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研究活動報告
「正信念仏偈」研究会
 2021年11月1日、「正信念仏偈」研究会と源信『一乗要決』研究会の合同で外部講師招聘研究会を開催し、立川武蔵氏をお招きした。立川氏の近著『仏教史』(全2巻、西日本出版社)は、浄土仏教について『無量寿経』から真宗大谷派の近代教学に至るまで広く取りあげ、氏なりの仏教史観に位置付けて論じる。今回はその視座から、阿弥陀仏の浄土とは私たちにとっていかなる意を発揮するのか、問題提起を頂戴した。以下は、その抄要である。(親鸞仏教センター研究員 東 真行)

生命への意味付けと阿弥陀仏

国立民族学博物館名誉教授 立川 武蔵 氏
◆「個」が問われた時代
 インドにおいて、紀元前1500年から紀元前500年頃までの時代は、ヴェーダの宗教の時代です。ヴェーダ聖典が編纂され、神々を讃える職能を有する者たちが婆羅門という階級を形成していきました。
 この頃、都市に生活する人々に精神的な余裕が出てきました。「死とは何か」「どうすれば精神の安寧に達することができるのか」というようなことを、人々は考え始めたのです。私たちを私たちたらしめているもの——それを仮に「魂」と表現しましょう。この時代に、いわば、個々人の「魂」に関する疑問が生じたのです。この疑問にヴェーダの宗教は十分に対応できませんでした。このような状況下で仏教が生まれたのです。

 紀元前600年から紀元前後頃までのユーラシア世界には、大きな精神的変化が起きました。哲学者のカール・ヤスパースは紀元前800年から紀元前200年頃までを「枢軸の時代」と呼び、ゴータマ・ブッダ、孔子、ソクラテスといった人物たちを思想史上に位置付けました。その後のイエスを含めて、すべて「個」を問題として扱っています。釈迦族の太子であったゴータマ・ブッダの問題は、いかに老病死と向き合うかということでした。言うまでもなく、老病死は個々人に生じます。
◆仏教史の中の阿弥陀仏
 阿弥陀仏信仰は紀元前後に生まれました。この信仰のあり方は、従来の仏説とはかなり異なっています。仏陀観が展開・変化しているのです。同じ頃、ヒンドゥー教においても、人格神に自身の行く末を託すという信仰が現れてきます。それまでのインドにはなかった信仰です。西アジアからの影響も考えられます。
 しかし、重要なのは、単に異なる信仰形態を仏教が取り入れたというわけではないということです。阿弥陀仏信仰は仏教の一形態なのです。むしろ浄土教などを含むゆえに、仏教は内容の豊かなものになったのです。

 ゴータマ・ブッダは「私は浄土へ往生する」とは言わず、「不放逸に努めよ」と遺言したと伝えられています。しかし数百年を経て、「阿弥陀仏の名を称えよ」と説く仏教が現れてきたのです。ゴータマ・ブッダの求道と阿弥陀仏の救済と、このように二つのあり方が仏教にあります。それは仏教が為した輝かしい綜合であって、矛盾ではありません。
 大乗の仏教者たちは次のように考えたのでしょう。「釈迦族の太子として生まれ、覚者となられた方の肉体は消滅した。しかし、仏陀は今もどこかで説法されているに違いない。あるいは、姿を現して私たちを導いてくださるのではないか」と。こうして、大乗仏教の展開に伴い、それまでとは異なる新しい仏陀観が生まれたのです。

 ゴータマ・ブッダは悟りの後、説法の生涯を過ごされました。その生涯と同様に、阿弥陀仏は世界を超えつつ、この世界にはたらきかける仏であると言えるでしょう。
 しかし、阿弥陀仏にはゴータマ・ブッダの生涯の終わりである涅槃が存在しません。仏陀が悟った教法は、その死後も語り続けられますが、ゴータマ・ブッダが人々を浄土に摂取するわけではありません。阿弥陀仏はすでに浄土におられて、般涅槃することなく、この世界を照らし続けるのです。それゆえに阿弥陀仏は人々の「魂」を浄土に迎えることが可能なのです。
◆寂静の時としての浄土
 さて、ここから私自身が阿弥陀仏の浄土をいかに受けとめているかをお話しいたします。私は阿弥陀仏とは、現生を超越するところの「死」を課題として説かれた仏と考えています。私たちをこの世界から超越させようとする仏です。この仏が人々を導く浄土は、私たちの住む娑婆世界のはるか彼方にあると経典は述べています。浄土は、生者が留まることのできない死者の国土であり、同時にその「死」が聖なるものとして意味付けされる場でもあると私は考えています。
 私たちはすでに命を終えた方々を思い出しながら、現在の行為を考え、そして未来の行為を決めます。過去・現在・未来における他者との関わり、それが人間の歴史の本質でしょう。私たちは親しかった者たちが生きた時間の重みを考えます。その思索は、自然の中で生まれて消滅していくという生命観とは別のものです。

 自然科学における生命観においては、生きる目的などを考慮する必要がありません。これと異なり、個々人の生命活動に何らかの意味付けを求める、そのような生命観があります。それは文学、哲学、宗教などに見られる思索です。
 このような生命への意味付けは他者との関係においてはじめて可能です。自己の生命という見方も他者の存在を前提としています。しかし、他者を思うことは実に困難です。自己愛に変質する危うさを常に有しています。まして、命を終えた他者に思いを致すことには、より一層の困難が伴います。

 命を終えた方の生涯について私たちが思いを寄せる時、最終的には「死」という超越性の前に立ち尽くす以外にないようです。いかに死者に話しかけようとも答えは返ってきません。答えが返ってこないということが死の一つの意味なのです。
 時は戻りません。故人の生前の活動をいくら並べたところで、それは命を終えた方の過去の歩みであり、それによって死者が蘇ることはありません。しかし、確かなこともあります。たとえば、私にとって、すでに命を終えた妻や父母と、かつて共に時を過ごした喜び・感謝は今なお確かなことです。この喜びが他者と生きたことの意味なのだと、私は思うようになりました。

 他者の「死」、さらには自分自身の「死」に対して私たちはどう向き合うのでしょうか。大乗仏教が用意した答えの一つは阿弥陀仏の信仰です。生命は誕生以来、死に向かって走っています。許された時間が尽きた時、私たちは死を迎えます。私には、阿弥陀仏の本質は生と死を共に包み込んでいることだと思えます。阿弥陀仏は「死」という超越をも超えているのです。「死」を超越させ、私たちの「魂」を救うために阿弥陀仏が説かれたのかもしれません。
 阿弥陀仏の本質は光明といわれます。大乗仏教において悟りは光明であるとされてきました。「死」は暗闇ではなく、光明の中にあるのではないでしょうか。「正信偈」では、阿弥陀仏の十二の光が讃嘆されています。「普放無量無辺光 無碍無対光炎王 清浄歓喜智慧光 不断難思無称光 超日月光照塵刹 一切群生蒙光照」(東本願寺出版『真宗聖典』、204頁)と。他者も自己も、その存在も時間も、私たちの生前も死後も共にかの仏の光明の中にあるのかもしれません。

 私たちにとって超越とは、この世界からの旅立ちであり、すべての人が経験する「死」にほかなりません。生を超える瞬間に開かれる寂静へと赴く。その寂静の時間を私は浄土と呼びたいと思います。
研究会を終えて
 後半の質疑応答の時間では、講義中の「喜び・感謝」について、あるいは阿弥陀仏の超越性について、さらには仏教において「生命」はいかに捉え得るのか、といった様々な観点からの議論があった。また、立川氏は近著『仏教史』(第2巻、西日本出版社、2021年)において、「近・現代の浄土教」という節を設け、清沢満之、曽我量深、金子大榮、安田理深を取り上げて批判的に検証している。その内容について、事前の学習会で共有していたため、立川氏による清沢満之観、安田理深観についても議論がなされた。

 おおまかに言えば、仏教者はいかに社会と関係するか、如来と自己との関係において他者の存在は等閑視されていないか、という問題が氏によって提起されている。そういった課題に対して、私たちはいかに受けとめ、応答していくことができるだろうか。そのような立川氏からの問いかけに向き合うひと時を頂戴した。(東)
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