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インタビュー
中世の世界観と死生観
  ──冥・顕と死後再会──



 中世人の世界像を考えるうえで、「冥(みょう)」と「顕」の世界、すなわち見えない/見える存在の重要性が指摘されている。今日のわれわれは、見える世界にばかりとらわれがちであるが、見えない存在──中世においてはこれを「冥衆(みょうしゅ)」と呼ぶ──の存在感が肥大化していくのが中世の世界観の特徴だと言える。こうした冥/顕の世界観を知ることは、中世の思想を知るうえで基礎的な視座となるが、同時に見えない存在と対話する人間の精神世界を知るうえでも現代に訴えるものがある。
 今回は、特に冥/顕の世界観が中世における死生観、特に死の問題に与えた影響について、『中世の精神世界─死と救済』(人文書院)や編著『冥顕論─日本人の精神史─』(法蔵館)などで中世の精神世界を長年論じてきた池見澄隆氏にお話をうかがった。


 池見 澄隆 氏(元佛教大学仏教学部教授)

聞き手 中村 玲太(親鸞仏教センター研究員)





──池見先生は、中世の精神世界の切り口として「冥顕論」について論じられています。

 「冥顕論」について少し説明しますと、こちらから向こうは見えないけれど、向こうからこちらは見られている、という眼差しの齟齬(そご)性、世界認識の非対称性が中世の世界観を考えるうえで重要です。慈円の『愚管抄(ぐかんしょう)』は冥/顕を重視した歴史書ですが、人間の眼に見えない「冥衆」の存在が種々に論じられ、その力(冥利・冥罰)が重視されています。人間の眼には見えないけれども、見られており、しかも見られていることを実感している、一方的な被透視感覚が、私の強調したいところです。明るい世界(顕)から暗い世界(冥)は見えませんが、暗い世界から明るい世界はお見透しです。この状況は不安の極致、心細い境地におかれるわけです。

 この世界観を如実に表すものとして、例えば『餓鬼草子』が挙げられます。そのなかの「伺嬰児便餓鬼(しえいじべんがき)」には、背後から赤子の糞便を食らおうと現れる餓鬼が描かています。その餓鬼の姿に誰も気づきません。しかし、餓鬼からは顕界が「見える」、丸見えという構図になっています。このような構図はほかにもあります。

 中世で最も肥大化した世界観というのが、われわれの世界というものは向こう側のもっと大きな世界に圧倒されている、のしかかられている、というような世界観で、しかもこちら側からは見えないのに、向こう側からは見られている。神々であれ、仏菩薩であれ、さらには死者、怨霊(おんりょう)、魑魅魍魎(ちみもうりょう)など、こういったものから見られている。これが冥/顕という世界観です。


──「冥顕論」とは、ご説明いただいたとおり、いわば一つの世界観とも言うべきものです。一方で、中世の精神世界についてアプローチするなか、死と救済の問題も一つの切り口として論じられているかと思います。冥/顕の世界が中世の人に大きな影響を与えているということですが、死生観にはどのような影響を与えているのでしょうか。

 他界観と死生観の関係は、死後の世界を他界とよぶことに端的にみられます。
 では、冥顕の話と死生観がどう関係するのか、ということですが、その前に死生観の特質性を考える必要もあろうかと思います。死の歴史というのは、千年の長きにわたってようやく変化が見えてくるものです。これが政治史などとは違うところです。政治は明確な画期、エポックが小刻みに刻まれます。だけど心性史は五百年、千年くらいないと特色がわからないくらい緩やかに流れます。幕府が滅びたから死生観が変わる、ということも基本的にはないでしょう。第二次世界大戦前後を見ても死生観自体はあまり変わっていない、という見方もできるのです。私はこのような立場で考えたいと思います。

 また、死生感覚を見ていくときに、学識ある聖職者と、仮に一般民衆と言いますか、それらとの共通基盤を見いだす必要がある(フィリップ・アリエス)。法然、親鸞、日蓮などの祖師と言ったような人たちと大衆とのどこに共通な要素があるのか。彼らの著作のなかでも、書簡、あるいはそれに準ずるような法語の類は、教学的理念とは異なる私的情念があふれています。私的情念の部分に何か死生観のうえで人々が共有する基盤があるのではないか、そう思うのです。

 さて、死生観ないし死の問題は今まで個人の死、個体の消滅という点でのみ、語られました。しかし、個人の死は、実は人間関係の断絶を意味します。したがって、古来、死という悲苦を私的情念のレベルで根本的に解決する道は、人間関係の再生に求められました。

 そこで、死生観を考えるうえで注目したいのが「死後再会」ということです。死後において再会を願う思想です。死後再会というのは、古くは往生伝や源氏物語、平家物語。やがて説教浄瑠璃(せっきょうじょうるり)などに言われます。それに先だって言うべきことは、法然や親鸞、日蓮などの祖師たちにも死後再会の願望が明確に見られるということです。

 有縁の死者(夫婦・愛人・親子・友人)との再会願望です。それは、一人きりの死ではない、死後の共生を言うものですが、これは近代的な「個」の救済でもなく、「共同体」の救済でもなく、人間関係の救済──私はこれを「人倫の救済」と言います──への欲求が死後再会願望です。


──法然等は具体的にはどのように「死後再会」について述べているのでしょうか。

法然は、「浄土再会」というような仏教用語を用いて死後再会を親しい者に解き勧めます。「正如房(しょうにょぼう)へつかはす御返事」で、病床の正如房に対して、


ツイニ一仏浄土ニマイリアヒマイラセ候ハムコトハ、ウタガヒナクオボエ候。  カシコニテマタムトオボシメスベク候。
正如房という特定具体の女性に、向こうで会いましょう、それができるのだからそれを信じなさい、ということを強調しています。法然の私的情念がさく裂しているのです。浄土観で法然を批判した日蓮も、私的情念のレベルでは法然同様、信徒への書簡で死後再会を述べています。

 また、親鸞は、これ自体が近代的解釈の一側面なのかもしれませんが、「現生正定聚(しょうじょうじゅ)」、現生での救済に言及し、臨終待つことなしとおっしゃったことが強調されますが、一方、親鸞が手紙のなかで、先立った人に対して、

かならずかならずさきだちてまたせ給候覧。かならずかならずまいりあふべく候へば、申におよばず候。(『御消息拾遺』)
と浄土での再会を強調しています。法然、親鸞、日蓮、一遍など教学理念上での浄土観で相違するところも少なからずありますが、こうした「死後再会」というものが共通して言われています。教学的な浄土観で違いはありますが、私的情念では共通の情念としてとらえる必要があるのではないでしょうか。私的情念を吐露した文言のなかに、死後再会という共通のワードが明らかにみられます。

(次ページへ続く)

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