人間は生命とはおよそ無縁なはずの有機的物質の奇妙な化学的構築物にすぎない。それなのに人間たちが欲望や敵意や善意を示すことに衝撃を受ける。それを「無我」だと言って、タロイドたちはすんなり納得してくれるだろうか。池澤春菜氏が紹介してくださった他のSF作品とも合わせて、考えてみるとおもしろいかもしれない。

(いとう まこと・親鸞仏教センター嘱託研究員)

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それでは、ジェイムズがいう「病める魂」はどのような性格類型であろうか。病める魂の持ち主は、悪の存在に悩まされる人である。世界や自己の悪い面が切実に感じられ、悪と向き合うことが本当のあり方だと考える。そのように悪や苦しみに向きあうことで、古い自己が死に、新たな自己が蘇ることがある。再生された自己においては、悪や苦は必然的なものと認められ、それらは内に含まれた仕方で統合される。このような死と再生の経験は、伝統的な宗教、とくにキリスト教や仏教において顕著にみられてきたことだとジェイムズは指摘する。事実、キリスト教では人間を原罪があるものとし、仏教では生老病死などの四苦や八苦を説く。ジェイムズはキリスト教と仏教は本質的に「救済(deliverance)」の宗教であり、その教えの核心をこう述べる。「真実なるいのち(life)に生まれうるには、人はまず真実でないいのちを忘れさらねばならない」。 ◆上田閑照の宗教哲学生命/生/いのち  キリスト教や仏教など救済宗教の「いのち」理解を考察するためのよい手がかりを上田閑照は提示している(上田閑照『宗教』岩波現代文庫、2007年)。近年の宗教哲学者の代表的存在である、上田の論をもとに肯定と否定との問題をさらに考えてみよう。  本来的に「人間として生きる」という観点から、上田は宗教の問題を考察する。上田によれば、「生きる」ことには「生命」と「生」と「いのち」の三つの次元があり、それらがダイナミックに連関してこそ「生きる」ことになる。「生命」は、生物学や生命科学の対象となるものである。「生」には「生活」という面や「人生」という面もある。そのため、さまざまな人文科学の対象となる。「生」はさまざまな意味連関の中におかれるが、それを包括する場所が「世界」である。宗教との関係で重要なのは「いのち」である。「いのち」は学問の対象とはならずに、対象化することでは触れることができないところで生きられる。生命や生とは質を異にし、詩・文学や芸術や宗教などで直接に「いのち」の言葉に触れて、「いのち」の目覚めが生起する。「いのち」の目覚めは宗教にかぎらず、詩や芸術でも自覚されることがある。ただし、「生命」から人間的な「生」へは量的な飛躍であるのに対し、「生」から「いのち」への飛躍はそうした飛躍の線を断ち切ったところから出てくる質的な飛躍である。「死」や「貧」といった否定的な契機を通して自覚されてくるのが「いのち」なのである。そして、こうしたすべての連関を含めて、その全体が生きられることが「人間として生きること」になるのだという。  上田は、悪や苦などの否定的なものを真正面から見すえることが本当の意味で「生きる」ことだとするのであり、この点、ジェイムズのいう「病める魂」と論が重なる。  ここで大切なのは、上田が捉える救済宗教の本質である。意味の総枠である「世界」と、それを越えるものは異質で断絶している。伝統的に「宗教」とされるのは、「世界」を越え包む限りない「開け」が、「世界」の内から主題化されたものだと上田は捉える。具体的にいえば、神域・神殿・教会などは地図の上に位置づけ可能な、目に見える局所であるが、本来的には「世界」とは断絶した場所なのである。しかし、それを目に見える世界内のものとして捉えると問題が起こる。  人間にはそもそも「歪み」と「転倒」の危険性がある。「歪み」とは、人間的生に関わる世界がすべてだとし、それを越えるものを見ないことである。これは宗教的なものを意図的に見ない歪みである。「転倒」とは、本来、人間的生においては見えないものを見てわかったものとして、人間的生の次元に引きずりおろすという転倒である。歪みや転倒は宗教の歴史の中でしばしば生じており、宗教思想家はそれぞれの仕方でその危険性を乗り越えようとしてきた。 ◆浄土教における否定と肯定法然・證空・親鸞  さて、上田やジェイムズの提示した宗教モデルをもとに、浄土教について考えてみよう。浄土教の祖師たちは、いずれも病める魂の持ち主であり、自己の罪悪をみすえている。なるほど、法然は通仏教の側からも「智恵第一の法然房」と讃えられ、また持戒堅固の清僧と知られていた。しかしながら自身を「戒定慧の三学の器にあらず」と認識し、また「十悪の法然」「愚痴の法然」と自覚していたと伝えられている。その法然が称名念仏の教えを説いた。ただし、念仏一行を「選択」したのは法然ではなく、阿弥陀仏であることを見失ってはならない。阿弥陀仏が余行ではなく、念仏を選択し、それを往生の本願としたということが『選択本願念仏集』の主旨であり、そのことが決定的な意味を有している。この著作には、人間的生に関わる意味世界ではない、絶対の側からの働きが表現されている。上田の言葉に従えば、「いのち」の言葉が念仏なのである。その念仏の働きには自力無功という否定の契機が内包されている。  しかし、このような法然の立場は、念仏以外の行を修する仏教者から非難されることになる。また人間の意味世界を越えた絶対の働きと、人間の生の意味世界との関係が問われることになった。法然自身は、当時の社会の仏教や道徳の規範に則った清僧として一生を過ごした。すなわち、このようにして法然は「人間として生きた」のだ。とはいえ、教団が大きくなり、信者が増えていく中で、この課題に理論的に答える必要もでてきた。  法然の高弟、證空は法然が残した課題に取り組んだ一人である。のちに浄土宗西山派の派祖とされた證空の教義は独特な名目や高尚な哲理を含んでおり理解は容易ではない。天台本覚思想に基づいた現実肯定の思想として誤解されることもある。しかし、證空も病める魂の持ち主であった。證空は人間を総じて「濁世の凡夫」「垢障の凡夫」「垢障覆の衆生」と理解し、悪や罪を正面から捉えている。そして、仏性が遍満するとしているが、遍満する仏性は「弥陀の理性」であり、そのことの「領解」がなければ、衆生は三界流転するという。さらに、念仏においても「自力の念仏」と「本願に相応した他力の念仏」とを区別している(『女院御書』下巻第七章)。阿弥陀仏の絶対性が見据えられているといえる。しかし、領解の信心において、あらゆることの意味が復活する。通仏教の修行や世俗の道徳が生き返り、人間的生の意味が肯定されるのである。古来より法然は「諸行の頸を切り」、證空は「諸行を生け捕りに」したと評される所以である。  證空は現生往生である「即便往生」を表だって説いている。「生きて身を蓮の上に宿さずば念仏申す甲斐やなからん」。この和歌は、臨終時の往生(證空はこれを当得往生という)のみでなく、生きながら往生することの重要性を端的に表現したとされている。證空はこのような独自の教学をもとに、人間として生きた。證空の場合、肯定の契機を強調することが多い。そのため、「生」から「いのち」への否定の契機がともすれば見落とされがちになる。後世において證空は、健全な心の持ち主のようにみなされ、生命主義的に解釈されることもでてきた。  親鸞の自己の罪悪性への自覚は痛切である。病める魂の典型的人物といってよい。親鸞の教えの核心は、阿弥陀仏の本願への疑いが滅して、正定聚に入って生きることにある。このことは、まさに虚仮のいのちを捨て真実なるいのちに生まれかわることを表現していることにほかならない。法然への論難に対して答えることは親鸞にとっても課題であり、『教行信証』執筆の大きな動機であった。残された課題の一つに菩提心の問題がある。親鸞はこれに対して、信心も自己がおこすものではなく、弥陀よりたまわるものだと示した。後世、絶対他力と称されるほど、弥陀の絶対性を強調したのである。他力信心に関する論理を徹底させながら、親鸞も人間として生きた。しかし、親鸞も理論的課題をすべて解決したわけではない。人間的生の意味連関の中で道徳・倫理をどう捉えるのかという課題は、そのひとつであろう。信心を獲て、現生正定聚の中に入ることは、むしろ人間的生の意味連関の再構築の始まりとなる。  ジェイムズや上田の理論が必ずしも全面的に妥当するとは限らず、また浄土教をかれらの理論で考察する必要もない。しかし、浄土教の思想をその文字の表面的な意味理解に限らず、より普遍的な次元で捉え返すことは大切なことであろう。浄土教は、現代に流布している「いのち教」と違うのか否か。あるいは、俗世から断絶した浄土を人間的生の次元に引きずりおろす転倒は生じていないか。いのちの肯定と否定の問題は、そのような問いを投げかけているように思われる。 (いわたふみあき・大阪教育大学教育学部教授)著書に、『近代仏教と青年――近角常観とその時代』(岩波書店、2014)、編著『知っておきたい日本の宗教』(ミネルヴァ書房、2020)など。 他の著者の論考を読む...
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先徳との「対話」を目指して

アンジャリWEB版

花園大学文学部教授

師  茂樹

(MORO Shigeki)

■特集を捉える

 [大谷由香「日本仏教における「慈悲殺生」の許容」へのコメント]

 

 哲学者の河野哲也は「思考とは、他者から発せられる多様な声を自分のなかに取り込み、そのあいだの対立や闘争やすれ違いを取り持ち、それらの声を交渉させ、調停し、まとめたり、和解させたりして関連づける」という「本質的に政治的な活動」だと言う(『じぶんで考えじぶんで話せる―こどもを育てる哲学レッスン』河出書房新社、2018)。仏教者にとって「自分のなかに取り込」むべき「声」は、まずもって仏典に説かれる先徳たちの様々な言説ではなかろうか。

 大谷由香「日本仏教における「慈悲殺生」の許容」の中で紹介されている、『瑜伽師地論』菩薩地における「慈悲殺生」の議論、そしてそれを様々に注釈した東アジア、日本の学僧たちの「声」は、現代の我々にも多くの「思考」をもたらしてくれる。むしろ、ここで紹介されている先徳たちとの(広義の)対話の必要性は、現代においてますます高まっているように思われる。

 思えば今から四半世紀あまり前、我々の社会ではオウム真理教という団体による「慈悲殺人」(彼らは「ポア」と呼んでいた)が発生した。その時、たまたま見ていたテレビのワイドショーに仏教学者が呼ばれていて、「ポアは仏教なのですか?」と詰問されていた。その学者は「ポアは仏教ではありません」と答えていた。仏教は、どんな目的であれ、殺人は肯定しないというのだ。

 当時大学院生だった私は、彼がそう答えざるを得ない状況であったことに強く同情しつつも、その発言を聞いて思わず「嘘だ」とつぶやいていた。その時私は、まさに大谷が紹介する『瑜伽師地論』菩薩地の該当箇所を読んでいたのだった。私の中で複数の「声」が対立し葛藤していたことを思い出す。

 『瑜伽師地論』では、大谷が紹介している「慈悲殺人」以外にも、菩薩の慈悲にもとづく加害や(現代風に言えば)ハラスメントの事例が「菩薩戒に違犯したことにはならないし、かえって多くの功徳を生む」と述べられている。その中には、権力者による仏教の強制の例もある。これなどは、昨年、アフガニスタンにおいてタリバン政権が復活したことを想起させる。この件について、日本の報道にはほぼネガティブなものしかないように思う。もちろん、それらの報道にはそれなりに根拠があるのだろうし、人権侵害があるのであれば早急に改善されるべきであると思う。その一方で、我々はこの問題について、「多様な声」に耳を傾けているのだろうか、偏った価値観だけで一方的な断罪をしてはいないだろうか、とも思う。『瑜伽師地論』やその注釈をめぐる議論も、この点から読まれ直してもよいかもしれない。

 現代の倫理的問題を考える際、マイケル・サンデルが紹介したことで有名になった所謂「トロッコ問題」――大谷も言及しているが――などを参照するのもよいが、我々の有する伝統の中で豊かな倫理的議論がなされていたことに、もっと目を向けてもよいように思う。言うまでもなく、現代の(特に欧米の)価値観を否定しろと言いたいわけではないし、仏教だけを特権化すべきだとも言いたいわけではない。ただ、我々はもっと古典を含めた「多様な声」を取り込み、自分の中で葛藤させ、そして何らかの判断をする訓練をすべきだし、仏教者であるならばその中に仏典を含めるべきではないか、と思うのである。そして、大谷のこのエッセイには、そのためのヒントが多く含まれているように思われる。

(もろ しげき・花園大学文学部教授)
近著に『最澄と徳一――仏教史上最大の対決』(岩波新書)。他論文等多数。

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健全な心の持ち主は、人生を善きものと感じ、世界の暗い面や自己自身の不完全さに思い悩むことは少ない。この心の持ち主は、さしあたり無意識のうちに世界の善性を信頼し、自然に幸福を感じる人といえる。しかし、むしろこの類型の本領は、意志的・組織的に悪を自身の視野の外に締め出す方法を用いることにある。ものごとを全体として善と考え、意識的に楽観的な人生観にもとづき、人間の生を肯定するのである。ジェイムズは当時のアメリカで起こっていた「マインド・キュア(精神治療)」運動を具体的な例としてとりあげ、積極的に人生を肯定する方法の特色を紹介している。  マインド・キュアは、ニューソートとも呼ばれるが、このような方法論にもとづいて、自己を肯定しようとする動きは、当時の合衆国にだけ存在したのではない。現代の日本の新宗教や精神運動においてもこのような形態はひろく認められる。新宗教のひとつである生長の家の創始者、谷口雅春は実際にニューソート(生長の家ではこれを「光明思想」と呼ぶ)に大きな影響を受けて、活動を展開していった。光明思想のような生命観は、戦後、教勢を著しく拡大した新宗教の大きな特徴である。その生命観は、ひとりひとりの心の状態や思いは、宇宙の本源的実在やエネルギーと密接につながっていると想定する。そして、宇宙の諸存在はすべて一つの生命体であり、悪は根源的な実在性をもたないとされる。新宗教におけるこのような理論構成は、宗教学者によって「生命主義」として研究されてきた(対馬路人他「新宗教における生命主義的救済観」『思想』665号、1979年)。来世ではなく現世に重きを置くのも、生命主義の特徴のひとつである。  しかし、生命主義的な思想は新宗教だけにみられるものではない。新宗教の教理ほど体系的ではなく、また徹底したものではないにしろ、現代の学校教育やマスコミなどでも、生命主義に親近した考え方が暗黙のうちに浸透している。しばしば、「すべてのものはつながっている」「すべてのいのちは輝いている」「あなたには無限の可能性がある」などという表現がなされる。ひとりひとりの生をかけがえのないものとして見据え、できるだけ善いことや長所を見いだすことで、生が肯定されるという発想である。このような思考形態は現代における「いのち教」と呼ぶことができよう。  それでは、ジェイムズがいう「病める魂」はどのような性格類型であろうか。病める魂の持ち主は、悪の存在に悩まされる人である。世界や自己の悪い面が切実に感じられ、悪と向き合うことが本当のあり方だと考える。そのように悪や苦しみに向きあうことで、古い自己が死に、新たな自己が蘇ることがある。再生された自己においては、悪や苦は必然的なものと認められ、それらは内に含まれた仕方で統合される。このような死と再生の経験は、伝統的な宗教、とくにキリスト教や仏教において顕著にみられてきたことだとジェイムズは指摘する。事実、キリスト教では人間を原罪があるものとし、仏教では生老病死などの四苦や八苦を説く。ジェイムズはキリスト教と仏教は本質的に「救済(deliverance)」の宗教であり、その教えの核心をこう述べる。「真実なるいのち(life)に生まれうるには、人はまず真実でないいのちを忘れさらねばならない」。 ◆上田閑照の宗教哲学生命/生/いのち  キリスト教や仏教など救済宗教の「いのち」理解を考察するためのよい手がかりを上田閑照は提示している(上田閑照『宗教』岩波現代文庫、2007年)。近年の宗教哲学者の代表的存在である、上田の論をもとに肯定と否定との問題をさらに考えてみよう。  本来的に「人間として生きる」という観点から、上田は宗教の問題を考察する。上田によれば、「生きる」ことには「生命」と「生」と「いのち」の三つの次元があり、それらがダイナミックに連関してこそ「生きる」ことになる。「生命」は、生物学や生命科学の対象となるものである。「生」には「生活」という面や「人生」という面もある。そのため、さまざまな人文科学の対象となる。「生」はさまざまな意味連関の中におかれるが、それを包括する場所が「世界」である。宗教との関係で重要なのは「いのち」である。「いのち」は学問の対象とはならずに、対象化することでは触れることができないところで生きられる。生命や生とは質を異にし、詩・文学や芸術や宗教などで直接に「いのち」の言葉に触れて、「いのち」の目覚めが生起する。「いのち」の目覚めは宗教にかぎらず、詩や芸術でも自覚されることがある。ただし、「生命」から人間的な「生」へは量的な飛躍であるのに対し、「生」から「いのち」への飛躍はそうした飛躍の線を断ち切ったところから出てくる質的な飛躍である。「死」や「貧」といった否定的な契機を通して自覚されてくるのが「いのち」なのである。そして、こうしたすべての連関を含めて、その全体が生きられることが「人間として生きること」になるのだという。  上田は、悪や苦などの否定的なものを真正面から見すえることが本当の意味で「生きる」ことだとするのであり、この点、ジェイムズのいう「病める魂」と論が重なる。  ここで大切なのは、上田が捉える救済宗教の本質である。意味の総枠である「世界」と、それを越えるものは異質で断絶している。伝統的に「宗教」とされるのは、「世界」を越え包む限りない「開け」が、「世界」の内から主題化されたものだと上田は捉える。具体的にいえば、神域・神殿・教会などは地図の上に位置づけ可能な、目に見える局所であるが、本来的には「世界」とは断絶した場所なのである。しかし、それを目に見える世界内のものとして捉えると問題が起こる。  人間にはそもそも「歪み」と「転倒」の危険性がある。「歪み」とは、人間的生に関わる世界がすべてだとし、それを越えるものを見ないことである。これは宗教的なものを意図的に見ない歪みである。「転倒」とは、本来、人間的生においては見えないものを見てわかったものとして、人間的生の次元に引きずりおろすという転倒である。歪みや転倒は宗教の歴史の中でしばしば生じており、宗教思想家はそれぞれの仕方でその危険性を乗り越えようとしてきた。 ◆浄土教における否定と肯定法然・證空・親鸞  さて、上田やジェイムズの提示した宗教モデルをもとに、浄土教について考えてみよう。浄土教の祖師たちは、いずれも病める魂の持ち主であり、自己の罪悪をみすえている。なるほど、法然は通仏教の側からも「智恵第一の法然房」と讃えられ、また持戒堅固の清僧と知られていた。しかしながら自身を「戒定慧の三学の器にあらず」と認識し、また「十悪の法然」「愚痴の法然」と自覚していたと伝えられている。その法然が称名念仏の教えを説いた。ただし、念仏一行を「選択」したのは法然ではなく、阿弥陀仏であることを見失ってはならない。阿弥陀仏が余行ではなく、念仏を選択し、それを往生の本願としたということが『選択本願念仏集』の主旨であり、そのことが決定的な意味を有している。この著作には、人間的生に関わる意味世界ではない、絶対の側からの働きが表現されている。上田の言葉に従えば、「いのち」の言葉が念仏なのである。その念仏の働きには自力無功という否定の契機が内包されている。  しかし、このような法然の立場は、念仏以外の行を修する仏教者から非難されることになる。また人間の意味世界を越えた絶対の働きと、人間の生の意味世界との関係が問われることになった。法然自身は、当時の社会の仏教や道徳の規範に則った清僧として一生を過ごした。すなわち、このようにして法然は「人間として生きた」のだ。とはいえ、教団が大きくなり、信者が増えていく中で、この課題に理論的に答える必要もでてきた。  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親鸞の自己の罪悪性への自覚は痛切である。病める魂の典型的人物といってよい。親鸞の教えの核心は、阿弥陀仏の本願への疑いが滅して、正定聚に入って生きることにある。このことは、まさに虚仮のいのちを捨て真実なるいのちに生まれかわることを表現していることにほかならない。法然への論難に対して答えることは親鸞にとっても課題であり、『教行信証』執筆の大きな動機であった。残された課題の一つに菩提心の問題がある。親鸞はこれに対して、信心も自己がおこすものではなく、弥陀よりたまわるものだと示した。後世、絶対他力と称されるほど、弥陀の絶対性を強調したのである。他力信心に関する論理を徹底させながら、親鸞も人間として生きた。しかし、親鸞も理論的課題をすべて解決したわけではない。人間的生の意味連関の中で道徳・倫理をどう捉えるのかという課題は、そのひとつであろう。信心を獲て、現生正定聚の中に入ることは、むしろ人間的生の意味連関の再構築の始まりとなる。  ジェイムズや上田の理論が必ずしも全面的に妥当するとは限らず、また浄土教をかれらの理論で考察する必要もない。しかし、浄土教の思想をその文字の表面的な意味理解に限らず、より普遍的な次元で捉え返すことは大切なことであろう。浄土教は、現代に流布している「いのち教」と違うのか否か。あるいは、俗世から断絶した浄土を人間的生の次元に引きずりおろす転倒は生じていないか。いのちの肯定と否定の問題は、そのような問いを投げかけているように思われる。 (いわたふみあき・大阪教育大学教育学部教授)著書に、『近代仏教と青年――近角常観とその時代』(岩波書店、2014)、編著『知っておきたい日本の宗教』(ミネルヴァ書房、2020)など。 他の著者の論考を読む...
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景色がかわるとき

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親鸞仏教センター研究員

谷釜 智洋

(TANIGAMA Chihiro)

 「人格ある誰かを見失うな」。山川冬樹氏のインタビュー記事の見出しである(『毎日新聞』東京夕刊2020年6月8日)。偶然みつけたこの記事をきっかけに、山川氏が「ハンセン病問題」に向き合った『海峡の歌』というインスタレーションを発表していることを知った。かねてから氏のライブパフォーマンスには常に驚かされ、その世界観に魅了されてきたが、この『海峡の歌』に込められた思いには特に惹きつけられた。

 香川県にあるハンセン病療養所、大島青松園からかつて自由を求めて対岸にある庵治町へ泳いで渡ろうとし、その過程で命を落とした人々がいた。このインスタレーションでは、その事実に基づく映像作品も展示されている。([参照] ART SETOUCHI

 異なる療養所であるが、2014年に私は岡山県の長島愛生園へフィールドワークとして訪れたことがある。その際に園内にある真宗寺院や歴史館においてハンセン病の回復者の方々と交流する機会を得た。そこで眺めた海の景色は、自分には広々と穏やかに見えていた。歴史館の資料や回復者の方々の話から、愛生園から脱走を図った当時の患者達の中にも青松園と同様のことを試みて、亡くなられた方が何人もいたことを知った。この事実を知った途端、言葉では説明できないような感情がこみ上げ、穏やかに見えていた海の景色が一変するという体験をした。

 近代の大谷派と「ハンセン病問題」については、昭和6(1931)年に国が発した「らい予防法」の制定がまず注目される。この法令でいう「予防」とは名目で、ハンセン病患者を強制隔離するための法律であったといわれている。教団としてその政策に加担してきた大谷派は、法令の制定に合わせて、大谷派光明会を結成し、慰問布教として僧侶を療養所に派遣するが、その実質的目標は強制隔離を患者自身の運命としてあきらめさせることにあった。大谷派出身の僧侶であり医学者の小笠原登(1888-1970)は、この隔離政策に異をとなえたが、当時の教団を動かす力とはならなかった(『増補 小笠原登――ハンセン病強制隔離政策に抗した生涯』、東本願寺出版、2019年を参照)。

 2011年12月頃であったか、東日本大震災の被災地のひとつでもある岩手県の大槌町を訪れた際にも、愛生園のときと似たような感覚に襲われた。震災から1年も経たない時期であったが、余震がだいぶ落ち着き始めていたこともあり、同県に住む友人を尋ねた。友人からその景色を見るように促され、一人で大槌町に向かった。私自身にも被災地の現状をこの目で見なければという思いに駆られるところがあった。

 町には更地の中に山積みにされた瓦礫がいくつもあった。その港から海を見た途端、ここで多くの人の命が尽きたことを考えると、身がすくみ、かつてそこにいた人々の声すら聞こえてきたような気がした。なんらかの事実に触れることで普段通りの景色は、まったく違うものに映ってしまう。

 冒頭で言及した映像作品で山川氏は、過去の出来事とは逆に庵治町から大島までみずから泳いで渡るということを試みている。過去の事実に無関心であれば、ただ人が泳いでいる映像にしか見えないかもしれない。氏のやり方で「人格ある誰か」に接近していく試みであったのだと想像する。

 私の景色を一変させたのは、氏の言葉をかりれば「人格ある誰か」の存在だったのだろうか。

(たにがま ちひろ・親鸞仏教センター研究員)

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投稿者:shinran-bc 投稿日時:

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テクストとしての宗教を読むということ――「語られた」像の思想史を描出する 親鸞仏教センター嘱託研究員 飯島 孝良 (IIJIMA Takayoshi)  いささか面映ゆいことではあるが、ごく私的な経験談から始めたい。10代の終わり、学問的な気風に接することなく過ごしてきた私にとって、恩師が示して下さった“聖書学”という分野は、ひとつのカルチャーショックであった。聖書学は、聖書にちりばめられた「奇蹟(物語)」や「超自然」を合理主義の下に排し、人間イエスの精神とその時代を出来る限り客観的に描出することに努める営為である。すなわち、イエス自身の言行と思われたものも、福音書の記述と編集の段階で弟子や原始教団の意図や認識によって創出されたものであって、史実そのもののイエスを語るというよりも、記者や編集者それぞれの問題意識を反映した〈像〉と看做すのである。このように「史的イエス」探究を軸とした聖書学は20世紀に隆盛を極め、古代史学や社会心理学や言語学(言語行為論など)を総合的に踏まえてイエスとその時代を分析する「文学社会学」的聖書学へと結実していった。  視点を仏教に移すと、イエスのみならず仏教者もまた、史的存在であるとともに「語られる」存在たり得る。その具体例として理解しやすいのは、所謂「宗祖」と称される存在である。法然にせよ日蓮にせよ、「救済者」「超越者」として伝承されることもあれば、とくに近現代では苦悩する「求道者」「人間」として語ることが増加する面もみられる。ただ、こうした多層的な「語り」が「宗祖」に関するものと看做される限りにおいて、その「語り」は宗門内部に留まるものになる。その一方、仏教者の中には、その魅力やインパクトが大きい故に、内部だけではなく外部にも波及し得る存在もある。例えば親鸞は、宗門の内部にも外部にも大きな影響を示したのは論をまたない。あるいは一休などは、臨済宗大徳寺派の「宗祖」というわけではなかったが――いや、それ故に――宗門内部よりもむしろ外部で先んじて多く語られ、一般において逸話が広く伝承して「一休ばなし」が形成されたとも考え得る。...
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忘却を経てなお――森﨑東の言葉に寄せて
忘却を経てなお――森﨑東の言葉に寄せて 親鸞仏教センター研究員 東  真行 (AZUMA Shingyo)  言葉はあくまで伝えたいことの「入れ物」なのだと、ある音楽家はいう。寺尾紗穂氏が述べるように「歌」と「訴え」が相通じているとして、こんな言い換えは可能だろうか。訴えの込められた入れ物が歌だと。  切実な思いだからこそ、音に乗せるのか。親鸞もたくさんの和讃を遺している。それらは黙読される文字である以上に、読誦される言葉として今なお息づいている。読む者のみならず、勤行の会座を共にする聴聞者の心身をも文字通り震わせてきた。  昨年の7月になくなった映画監督、森崎東のことをふと連想する。卓越した感性で引用される数多の「歌」と、観念的とも評される直截的な「訴え」とが、森崎作品では同居している。  藤井仁子編『森崎東党宣言』(インスクリプト、2013年)には使用楽曲が約20頁にわたってリスト化されているほどで、本人のエッセイ集『頭は一つずつ配給されている』(パピルスあい、2004年)でもよく「歌」、すなわち往時の流行歌から軍歌、民謡、都々逸、漢詩、革命歌から校歌に至るまでが言及される。森崎は自身の人生を「片端から憶えては忘れてきた歌の総和である」(『頭は一つずつ配給されている』、374頁)と述懐するが、ここに「忘却」という晩年の課題が示唆されてもいるのだろう。  その「訴え」については、敗戦の翌日に自殺した兄、湊に反発するゆえの「左傾傾向」(『森崎東党宣言』、186頁)を告白する通り、天皇制や原子力発電をたびたび烈しく批判した。  また、森崎は「身」にまなざしを注いだ作家でもあった。『田舎刑事 まぼろしの特攻隊』(1979年)や『ペコロスの母に会いに行く』(2013年)では深刻な場面であればこそ、殊更に主人公たちの生身の存在感を強調している。渥美清演じる刑事の水虫、岩松了演じる漫画家の禿頭に執拗なまでに焦点を当てるという演出がそれであり、私などは何というか呆然とするばかりだ。   「精神」と聞いた途端に何やら心に重い疲れを感じる戦中派にとって、霊にしろ、心にしろ、魂にしろ、いわゆる精神論そのものが耐えがたくカッタルイのである。 (『頭は一つずつ配給されている』、383頁)    鈴木大拙のいう「霊性」が果たして「いわゆる精神論」であるかはともかく、大拙の表現に首肯し得なかったと記す森崎である。だからといって身体にのみこだわったわけではない。「日本精神」の鍛錬と称して毎日数百回もの腕立て伏せを断行した兄とは逆の方向で、つまり何らかの強固なイメージに肉体を追いつかせようとするのではなく、むしろ老いていく身体のように精神を捉えること。この身は老病死に遭遇しつつも、まだ何とか生きて血を通わせている。同様に老いる精神にも、しぶとく生々しい肌ざわりを見出し得るのではないか。そのように「身」をみる森崎にとって、心身は老病死の現場であると同時に根源的な生をまざまざと感じる場でもあったのではないか。  晩年の森崎が「認知症」と向き合っていた様子は、ETV特集『記憶は愛である~森崎東・忘却と闘う映画監督~』(2013年)に詳しい。記憶の総和が人生ならば、その喪失過程は生きながらの死か。森崎は自身にその問いを課すのだ。  遺作となった『ペコロスの母に会いに行く』は、ある老女(演じるは赤木春恵)の「認知症」を物語の主軸に据えるという、みずからの苦悩と真正面から対峙する内容である。物語のクライマックスでは、どんな苦難があろうと、大切な記憶を思い起こす力が人間の「身」には生じるのだと高らかに宣言される。どこまでも深く忘れるということがあったうえで、それでも記憶はよみがえるという出来事が描かれており、ここには自身への応答があるのだろう。森崎は次のようにも述べていた。   私は最近ヤタラに忘れっぽくなった自分を死につつある人とは思いません。忘却は死でなく生の普遍現象であって、人は忘却と同時に回想という記憶の再生によって常に新しい生の体験をする。むしろ長い忘却の時間を経ることで、忘れていた体験の真実の意味を知ることすらある。 (『頭は一つずつ配給されている』、379頁)    この稿を書きながら以前お聞きした、ある問いが思い出される。真宗大谷派の僧、暁烏敏から仏教を聞いた岡本禮子(法名は釋暁禮)という方の訴えである。「自分は暁烏先生に出会って、親鸞聖人の教えを聞いて、念仏さえあればどんな人生であっても生きていけると思ってきた。ところが最近は、あれだけ感動した先生の言葉が思い出せない。ときどき娘の名前もわからなくなる。ひょっとするとお念仏も出なくなるかもしれない。それでも私は救われるのか」と(加来雄之『真宗の死生観』〔大和仏教センター、2018年〕を参照)。どんなに深く教えと出会っておられたのだろう。出会ってさえいない者にとっては忘れるどころではない。  森崎は、忘却の時間に裏打ちされた回想では、もともとの経験にそなわる「真実の意味」があらわになる場合さえあると記していた。不可避の忘却を経てなお、常に新鮮に真実を思い起こし得るとは不可思議である。この力には、いかなる表現がふさわしいのだろう。森崎は、あるイギリスの劇作家の「記憶は愛である」(『頭は一つずつ配給されている』、75頁)という言葉を紹介している。あるいは「憶念はすなわちこれ真実の一心なり」(金子大榮校訂『教行信証』、岩波文庫、176頁)と親鸞が記したとき、どんな実感がその胸中に去来していただろうか。 (あずま しんぎょう・親鸞仏教センター研究員) 他の著者の論考を読む...
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景色がかわるとき
景色がかわるとき 親鸞仏教センター研究員 谷釜 智洋 (TANIGAMA Chihiro)  「人格ある誰かを見失うな」。山川冬樹氏のインタビュー記事の見出しである(『毎日新聞』東京夕刊2020年6月8日)。偶然みつけたこの記事をきっかけに、山川氏が「ハンセン病問題」に向き合った『海峡の歌』というインスタレーションを発表していることを知った。かねてから氏のライブパフォーマンスには常に驚かされ、その世界観に魅了されてきたが、この『海峡の歌』に込められた思いには特に惹きつけられた。  香川県にあるハンセン病療養所、大島青松園からかつて自由を求めて対岸にある庵治町へ泳いで渡ろうとし、その過程で命を落とした人々がいた。このインスタレーションでは、その事実に基づく映像作品も展示されている。([参照]...
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呼びかけられる

アンジャリWEB版

哲学研究者

永井 玲衣

(NAGAI Rei)

 遠くから、おーいと呼びかけられることが好きだった。


 おーい、おーい、と声がする。風が顔を吹き付けていて、少し肌寒いと感じるあの日のことだ。西日の傾きがゆっくりと一日が終わることを示していて、放課後の気だるい空気が漂っている。おーい、おーい、とまだ声がする。周りにひとはいなくて、わたしは平坦なゴム製のグラウンドをゆっくり踏みしめて西校舎に向かっている。おーい、おーい。だんだんとその声が、わたしの聞き慣れた声であることが分かってくる。おーい、永井、おーい。わたしの名前が呼ばれる。わたしは振り返って、声のする方を見上げる。友だちが、校舎の3階からわたしに手を振っている。おーい、おーい。


 記憶はそこで曖昧になっている。誰かに探されていたのか、その子がわたしに用があったのかは忘れてしまった。にもかかわらず、それはひどく嬉しかった記憶としてわたしの奥底に潜んでいる。

 誰かがわたしを呼ぶ声。聞こえるか聞こえないかわからないままに、それでもなお、何度も何度も呼びかけるあの声。おーい、おーーーい、というのん気で、切実な呼びかけ。



 哲学対話という奇妙な活動をしている。ある問いについて、ひとびとと考え、聞き合い、対話する。ここで行われるのは「会話」でも「議論」でもない。バラバラの人々と集まり、物事をゆっくりと深めていく時間である。


 ひとびとと共に考える問いは「人間に価値はあるのか」などいかにも哲学的というものもあれば「人間関係はなぜつらいのか」など日常的な悩みのもの、「友だちの人生を生きられないのはなぜ」など、考えてみればふしぎだと思えるものなど、様々である。

 わたしは自治体や学校、美術館や企業などで哲学対話をすることが多いが、ここ数年お寺でも対話を行ってもいる。ちなみに初回は「墓は必要か」という問いで、お坊さんやそのお寺の檀家さん、通りすがりの観光客、近所の人など、色々なひとが集まった。


 哲学対話は真理探究の場だが、急いでわかりやすい「正解」を出したりはしない。勝ち負けを決めたり、「いいこと」を言ったひとがえらいわけでもない。ひとびとは問いの下で平等であり、そこに優劣や権力が持ち込まれないように気が払われる。それは、あくまでこの哲学探究が「対話」であることにとどまろうと努力する試みでもある。


 哲学対話は「哲学」と「対話」の単なる合成語ではない。哲学的であることは、対話的であることだ。探求をするためには、その場が対話的でないと、哲学は育たない。対話に参加するあなたを、わたしたちは尊重する。言葉につまり、言いよどみ、時に沈黙するその時間も、哲学対話は丁寧に扱う。息遣い、誰かの汗のにおい、遠くで聞こえる工事の音、たまにごつんと当たる隣のひとの肘、すべてがその「場」に存在し、対話に参加していることを感じながら、わたしたちは哲学をする。


 新型コロナウイルスの影響で、学校や喫茶店、お寺など、色々な場所でひらかれていた哲学対話は次々と中止になった。輪になって座ることの多い対話は、顔をつきあわせ、互いの身体の近さを感じながら話し合うことがほとんどなので、いちばんの感染症対策は、その場をひらかないことである。

 こうして、多くの会議や研究会と同じように、哲学対話はオンラインで行われることが主流となった。


 オンラインで対話をすることについては、否定的な意見もあるし、同時に可能性を見出す声も聞こえてくる。おそらくその両方なのだろう。身体性を伴わない対話はどこか不安でつながりが希薄に感じられるが、すべてを等し並みにしてくれる画面は、圧迫感や緊張感を軽減してもくれる。休み時間での隣同士での簡単な会話、帰り道を共にしながら、考えそびれたことを語るあの時間はなくなってしまったが、普段参加しづらい状況にあるひとが参加しやすくなったり、より自由な形式での参加が可能になりもした。


 だから、オンラインでの対話は、対面の代替物というよりは、まったく別のものと考えたほうがいいのかもしれない。オンラインによって、対面と比較して何かができなくなってしまったとか、対面が可能になるまでのその場しのぎとかではなくて、また別の新しいコミュニケーションのひとつなのだ。

 わたしも最初は、どうやって対面の対話にオンラインの対話を近づけられるかを考えていたように思う。かつて見知っていた地点からしか、変容したあり方を考えることができなかった。


 まったく目新しいものとして、オンラインでの対話を見つめ直してみるとどうだろう。それでもやっぱり、これまでのやり方と比べてしまうけど、なぜだかふと頭に浮かんだのは、遠くにいる友だちがわたしに呼びかける声だった。



 もしもーし、聞こえますか、と誰かがわたしに呼びかけている。はーい、とわたしが応えるが、相手には聞こえていない。オンラインでのある哲学対話の時のことだ。他のひとたちが、聞こえてますよ、こっちはどうですかと呼びかける。あれ、聞こえていないのかな、という独り言がわたしたちの耳に届く。ちがう、あなたの声は聞こえているけど、わたしたちの声があなたに届かないのだ、とわたしたちは悟って、懸命に声を出す。もしもし!聞こえていますよ!おーい、おーい、聞こえています!わたしたちは相手に聞こえないことを分かっていながら、なぜだか呼びかけている。


 わたしはあの時間が好きだ。おーい、おーいと友だちがわたしの名前を呼んでくれたうれしさをなぜだか思い出す。呼びかけるということだけに集中しているあの瞬間。すぐそばにいないからこそ、声を張り上げて、その人の名前を呼ぶあの時間。

 すぐ近くにいれば、わたしはあなたの肩をそっと叩くことができる。近くに座るだけで、あなたは振り向いてくれる。


 だが、わたしたちはとおくとおく離れている。電波を通して、奇妙な仕方で集っている。だからこそ、わたしたちは言葉であなたにふれなければならない。祈るように、あなたに呼びかける。

 あっ聞こえるようになりました、とあなたが画面の奥で嬉しそうに笑っている。それをわたしたちはよかったねえ、と祝福している。声が届く、ということによろこぶことができる。こっちも聞こえますよ、ああよかった、聞こえますか?聞こえますよ、聞こえますね、とわたしたちは何度も確かめる。


 このとき、「声が届く」という普段見慣れたことがふしぎなことに様変わりする。画面に映るたくさんの人たちの背後には、それぞれの部屋がある。揺れる洗濯物、棚に押し込まれたぬいぐるみ、掃除機をかけるお母さん、横切る猫、少しくすんだ壁紙、走り回る子どもたち。のっぺりとした画面の奥に、パソコンを切ったその後に、ひとびとの生活と、それぞれのはてしなく続く人生がある。


 わたしたちは本当にばらばらで、見知らぬ他者同士だ。あなたがこれまで何をして、何を食べて、何にかなしみ笑ってきたのかをわたしは知らない。そして今後、あなたが何に喜び、何を失って、どんな人になるのかも知ることはない。


 だがあの瞬間だけは、おーい、おーいと互いに呼びかける。あなたの声が聞きたくて、あなたと話したくて、わたしたちは互いに一生懸命に声を届けようとする。一度つながったとしても、通信の関係で、突如としてあなたがいなくなってしまうこともある。不安定になり、一瞬だけ聞き漏らしてしまうこともある。わたしたちの対話の場は、非常に不安定で、奇妙で、もろいのだ。

 

 本当はオンラインの場でなくたって同じだ。他者と共に考える場は、対話だけでなく議論でも、会話であっても、不安定で奇妙でもろい。しかしオンラインは、そのことがより意識される。そして、普段の場のむずかしさが再び捉え返される契機でもある。


 いや、もっとシンプルに考えてもいい。哲学対話は、ひとびとと考えを問い合いながら考えを深めていく。そこにあるのは、独白的な語りではなく、あなたと共に考える共同的な語りだ。あなたが見知らぬ他者であっても、あなたが必要で、あなたと共に考えたいと思うし、あなたにも必要とされたいと思う。だからやっぱり、あなたに呼びかけられることはうれしい。


 仕事の帰り道、小さな子どもが、遠くの母親におーい、おーーいと声を出しているのを見かけた。母親は少し離れた駅ビルの二階のガラス窓から、穏やかに手を振っている。子どもは隣にいる父親と手をつなぎながら、おーい、おーーいと嬉しそうに飛び跳ねている。 呼びかけるのもまた嬉しいのは、なぜなのだろう。おーい、おーーい。

(ながい れい・哲学研究者)
専門は哲学・倫理学。哲学研究と並行して、学校・企業・寺社・美術館・自治体などで哲学対話を幅広く行っている。哲学エッセイの連載なども行う。共著に『ゼロからはじめる哲学対話』(ひつじ書房)など。

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投稿者:shinran-bc 投稿日時:

テクストとしての宗教を読むということ――「語られた」像の思想史を描出する

アンジャリWEB版

親鸞仏教センター嘱託研究員

飯島 孝良

(IIJIMA Takayoshi)

 いささか面映ゆいことではあるが、ごく私的な経験談から始めたい。10代の終わり、学問的な気風に接することなく過ごしてきた私にとって、恩師が示して下さった“聖書学”という分野は、ひとつのカルチャーショックであった。聖書学は、聖書にちりばめられた「奇蹟(物語)」や「超自然」を合理主義の下に排し、人間イエスの精神とその時代を出来る限り客観的に描出することに努める営為である。すなわち、イエス自身の言行と思われたものも、福音書の記述と編集の段階で弟子や原始教団の意図や認識によって創出されたものであって、史実そのもののイエスを語るというよりも、記者や編集者それぞれの問題意識を反映した〈像〉と看做すのである。このように「史的イエス」探究を軸とした聖書学は20世紀に隆盛を極め、古代史学や社会心理学や言語学(言語行為論など)を総合的に踏まえてイエスとその時代を分析する「文学社会学」的聖書学へと結実していった。

 視点を仏教に移すと、イエスのみならず仏教者もまた、史的存在であるとともに「語られる」存在たり得る。その具体例として理解しやすいのは、所謂「宗祖」と称される存在である。法然にせよ日蓮にせよ、「救済者」「超越者」として伝承されることもあれば、とくに近現代では苦悩する「求道者」「人間」として語ることが増加する面もみられる。ただ、こうした多層的な「語り」が「宗祖」に関するものと看做される限りにおいて、その「語り」は宗門内部に留まるものになる。その一方、仏教者の中には、その魅力やインパクトが大きい故に、内部だけではなく外部にも波及し得る存在もある。例えば親鸞は、宗門の内部にも外部にも大きな影響を示したのは論をまたない。あるいは一休などは、臨済宗大徳寺派の「宗祖」というわけではなかったが――いや、それ故に――宗門内部よりもむしろ外部で先んじて多く語られ、一般において逸話が広く伝承して「一休ばなし」が形成されたとも考え得る。 このように、キリスト教にせよ仏教にせよ、「語られた」存在がひとつの文学的営為を惹起してきた。

 

 この「語られた」像は、宗門における伝承ばかりか広範にわたる文化的意匠として、ときに時代への危機意識を代弁するものともなれば、ときに人生の指標とされもしたのである。「現代にイエス(的な存在)が現れてきたら」と仮定するような芸術作品(例えば遠藤周作の諸作品など)や、一休を取り上げた芸術作品(例えば水上勉の小説など)は、その試みと位置付けられる。

 

 宗教者に関する「語り」が集積体となって形成した一連の文章とその創出を「テクスト」とし、その特質を分析しようとするならば、この「テクスト」をできる限り主観的な価値判断を排して整理する作業が求められる。それは方法論的に「テクスト批判」と称される学術的な作業と考えられるが、より詳しくは、「タテ」と「ヨコ」に着目してその特質を明らかにする作業と考え得る。この場合の「タテ」とはいわば“時系列的影響関係”への着眼であり、ひとつのテクストが生まれてから直近までにどのように読み継がれてきたのかを分析するものといえる。一方、「ヨコ」とはいわば“同時代的影響関係”への着眼であり、ひとつのテクストが同時期にどれほど多様な読まれ方を引き出して時代認識に影響を与えたのかを検討するものといえる。

 

 このように、テクストの影響関係を「タテ」と「ヨコ」に着眼して明らかにすることは、いわば「思想史」的作業といえないだろうか。すなわち、テクストから導き出された考えや着想=「思想」が、時系列的ないし同時代的にどう読まれ(続け)てきたのか、そうした点からそのテクストの存在意義を明らかにし得るのではないか。これは聖書学ないし文学社会学にも共通した問題意識であって、「語られた」仏教者の像を分析するうえでも不可欠な視座の筈である。テクストを読む我々は、いわばテクストを通して「語られた」像と対話を求められる。その像がフィクショナルなものであろうとそうでなかろうと、我々はその像がテクストにおいて何を語っているか、虚心坦懐に耳を傾けることがゆるされている。

 

 こうした「テクスト批判」には主観的な価値判断を差しはさまぬことが大前提の条件であるし、そこにこそ学術性が担保されもしよう。ただし、目の前のテクストが展開する物語や思想の何がしかに触れることで、解釈者自身の「信仰」や「体験」に影響しないとまで言いきれるものだろうか。あるテクストと向きあう際にあらわれる最も素朴な反応は、それが「心震わせる」とか「魅了してくる」といったものである。そうした反応は、「信仰」や「体験」とどれくらいの“距離”があるとみなせるのだろうか――これは、聖書学などのテクスト批判論に接してきた10代の終わりから、私の心に往いては来たり、来たりては去る、非常に複雑な問題である。言い換えれば、テクストというものを本当に客観的に分析することなどあり得るのか――そうしたところまで問いは及ぶものであろう。しかしむしろ、そこにこそ、宗教的テクストの特異性があるのではないか。

 

 「語られた」ものの集積体としてのテクストを追いかけることには、もうひとつの問いがその根底にある。それは、死に別れた存在が語られることと、そのテクストがどう読まれていくのかという問いである。こうした営みは学術空間に留まらぬものであり、むしろそのテクストとの対話を重ねれば重ねるほど、読む者と「語られた」者との“距離”は近づいてもくるのである。最も親しかった肉親や仲間を喪ったとき、その存在をひとつの像として想起せしめるテクストは、単なる感傷ではない「体験」をもたらす。「語られた」者がテクストを通してこちらに向けてくる「呼び声」に応えるのが「読む」という行為なのだとすれば、それは死した存在と生ける存在とのつながりがまた新たに見出されていく営みとなり得るものでもあるだろう。

(いいじま たかよし・親鸞仏教センター嘱託研究員)

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亀裂のなかで生きること

アンジャリWEB版

神戸大学人文学研究科講師

齋藤 公太

(SAITO Kota)

 新型コロナウイルスの存在が国際ニュースの一角を占めるようになったのは、2019年の末頃だったろうか。それは当初遠い場所の出来事のように聞こえていたが、日本でも感染が広がり、人々の生活が一変するまで、さして長い時間はかからなかった。今や外出時にマスクをつけ、念入りに手指を消毒する生活にはすっかり慣れた。しかし、何か世界の位相がズレてしまったような居心地の悪さは、底流のように続いている。

 新型コロナウイルスとは一体何なのか。私たちはなぜこのウイルスに遭遇し、そしてどこへ向かっているのか。そこには何も意味がないのか。すべてが不明瞭なまま、とにかく日々を乗り越えるしかない。そんな感覚を抱いている人は、決して少なくないだろう。そしてこのような感覚は、10年前の東日本大震災の時にもあったことを思い出す。

 今回のパンデミックに限らず、自然災害や大きな事故は、普段私たちが世界を認識するために依拠している物語や象徴体系に亀裂を生じさせる。そして、 それらがいかに脆弱な根拠の上に成り立っていたかをあらわにする。そのため災害や事故が起こったあとには、医療や経済的支援などの現実的対処とは別に、出来事を再び物語や象徴体系のなかに組み込み、位置づけることが課題となる。

 だが今回のパンデミックの場合、このような受容過程が困難に直面しているように思われる。その理由の一つは、感染の拡大が長期にわたり、いまだ過去の出来事としえない点にあろう。また、感染防止と経済活動のいずれを優先するかという議論が常に繰り返されているように、パンデミックへの対応においても相矛盾する判断基準が対立し、明確な方針が見出せないことも、一つの理由だろう。

 歴史的な視点からいえば、前近代の日本において、このような出来事を解釈し、象徴的に意味づける上で、大きな役割を果たしたのは宗教だった。このほど刊行された朴炳道『近世日本の災害と宗教――呪術・終末・慰霊・象徴』(吉川弘文館、2021)は、徳川時代の日本人がいかに多様な宗教的象徴を用いて災害という出来事を受け止めようとしたかを教えてくれる。安政江戸地震の後に、地震の原因を地底の鯰(なまず)として描いた「鯰絵」はその代表例といえる。対照的に現代社会では、このような宗教的象徴による解釈は、個人や個別の集団においては可能であるかもしれないが、社会全体への広まりはもちえないだろう。なぜなら社会のなかで広く共有されうる宗教的象徴が、もはや存在しないからだ。

 振り返れば東日本大震災の時にも、同様の問題が存在していたといえるかもしれない。ただ当時は、今こそ「近代文明の転換点」、あるいは「日本の転換点」なのだ、という言説が語られることもあった(藤原聖子「大震災は〈神義論〉を引き起こしたか」『現代宗教2012』、2012)。そこではしばしば「文明」の傲慢さが批判され、「自然」に聴従して生きることが説かれた。ひるがえって今回のパンデミックも、森林伐採の拡大による野生動物との接触の増加が原因といわれており、自然破壊の一つの結果ととらえることができる。しかし10年前のように「自然」と「文明」の単純な二項対立に落とし込む言説は少ない。「文明」のもたらす高度な医療技術や情報技術が、今もし存在しなかったことを想像すれば、それも当然だろうか。

 実際には東日本大震災の時でさえも、その出来事は被災した当事者の人々にとって、到底「文明」と「自然」のような二分法で片づけられるものではなかっただろう。今回のパンデミックでは世界中のほぼすべての人々が何らかの形で影響を受けたために、傍観者とはなりえず、出来事の複雑さに直面せざるをえなかった。その点にも、このパンデミックをとらえがたいものにしている理由があるのかもしれない。

 しかし、もし現代においてもなお象徴的な意味付けの基盤となりうるものがあるとすれば、それはネーション(国民)という次元なのではないだろうか。ネーションは「想像の政治共同体」であるというベネディクト・アンダーソンの定義は有名だが、ネーションは単に想像的であるだけではなく、現代の人間が世界全体を想像するときの自明の枠組みとなっている。そしてその枠組みは、国民国家という現実の制度に裏付けられているがゆえに強固なのである。

 よくいわれるように、武漢で発生した新型コロナウイルスが世界中へとまたたくまに広がった背景には、国民国家を越境するグローバル化の進展がある。だがパンデミックへの対応がそれぞれの国家を中心としてなされているために、国民国家の枠組みの再強化が一部で進みつつあるように見える。水際対策のための入国制限は象徴的な例だ。たとえ人々が政府の施策を批判していたとしても、「国民」のためにより良い対策を求めること自体、ネーションと国民国家の枠組みを前提としているのだ 。

 他方、新型コロナウイルスが世界中へ広まって以来、それは時に「中国ウイルス」や「武漢ウイルス」と呼ばれ、中国人やアジア系の人々に対する深刻な差別と暴力も跡を絶たない。日本では感染が広まりはじめた当初、政府は「日本モデル」の成功を誇ったが、そうした目算の誤りがその後の対策の遅れをもたらした面は否めない。これらの例に共通しているのは、元来国籍をもたないウイルスの問題を、ナショナルな、あるいは人種的な象徴でイメージし、意味付けようとしていることだ。このような問題を解決する手がかりを見出すためには、象徴的秩序に対する人々の渇望や、それと結びついた国民国家の枠組みへと、まなざしを向ける必要があるだろう。

 いずれにせよ、このパンデミックもいつの日か収束する。そのときには国民による団結と克服の物語が語られるのかもしれない。だがパンデミックにより人生を大きく変えられた人々の痛みや呻きは、単一のわかりやすい物語や象徴へと昇華しうるものではない。そしてこのパンデミックは既存の社会を支える物語や象徴体系に亀裂を生じさせるとともに、それらによって覆い隠されていた人々のあいだの不平等や、社会システムの不合理、政治の機能不全をもあらわにしつつある。だとすれば、今必要なのはこの違和感のなかに留まり、ざわめきや不協和音へと耳を澄ませることなのかもしれない――現在とは異なる社会のありようを想像するために。

(さいとう こうた・神戸大学人文学研究科講師)
著書に『「神国」の正統論――『神皇正統記』受容の近世・近代』(ぺりかん社)。他論文多数。

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日常を永遠と。――浄土に呼び起こされる現実について

アンジャリWEB版

親鸞仏教センター嘱託研究員

中村 玲太

(NAKAMURA Ryota)

「もっと乱暴に、世の中の宙ぶらりんな物語を終わらせるべく襤褸の少女を派遣するというのはどうだろう。襤褸を着た少女がよたよたと歩いてきて空を見上げ「あ、流れ星」と呟くぐらいでもいいとも思う。世のありとあらゆる物語の中を渡り歩いてラストシーンを飾るというのは、大変に幸せな職業かもしれない」(高山羽根子「「了」という名の襤褸の少女」、『うどん キツネつきの』〔創元SF文庫〕所収)

 

 下に引っ張りすぎたTwitterが更新を渋っている。日常のネタ切れ。最初からそうしていればよいのだが、ようやく電子書籍に目を落とす。

 高山羽根子を読む。高山作品としては「母のいる島」「ビースト・ストランディング」が好みではある。奇想的な物語にあって細部が際立つリアルな描写、そこに抜群のユーモアが散りばめられている。この辺が読みやすい物語ではあるが、「オブジェクタム」「居た場所」のような、いびつな日常をウロウロさせ、消化不良が続き、なぜかいつまでも自分の中で生き続ける物語もある。これもまた魅力。

 

 もはや無意識的に「日常」と書いているが、過去に書いた自分の文章を読んでみても、「日常」や「生活」という言葉に高確率で出くわす。着実に「日常」が増えている。地に足つけた日常生活の重要性を、自分に言い聞かせるように書くのは、ダラダラと延々と続く日常の退屈さ、耐えられなさとの葛藤のようにも思う。

 高山は冒頭のエッセイ中に、物語を終わらせる行為の難しさを語っている。「とくに現実に近い物語であればあるほど、終わらせ方に困る。そもそも現実は終わらないものだから、物語の上で終わらせる時には違和感を法螺で注意深く塗り潰す作業のような行為が必要だと信じ、そのために手に余らせてしまう」と。現実は歯切れが悪く、どこまでもそうでありながら続く。

 

Δ

 

 日常と浄土。グダグダと延々と考えている問題だ。日常の延長が浄土なのだろうか。煩悩具足の生活を引き延ばした先が浄土ではないだろう。しかも、煩悩を本質とした生活を、自力の努力でその本質を変えることができないとすれば、我が身の想像の範疇を超えているとしか言いようがないはずだ。

 

 ここで考えるのは、浄土がこの世、穢土と隔絶しているとして、それをどう思考すべきか。穢土と浄土を並べて相対的に比較するのは、穢土も浄土も俯瞰して見る超越的視点である。果たしてこれは凡夫の範疇で成立する視点だろうか。

 しないのだと思う。この世界の否定形としてしか我々に現れ得ないのが浄土なのだと思うが、それはこの世界を超えた外側――にこちら側が立つ視点を常に奪う働きである。「今、ここでしかない」と有限性を自覚させる、外へと向かう視線を内側へとひっくり返す働きが「他力」と呼ばれる弥陀の本願力なのだと考えたい。

 

 しかし浄土教は、この世界はこの世界のままでよい、そのまま肯定されるのだ、という思想とは一線を画すものだ。それは外側から世界や〈いのち〉を丸ごと肯定する視点を剥奪するという形で、我々に現前し続けるのが浄土の働きなのだと思う。

 法然の直弟、西山義祖・證空は『散善義自筆鈔』巻一で、「具造十悪五逆、トライハ、生々世々ノ中ニ六道ニ輪廻シテ、造ラザル罪ナシ。愚痴迷惑ノ故ニ、スベテ是ヲ知ラズ。今仏願ノ不思議ナル事ヲ知ル時、無始已来ノ諸悪悉ク是ヲ悟ル事ヲ釈シ顕スナリ」(西叢二、187頁)と言う。無限の救済によって知らされる我が身は、あくまで「諸悪」、罪業を造り続けている身なのだ。それ以上ではない。ひとを傷つけ、自分を傷つけ、苦しみ呻く世界。ここにある自他の呻きの声に対して、何か超越的な視点で世界を肯定し、糊塗してしまうのではなく、悪や苦しみを「それをそれとして見る」のだ。しかし、それと同時に、人生を丸ごと否定する視点からも程遠い、いや断絶している。

 

 無限の救済に触れる我々の視点は、この世界や〈いのち〉の全肯定でも全否定でもなく、そうした視点に立ち得ない有限なる在り方の自覚ではないだろうか。我々にできるのはせめて部分肯定だけなのだと。なぜ部分肯定ではダメなのか。本来、こう問われるべきものなのかもしれない。

 いずれにせよ、無限の救済に触れる我々の現実は単なる現実ではない、外側のなさと同居した現実であり、それは無限の浄土に裏打ちされた現実なのである。

 

Δ

 

 5才のよつばの日常を描く漫画、あずまきよひこ『よつばと!』(電撃コミックス)15巻を読み直しながら、『親鸞仏教センター通信』第77号(2021年6月発行)の「あとがき」の校正をしている。自分で執筆したものだが、そこには相も変わらず「日常」と書いている。「帰るべき日常などというものは本来ないのかもしれない。日常は今までに想いを馳せ、新しさに驚嘆しながらちょっとずつ作られていていく――作っていかなければならないのだろう」と。

 全肯定/全否定のケジメをつけられない歯切れの悪い私の日常は、常に点検が必要だし、これはまあまあいい経験をしたと喜び、拭えぬ退屈さからSNSに逃避しては現実に巻き戻される。

 

 本来的に帰るべき、という形容がし難いのが日常なら、それを超えた浄土こそ帰るべき存在の本来的世界だとも言えようか。帰るべき世界からの呼び声に耳を傾けて、ふと現実に巻き戻されるだけではなく、そもそも我々にとっての現実とは何かを延々と考えていくべきなのだろう。

 

※本稿は、第2回「現代と親鸞」公開シンポジウム(テーマ:生まれることを肯定/否定できるのか?――反出生主義をめぐる問い)の問題提起を受けるものである。報告記事参照のこと。

(なかむら りょうた・親鸞仏教センター嘱託研究員)

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忘却を経てなお――森﨑東の言葉に寄せて

アンジャリWEB版

親鸞仏教センター研究員

東  真行

(AZUMA Shingyo)

 言葉はあくまで伝えたいことの「入れ物」なのだと、ある音楽家はいう。寺尾紗穂氏が述べるように「歌」と「訴え」が相通じているとして、こんな言い換えは可能だろうか。訴えの込められた入れ物が歌だと。

 切実な思いだからこそ、音に乗せるのか。親鸞もたくさんの和讃を遺している。それらは黙読される文字である以上に、読誦される言葉として今なお息づいている。読む者のみならず、勤行の会座を共にする聴聞者の心身をも文字通り震わせてきた。

 昨年の7月になくなった映画監督、森崎東のことをふと連想する。卓越した感性で引用される数多の「歌」と、観念的とも評される直截的な「訴え」とが、森崎作品では同居している。

 藤井仁子編『森崎東党宣言』(インスクリプト、2013年)には使用楽曲が約20頁にわたってリスト化されているほどで、本人のエッセイ集『頭は一つずつ配給されている』(パピルスあい、2004年)でもよく「歌」、すなわち往時の流行歌から軍歌、民謡、都々逸、漢詩、革命歌から校歌に至るまでが言及される。森崎は自身の人生を「片端から憶えては忘れてきた歌の総和である」(『頭は一つずつ配給されている』、374頁)と述懐するが、ここに「忘却」という晩年の課題が示唆されてもいるのだろう。

 その「訴え」については、敗戦の翌日に自殺した兄、湊に反発するゆえの「左傾傾向」(『森崎東党宣言』、186頁)を告白する通り、天皇制や原子力発電をたびたび烈しく批判した。

 また、森崎は「身」にまなざしを注いだ作家でもあった。『田舎刑事 まぼろしの特攻隊』(1979年)や『ペコロスの母に会いに行く』(2013年)では深刻な場面であればこそ、殊更に主人公たちの生身の存在感を強調している。渥美清演じる刑事の水虫、岩松了演じる漫画家の禿頭に執拗なまでに焦点を当てるという演出がそれであり、私などは何というか呆然とするばかりだ。

 

「精神」と聞いた途端に何やら心に重い疲れを感じる戦中派にとって、霊にしろ、心にしろ、魂にしろ、いわゆる精神論そのものが耐えがたくカッタルイのである。

(『頭は一つずつ配給されている』、383頁)

 

 鈴木大拙のいう「霊性」が果たして「いわゆる精神論」であるかはともかく、大拙の表現に首肯し得なかったと記す森崎である。だからといって身体にのみこだわったわけではない。「日本精神」の鍛錬と称して毎日数百回もの腕立て伏せを断行した兄とは逆の方向で、つまり何らかの強固なイメージに肉体を追いつかせようとするのではなく、むしろ老いていく身体のように精神を捉えること。この身は老病死に遭遇しつつも、まだ何とか生きて血を通わせている。同様に老いる精神にも、しぶとく生々しい肌ざわりを見出し得るのではないか。そのように「身」をみる森崎にとって、心身は老病死の現場であると同時に根源的な生をまざまざと感じる場でもあったのではないか。

 晩年の森崎が「認知症」と向き合っていた様子は、ETV特集『記憶は愛である~森崎東・忘却と闘う映画監督~』(2013年)に詳しい。記憶の総和が人生ならば、その喪失過程は生きながらの死か。森崎は自身にその問いを課すのだ。

 遺作となった『ペコロスの母に会いに行く』は、ある老女(演じるは赤木春恵)の「認知症」を物語の主軸に据えるという、みずからの苦悩と真正面から対峙する内容である。物語のクライマックスでは、どんな苦難があろうと、大切な記憶を思い起こす力が人間の「身」には生じるのだと高らかに宣言される。どこまでも深く忘れるということがあったうえで、それでも記憶はよみがえるという出来事が描かれており、ここには自身への応答があるのだろう。森崎は次のようにも述べていた。

 

私は最近ヤタラに忘れっぽくなった自分を死につつある人とは思いません。忘却は死でなく生の普遍現象であって、人は忘却と同時に回想という記憶の再生によって常に新しい生の体験をする。むしろ長い忘却の時間を経ることで、忘れていた体験の真実の意味を知ることすらある。

(『頭は一つずつ配給されている』、379頁)

 

 この稿を書きながら以前お聞きした、ある問いが思い出される。真宗大谷派の僧、暁烏敏から仏教を聞いた岡本禮子(法名は釋暁禮)という方の訴えである。「自分は暁烏先生に出会って、親鸞聖人の教えを聞いて、念仏さえあればどんな人生であっても生きていけると思ってきた。ところが最近は、あれだけ感動した先生の言葉が思い出せない。ときどき娘の名前もわからなくなる。ひょっとするとお念仏も出なくなるかもしれない。それでも私は救われるのか」と(加来雄之『真宗の死生観』〔大和仏教センター、2018年〕を参照)。どんなに深く教えと出会っておられたのだろう。出会ってさえいない者にとっては忘れるどころではない。

 森崎は、忘却の時間に裏打ちされた回想では、もともとの経験にそなわる「真実の意味」があらわになる場合さえあると記していた。不可避の忘却を経てなお、常に新鮮に真実を思い起こし得るとは不可思議である。この力には、いかなる表現がふさわしいのだろう。森崎は、あるイギリスの劇作家の「記憶は愛である」(『頭は一つずつ配給されている』、75頁)という言葉を紹介している。あるいは「憶念はすなわちこれ真実の一心なり」(金子大榮校訂『教行信証』、岩波文庫、176頁)と親鸞が記したとき、どんな実感がその胸中に去来していただろうか。

(あずま しんぎょう・親鸞仏教センター研究員)

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