親鸞仏教センター
お問い合わせ
 
「現代を生きる人々」と対話するために
HOME親鸞仏教センター概要アクセスサイトマップ
濁浪清風今との出会い研究活動報告出版物紹介講座案内研究員一覧
 HOME > 研究活動報告 > 聖典の試訳:『歎異抄』研究会
研究活動報告
聖典の試訳:『歎異抄』研究会
 第十四条のテーマは「滅罪(めつざい)」である。罪をいかにして滅却(めっきゃく)するかという人間の発想を問題としていく。  ここに中世の人びとが、どれほど犯してきた罪に敏感であったかということが想像される。戦乱の世であれば、殺人に悩む武士の姿があった。また、農業や漁業や狩猟という第一次産業に携わってきた人びとには殺生(せっしょう)への罪悪感があった。
 現代人が遠く忘れてきた、ナイーブな感性がそこにはある。生きるということは、罪をつくることなしには成り立たない。しかし、現代人は罪に悩まなくなったと語るのは早計である。ひと知れず罪にもだえているひとは多い。罪に悩むということがあって、はじめてそこに「救い」が要求されてくるのだ。罪に悶絶(もんぜつ)する人間に照準を合わせて、罪を恐れるなと愛の言葉を『歎異抄』は発してくる。(武田定光)
『歎異抄』試訳 <第十四条> >> PDF版はこちら
原文
  一念に八十億劫(こう)の重罪(1)を滅めつすと信ずべしということ。
現代語訳
 「南無阿弥陀仏」と、ひと声(こえ)念仏することによって、八十億劫という果てしない時間に私が犯してきた罪を一気に消滅させることができる、と信じなさいということについて。
 この条は、十悪五逆(じゅうあくごぎゃく)の罪人、日ごろ念仏をもうさずして、命終(みょうじゅう)のとき、はじめて善知識(ぜんじしき)(2)のおしえにて、一念もうせば八十億劫のつみを減めつし、十念もうせば、十八十億劫(とはちじゅうおくこう)の重罪を滅めつして往生すといえり。
 平生(へいぜい)、念仏を称えることなくして臨終を迎えた十悪五逆の罪人が、生まれて初めてよき師の教えに遇(あ)い、ひと声称えれば八十億劫の罪を消し、十声称えれば十倍の八百億劫の重罪を消して浄土へ往生することができるというこの主張は、『観無量寿経』(下々品(げげぼん)の経文)を根拠とするものである。
 これは、十悪五逆(3)の軽重(きょうじゅう)をしらせんがために、一念十念といえるか、滅罪(めつざい)の利益(りやく)なり。いまだわれらが信ずるところにおよばず。
 これは、十悪・五逆の罪がどれほど重いかをわれわれに教えるために、一声・十声と表現しているのであろうか。これは、念仏が罪を消すという利益(りやく)を表している。しかし、いまだわれわれが信ずるところのものではない。
 そのゆえは、弥陀(みだ)の光明にてらされまいらするゆえに、一念発起(いちねんほっき)するとき、金剛(こんごう)の信心をたまわりぬれば、すでに定聚(じょうじゅ)のくらい(4)におさめしめたまいて、命終(みょうじゅう)すれば、もろもろの煩悩悪障(ぼんのうあくしょう)を転じて、無生忍(むしょうにん)(5)をさとらしめたまうなり。
 その理由は、阿弥陀の光に照らされて、本願によって生きようという心が湧(わ)き起こる。それは金剛のように堅い信心を獲得(ぎゃくとく)しているのであるから、すでに正定聚(しょうしょうじゅ)の次元に包摂(ほうせつ)され、命終したときには、さまざまな煩悩や悪業を転換して、無上菩提を開くことができるのである。
 この悲願ましまさずは、かかるあさましき罪人、いかでか生死(しょうじ)を解脱(げだつ)すべきとおもいて、一生のあいだもうすところの念仏は、みなことごとく、如来大悲(にょらいだいひ)の恩を報じ徳を謝すとおもうべきなり。
 この阿弥陀の悲願がなかったならば、私たちのように目先のことに翻弄(ほんろう)され、罪に無感覚である人間が、どのようにして迷いの眼を翻(ひるがえ)して、真実に目覚(めざ)めて生きることができようか。そのように受け止めれば、一生の間、称える念仏は、ひとつ残らず、如来大悲のご恩への感謝の表れであると思われてくるだろう。
 念仏もうさんごとに、つみをほろぼさんと信ぜば、すでに、われとつみをけして、往生せんとはげむにてこそそうろうなれ。もししからば、一生のあいだ、おもいとおもうこと、みな生死(しょうじ)のきずなにあらざることなければ、いのちつきんまで念仏退転(たいてん)せずして往生すべし。
 念仏を称えるたびごとに、自分の犯した罪を消そうと思うのは、自分の力で罪を消して、弥陀の浄土へ往生しようと努力することになるのである。もしそうであれば、一生の間の、ありとあらゆる思いは、すべて迷いの生活へつなぎ止める鎖となるから、いのちが終わるまで、念仏を称え続けてはじめて往生が可能であろう。
 ただし業報(ごうほう)(6)かぎりあることなれば、いかなる不思議のことにもあい、また病悩(びょうのう)苦痛(くつう)せめて、正念(しょうねん)(7)に住せずしておわらん。念仏もうすことかたし。そのあいだのつみは、いかがして滅(めつ)すべきや。つみきえざれば、往生はかなうべからざるか。
 ただし、人間の生存は、自由意志のままにならない限定性を生きるものであるから、どんな思いがけないことに遭あうかもわからず、身心の病の苦しみに責められ、臨終に心が乱されて、念仏を称えて終わることができないかもしれない。その間の罪は、どのようにして消すことができようか。罪が消えなければ、往生は不可能なのか。
 摂取不捨(せっしゅふしゃ)の願をたのみたてまつらば、いかなる不思議ありて、悪業をおかし、念仏もうさずしておわるとも、すみやかに往生をとぐべし。
 われわれを摂め取って捨てない弥陀の本願を信ずれば、どのような不慮のことにも遭い、罪業を犯し、たとえ念仏を称えずにいのちが終わろうとも、本願のはたらきで、直ちに往生を遂げることができるのである。
 また、念仏のもうされんも、ただいまさとりをひらかんずる期(ご)のちかづくにしたがいても、いよいよ弥陀(みだ)をたのみ、御恩を報じたてまつるにてこそそうらわめ。つみを滅(めつ)せんとおもわんは、自力のこころにして、臨終正念(りんじゅうしょうねん)といのるひとの本意なれば、他力の信心なきにてそうろうなり。
 また、いのちの終りに念仏が称えられたとしても、それは、いままさに浄土のさとりが開かれるときが近づいて、いよいよ弥陀の大悲を信じ、救われるご恩への感謝を表すことになるのである。念仏を称えて罪を消そうと考えるのは、自力の発想であり、臨終に心の乱れをなくして念仏しようとするひとの本音であるから、そのひとは他力の信心がないのである。
(原文は、東本願寺発行の『真宗聖典』を参照した)
語注
(1) 【八十億劫の重罪】人間がもっている罪の深さを教えるために、無限の時間の感覚で表現したもの。
(2) 【善知識】善親友(ぜんしんぬ)ともいう。仏道に教え導き入れるひと。「有縁(うえん)の知識(ちしき)」と同義。[〈序〉の語註(『親鸞仏教センター通信』創刊号)を参照]
(3) 【十悪五逆】『観無量寿経』には、「五逆十悪具諸不善(ぐしょふぜん)」(『真宗聖典』一二〇頁)とある。仏が説かれる、さまざまな因縁のなかで悪を犯してしか生きざるを得ない人間存在の姿。
(4) 【定聚のくらい】正定聚のこと。必ず仏となることを確信した位。
(5) 【無生忍】ここでは「無上菩提」と理解した。親鸞聖人の用法では、真の仏弟子の利益として無生忍を押さえておられる。したがって、「現生(げんしょう)正定聚」と同義語である。
(6) 【業報】[〈第七条〉の語註(【業報】『通信』第九号を参照)。]
(7) 【正念】】一般的には、八正しよう道どうのなかのひとつ。仏道に叶かなった正しい想念の意。ただし親鸞は、称名念仏を「正念」と理解している。
(訳・語註:親鸞仏教センター)
Backnember ページトップへ
公開講座 親鸞思想の解明 現代と親鸞の研究英訳『教行信証』研究会
清沢満之研究会 「三宝としてのサンガ論」研究会
「正信念仏偈」研究会源信『一乗要決』研究会聖典の試訳『尊号真像銘文』研究会
近現代『教行信証』研究検証プロジェクトインタビュー
濁浪清風今との出会い研究活動報告出版物紹介講座案内バックナンバー一覧
親鸞仏教センター
MAP
親鸞仏教センターTwitter親鸞仏教センターfacebook

親鸞仏教センター [真宗大谷派]<br>〒113-0034 東京都文京区湯島2-19-11
TEL 03-3814-4900 
FAX 03-3814-4901 
mail:shinran@higashihonganji.or.jp
 
掲載の記事・写真の無断転載を禁じます
Copyright©The Center for Shin Buddhist Studies. All rights reserved.
ホーム 親鸞仏教センター概要 講座のご案内 スタッフ紹介 バックナンバー一覧 リンク サイトマップ アクセス