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研究活動報告
聖典の試訳:『歎異抄』研究会
 第十五条は、信仰の目覚めを「過去形」で受け取ることの間違いを批判していく。
 親鸞の信仰は、〈いま〉の救済である。決して過去形で受けとめられない。もし、過去形で「救われた」とか「さとった」と語れば間違いになる。しかし、「未だ救われていない」と語っても間違いだろう。「あの世」にいってからさとるということになると、理想主義の信仰に墮す。さらに「現在、救われつつある」と語って現在を措定(そてい)するならば、それも間違いであろう。悲しいかな、人間には純粋な「現在」はないからだ。あるのは「過去」だけである。
 人間が「わかった」とか「感じた」といえる時間は、すぐに「過去」の領域に入ってしまう。純粋な〈いま〉を知っているのは如来だけである。この〈いま〉に打ちのめされるところにしか親鸞の信仰は成り立たない。(武田定光)
『歎異抄』試訳 <第十五条> >> PDF版はこちら
原文
 煩悩(ぼんのう)具足(ぐそく)の身をもって、すでにさとりをひらくということ。
現代語訳
 「信心を得たならば、あらゆる煩悩を備えた身のままで、さとりを開くことができる」と主張することについて。
 この条、もってのほかのことにそうろう。即身成仏(そくしんじょうぶつ)は真言(しんごん)秘教(ひきょう)の本意、三密(さんみつ)行業(ぎょうごう)の証果(しょうか)(1)なり。六根清浄(ろっこんしょうじょう)はまた法華(ほっけ)一乗(いちじょう)の所説、四安楽(しあんらく)の行(2)の感徳なり。
 この主張は、もってのほかのことである。即身成仏(この身のままで仏に成ること)という教えは真言密教の根本義であり、三密行業の証果(身心で大日(だいにち)如来を観じて得た悟り)である。六根清浄(人間の身心が清らかになった状態)という教えは、法華一乗(天台宗の教義のこと・『法華経』に依る大乗の教え)の説くところであり、四安楽の行(自己の身心と他のひとを安らかにするための修行)によって得られる功徳である。
 これみな難行(なんぎょう)上根(じょうこん)のつとめ、観念(かんねん)成就(じょうじゅ)のさとりなり。
 これらはみな、特に秀でた能力によって行ずることのできる難しい修行であり、精神統一して仏、菩薩をイメージすることにより成就するさとりである。
 来生(らいしょう)の開覚は他力浄土の宗旨(しゅうし)、信心決定(しんじんけつじょう)の道(どう)なるがゆえなり。
 それに対して、人間の時間意識を破って未来から開かれてくるさとりは、絶対他力を根本義とした浄土真宗の教えである。すなわち、いま、ここで本願力の信心に身も心も定まる道だからである。
 これまた易行(いぎょう)下根(げこん)のつとめ、不簡善悪(ふけんぜんあく)の法なり。
 これこそ、まったく人間の能力や努力を必要としない普遍的な行であり、善人や悪人という相対的な意味づけや人間の小さな努力を救いの条件とはしない教えである。
 おおよそ、今生(こんじょう)においては、煩悩悪障(ぼんのうあくしょう)を断ぜんこと、きわめてありがたきあいだ、真言(しんごん)・法華(ほっけ)を行ずる浄侶(じょうりょ)、なおもて順次生(じゅんししょう)のさとりをいのる。
 だいたい、いのちのある間は、欲望や怒り、罪の意識を断ち切ることは、まったく困難であるから、真言や法華の行者ですら、次の生でさとりを開くことを祈るのである。
 いかにいわんや、戒行恵解(かいぎょうえげ)ともになしといえども、弥陀(みだ)の願船に乗じて、生死(しょうじ)の苦海をわたり、報土のきしにつきぬるものならば、煩悩(ぼんのう)の黒雲はやくはれ、法性(ほっしょう)の覚月(かくげつ)すみやかにあらわれて、尽十方(じんじっぽう)の無碍(むげ)の光明に一味にして、一切の衆生(しゅじょう)を利益(りやく)せんときにこそ、さとりにてはそうらえ。
 まして、私たちのように戒律や修行や知恵のないものが、この世で「さとり」を開くことなどないのである。しかし、阿弥陀の本願の船に乗って、迷いや罪で満ち満ちた苦海を渡り、浄土の岸に到着したならば、黒雲のような欲望や怒りの感情が晴れ、たちまちに真実が月明かりのように輝き、あらゆるところを照らす阿弥陀の光とひとつになって、あらゆる人びとを救うときにこそ、「さとり」とは表現するのである。
 この身をもってさとりをひらくとそうろうなるひとは、釈尊のごとく、種種の応化(おうけ)の身(しん)をも現じ、三十二相・八十随形好(ずいぎょうこう)(3)をも具足して、説法利益(せっぽうりやく)そうろうにや。これをこそ、今生(こんじょう)にさとりをひらく本ほんとはもうしそうらえ。
 この身をもったままでさとりをひらくと言うひとは、お釈迦様のように、さまざまな姿をとって現れ、三十二相・八十随形好という瑞相(ずいそう)を具え、法を説き、人びとを救いとろうとでもいうのだろうか。こういう基準を満たしてこそ、この世で「さとり」を開くと言いうるのであろう。
 『和讃(わさん)』にいわく「金剛堅固(こんごうけんご)の信心の さだまるときをまちえてぞ 弥陀(みだ)の心光摂護(しんこうしょうご)して ながく生死(しょうじ)をへだてける」(善導讃)とはそうらえば、信心のさだまるときに、ひとたび摂取(せっしゅ)してすてたまわざれば、六道に輪回(りんね)すべからず。しかればながく生死をばへだてそうろうぞかし。
 親鸞聖人の『和讃』には、「金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ 弥陀の心光摂護して ながく生死をへだてける」(決して壊れることのない信心が定まる、そのとき、阿弥陀如来の光に摂め取られ、永遠に迷いのいのちを超えたのである〈善導大師を讃嘆した和讃〉)とある。これは、信心が決定したとき、二度と捨てることのない阿弥陀の救いに摂め取られるならば、六道という迷いの生を繰り返すことはない。そうすれば、永遠に迷いの生活を超越することができるのである。
 かくのごとくしるを、さとるとはいいまぎらかすべきや。あわれにそうろうをや。「浄土真宗(じょうどしんしゅう)には、今生(こんじょう)に本願を信じて、かの土(ど)にしてさとりをばひらくとならいそうろうぞ」とこそ、故聖人のおおせにはそうらいしか。
 このように受け止めることを、「さとる」というのである。混乱してはならない。まったく哀れなことである。「浄土真宗の教えは、いま、阿弥陀の本願の教えを信じ、彼かの土(次の瞬間)でさとりを開く」と、いまは亡き、師匠・親鸞は仰せられたのである。
(原文は、東本願寺発行の『真宗聖典』を参照した)
語注
(1) 【三密行業の証果】衆生の三密(身〈身密>・口〈口密>・意〈意密〉)と大日如来の三密とが、真言密教の修行により相応して仏果を証すること。
(2) 【四安楽の行】『法華経』に説かれる一、身安楽行 二、口安楽行 三、意安楽行 四、誓願安楽行のこと。すなわち、衆生の身・口・意の三業についてのあやまちをはなれることと、衆生を教化するための誓いをたてること。六根清浄は、この四行によって得ることができる。
(3) 【三十二相・八十随形好】仏陀(釈尊)の身体的特徴。外見上、身体に現れた三十二と、さらに詳細な八十の特徴。
(訳・語註:親鸞仏教センター)
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