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研究活動報告
聖典の試訳:『歎異抄』研究会
 第十七条・第十八条は、「信仰に結論なし」という文脈のもとに言葉をつむいでいる。浄土の一歩手前にある「辺地(へんじ)」という信仰的陥穽(かんせい)に堕(お)ちたとしても、そこが行き止まりではないという。そこは疑いの罪をつぐなう場所であり、「結論」ではないと教える。
 一方、第十八条の「布施」の問題もそうだ。どれほど布施をしようとも、〈信心〉がなければ無意味だという。布施をすることで信仰を確かなものとしようとするのは、ギブ・アンド・テークの論理である。布施の多少を信仰の結論にしてはならないという。ところが人間は、どうしても「結論」をつかみたがる。実は、それがあらゆる陥穽を生み出す因子である。『歎異抄』には、人間の出した「結論」を自己の根拠に据(す)えてはならないという徹底批判が流れている。(元嘱託研究員・武田定光)
『歎異抄』試訳 <第十七条> >> PDF版はこちら
原文
 辺地(へんじ)(1)の往生をとぐるひと、ついには地獄(じごく)におつべしということ。
現代語訳
 辺地に生まれたひとは、ついには地獄に堕(お)ちるに違いないということについて。
 この条、いずれの証文にみえそうろうぞや。学生(がくしょう)だつるひとのなかに、いいいだ(言出)さるることにてそうろうなるこそ、あさましくそうらえ。
 この主張は、どのような経釈に根拠があるのだろうか。学者だと言われているひとびとのなかから言い出されたそうだが、まったく歎(なげ)かわしいことである。
 経論(きょうろん)聖教(しょうぎょう)をば、いかようにみなされてそうろうやらん。信心かけたる行者は、本願をうたがうによりて、辺地(へんじ)に生じて、うたがいのつみをつぐのいてのち、報土のさとりをひらくとこそ、うけたまわりそうらえ。
 経典や論釈などの聖教(しょうぎょう)を、どのように考えているのだろうか。真実信心の欠けた念仏者は、弥陀の本願を疑うことによって、辺地に生まれ、疑いの罪を償(つぐな)った後、真実報土のさとりを開くのだと承(うけたまわ)っている。
 信心の行者すくなきゆえに、化土(けど)(2)におおくすすめいれられそうろうを、ついにむなしくなるべしとそうろうなるこそ、如来(にょらい)に虚妄(こもう)をもうしつけまいらせられそうろうなれ。
 真実信心の念仏者が少ないために、如来は人間が実感できるようなかたちで「浄土」への往生を多く勧められているのに、「化土(辺地)」へ往生することは無意味だなどと主張することは、如来に嘘言の罪を着せようとするおつもりなのか。
(原文は、東本願寺発行の『真宗聖典』を参照した)
語注
(1) 【辺地】方便化土(けど)の別名。第十一条の語註(【辺地懈慢疑城胎宮】『通信』第十二号)並びに第十六条の語註(【辺地】『通信』第二十号)を参照。
(2) 【化土】方便化土の略。衆生を導くために仮(かり)に開かれた浄土[〈第十一条〉の語註(【辺地懈慢疑城胎宮】『通信』第十二号)を参照]。
『歎異抄』試訳 <第十八条>
原文
 仏法のかたに、施入物(せにゅうもつ)の多少にしたがいて、大小仏になるべしということ。
現代語訳
 寺院や僧侶へ差し出す金品の額に応じて、大きな仏ともなり、小さな仏ともなると主張することについて。
 この条、不可説なり、不可説なり。比興(ひきょう)のことなり。まず仏に大小の分量をさだめんことあるべからずそうろうや。かの安養(あんにょう)浄土(じょうど)の教主の御身量(ごしんりょう)をとかれてそうろうも、それは方便報身(ほうべんほうじん)(1)のかたちなり。
 このような主張は、もってのほかであり、卑劣なことである。まず、人間が仏の大小を決めることなどあってはならないことではないか。阿弥陀如来の身体の大きさが経典に説かれてはいるが、それは人間が感じられる形で譬喩(ひゆ)的に表した姿なのである。
 法性(ほっしょう)のさとりをひらいて、長短方円のかたちにもあらず、青(しょう)黄(おう)赤(しゃく)白(びゃく)黒(こく)のいろをもはなれなば、なにをもってか大小をさだむべきや。
 真実のさとりを開いた仏は、長い、短い、四角い、円いという形態や、青・黄・赤・白・黒という色彩をももたないのであるから、どうしてその大小を決定できようか。
 念仏もうすに化仏(けぶつ)をみたてまつるということのそうろうなるこそ、「大念には大仏をみ、小念には小仏をみる」(大集経意)(2)といえるが、もしこのことわりなんどにばし、ひきかけられそうろうやらん。
 念仏すると、仏の姿を観みられるということがあるが、「大きな声で称えれば大きな仏が観られ、小声で称えれば小さな仏が観られる」と経典に説かれている。この経典にこじつけて主張されているのであろうか。
 かつはまた檀波羅蜜(だんはらみつ)の行(3)ともいいつべし。
 さらに、このことはまた布施行を主張しているということができる。
 いかにたからものを仏前にもなげ、師匠(ししょう)にもほどこすとも、信心かけなば、その詮(せん)なし。一紙(いっし)半銭(はんせん)も、仏法のかたにいれずとも、他力にこころをなげて信心ふかくは、それこそ願の本意にてそうらわめ。
 どれほど財宝を仏前に供え、師匠に施したとしても、信心が欠けていれば、まったく無意味なことである。たとえ紙一枚、銭半銭を差し出さなくとも、他力にすべてをまかせ、信心が深ければ、それこそ阿弥陀の本願のこころに叶かなうことである。
 すべて仏法にことをよせて、世間の欲心もあるゆえに、同朋(どうぼう)をいいおどさるるにや。
 総じて仏法にことを寄せて、俗世の欲望があるものだから、このように共に念仏の教えに生きるひとびとをおびやかすのであろうか。
(原文は、東本願寺発行の『真宗聖典』を参照した)
語注
(1) 【方便報身】ここでは、方便化身と同じ意味か。例えば、『観無量寿経』(第九「真身観」)には、「無量寿仏(むりょうじゅぶつ)の身(しん)は百千万億の夜摩天閻浮檀金色(やまてんえんぶだんこんじき)のごとし。仏身の高さ、六十万億那由他(なゆた)恒河沙由旬(ごうがしゃゆじゅん)なり」とある。
(2) 【「大念には大仏をみ、小念には小仏をみる」(大集経意)】『大正新脩大蔵経』第十三巻所収。親鸞は、『教行信証』「化身土巻」(『真宗聖典』三七一頁)に引用している。
(3) 【檀波羅蜜の行】六波羅蜜(ろっぱらみつ)(一、布施(ふせ) 二、持戒(じかい) 三、忍辱(にんにく) 四、精進(しょうじん) 五、禅定(ぜんじょう) 六、智慧(ちえ))の行(ぎょう)のひとつで、布施行のこと。檀とはダーナ=施すこと。波羅蜜とはパーラミター=菩薩の実践行、仏に成なるための行。
(訳・語註:親鸞仏教センター)
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