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研究活動報告
聖典の試訳:『歎異抄』研究会
 第十三条は、「本願ぼこり」の人びとを批判している。「本願ぼこり」とは、悪事を犯したものをたすける本願があるのだから、意図的に悪事を犯そうとする人びとのことである。
 ところが、『歎異抄』著者の批判の焦点はそこにない。むしろ、「本願ぼこり」を批判している人びとにこそ焦点を当てている。「本願ぼこり」を「悪人」とし、「本願ぼこりを批判するひと」を「善人」と考えれば、「悪人」ではなく「善人」に批判の力点がある。これは私たちを戸惑わせる。なぜなら、私たちの発想が「善人」と同化していたことが炙あぶり出されたからである。「善人の毒」のほうが「悪人の毒」以上に深刻だ、と『歎異抄』の著者は見ている。悪人の毒は目立つが、善人の毒は目立たない。毒は常に「善」を装って浸食するからである。(武田定光)
『歎異抄』試訳 <第十三条> その2 >> PDF版はこちら
原文
 そのかみ邪見(じゃけん)におちたるひとあって、悪をつくりたるものを、たすけんという願にてましませばとて、わざとこのみて悪をつくりて、往生の業(ごう)とすべきよしをいいて、ようように、あしざまなることのきこえそうらいしとき、御消息(ごしょうそく)(1)に、「くすりあればとて、毒をこのむべからず」と、あそばされてそうろうは、かの邪執(じゃしゅう)をやめんがためなり。
現代語訳
 以前、親鸞聖人のおられたころ、間違った考えに陥ったひとがあって、「悪を犯したものを、たすけようという本願なのだから、意識的に、好んで悪を犯して、往生のための条件とするのだ」と言って、さまざまに悪いうわさが聞こえてきたとき、聖人がお手紙に「薬があるからといって、あえて毒を好んではならない」と、お書きになったわけは、その誤った考えを正すためである。
 まったく、悪は往生のさわりたるべしとにはあらず。「持戒持律(じかいじりつ)(2)にてのみ本願を信ずべくは、われらいかでか生死(しょうじ)(3)をはなるべきや」と。かかるあさましき身も、本願にあいたてまつりてこそ、げにほこられそうらえ。
 そう言ったからといって、悪事が往生の障害であるというわけではない。「もし、戒律をたもつことによってのみ、本願を信じられるのであれば、私たちは、どうして迷い苦しみの尽きない生活を離れることが可能であろうか」 とおっしゃった。このように愚かな身であっても、阿弥陀の本願に出で遇あうことができてこそ、ほんとうの自信と自尊心とを得ることができるのである。
 さればとて、身にそなえざらん悪業(あくごう)は、よもつくられそうらわじものを。
 そうであるからといって、身に悪事を犯す条件が備わらなければ、自分勝手に悪事などは犯せないものなのだ。
 また、「うみかわに、あみをひき、つりをして、世をわたるものも、野やまに、ししをかり、とりをとりて、いのちをつぐともがらも、あきないをもし、田畠(でんぱく)をつくりてすぐるひとも、ただおなじことなり」と。「さるべき業縁(ごうえん)のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」とこそ、聖人(しょうにん)はおおせそうらいしに、
 また、親鸞聖人は、「海川に網を引き、釣りなどの漁業をして暮らすものも、野山に鹿・猪・鳥を捕っていのちをつなぐものも、商いをしたり、田畠を耕たがやして生きるものも、まったく同じことである。このように自己のいのちの底深くからもよおしてくる条件が与えられるならば、どのような行為をもするものだ」と語られたのだ。
 当時は後世者(ごせしゃ)ぶりして、よからんものばかり念仏もうすべきように、あるいは道場にはりぶみをして、なむなむのことしたらんものをば、道場へいるべからず、なんどということ、ひとえに賢善精進(けんぜんしょうじん)の相をほかにしめして、うちには虚仮(こけ)をいだけるものか。願にほこりてつくらんつみも、宿業のもよおすゆえなり。
 このごろは、自分こそが真の念仏者だというような振る舞いをして、善人だけが念仏することができるかのように考え、例えば、念仏の道場に、禁止事項を書いた紙を貼り、「○○のことをしたものは、道場に入ってはならない」などということは、ただただ外見には真面目な念仏の行者を装って、内心には虚きよ偽ぎをいだいているものではないのか。たとえ、本願に甘えて犯した罪であっても、それは人間には知り得ないほど深い必然性の作用なのである。
 さればよきことも、あしきことも、業報(ごうほう)(4)にさしまかせて、ひとえに本願をたのみまいらすればこそ、他力にてはそうらえ。
 そうであれば、善いことも、悪いことも、思いを超えた必然性を受け入れて、ただただ、本願にすべてをまかせて立ち上がることこそが、他力の教えではないであろうか。
 『唯信抄(ゆいしんしょう)(5)』にも、「弥陀(みだ)いかばかりのちからましますとしりてか、罪業(ざいごう)の身なれば、すくわれがたしとおもうべき」とそうろうぞかし。本願にほこるこころのあらんにつけてこそ、他力をたのむ信心も決けつ定じようしぬべきことにてそうらえ。
 『唯信抄』にも、「私のように罪深い身が救われるはずがないと考えてしまうのは、阿弥陀の救済の力が、どの程度のものだと考えてのことだろうか」と言われている。阿弥陀の本願に甘えるこころがあってこそ、絶対他力にすべてをおまかせする信心も定まってくるのである。
 おおよそ、悪業煩悩(あくごうぼんのう)を断じつくしてのち、本願を信ぜんのみぞ、願にほこるおもいもなくてよかるべきに、煩悩(ぼんのう)を断じなば、すなわち仏になり、仏のためには、五劫思惟(ごこうしゆいの願)(6)、その詮せんなくやましまさん。
 そもそも、悪業や煩悩を完全に断ち切ってから、本願を信ずるということであれば、本願に甘えることもなくてよいのであろう。しかし、煩悩を断ち切ったならば、それは仏に成ったということであり、仏のためには、どのようにしても衆生を救いたいという無上の本願も無意味だということになるであろう。
 本願ぼこりといましめらるるひとびとも、煩悩不浄(ぼんのうふじょう)(7)、具足(ぐそく)せられてこそそうろうげなれ。それは願にほこらるるにあらずや。いかなる悪を、本願ぼこりという、いかなる悪か、ほこらぬにてそうろうべきぞや。かえりて、こころおさなきことか。
 「本願ぼこり」はよくないと批判している人びとも、実は煩悩を抱えておられることであろう。それはそのまま、本願に甘えているということではないのだろうか。どのような悪を、本願に甘える「本願ぼこり」というのか、またどのような悪が、本願に甘えないというのであろうか。本願ぼこりでは往生できないという主張は、実に幼稚な考えではないだろうか。
(原文は、東本願寺発行の『真宗聖典』を参照した)
語注
(1) 【御消息】『親鸞聖人御消息集』(広本)第一通(『真宗聖典』五六一頁参照)を指す。
(2) 【持戒持律】仏教徒の守るべき規範(戒と律)を保つこと。代表的な規範として五戒(生き物を殺さない・盗みをしない・嘘をつかない等)がある。
(3) 【生死】第十一条の語註(『通信』第十二号)を参照。
(4) 【業報】第七条の語註(『通信』第九号)を参照。
(5) 【『唯信抄』】聖覚(せいかく)(一一六七―一二三五)の著。法然門下であり、親鸞の兄弟子。親鸞は、この書を門弟に対してたびたび勧め、この書の注釈書として『唯信鈔文意(もんい)』を著している。
(6) 【五劫思惟の願】阿弥陀仏が菩薩としてはたらく姿を、法蔵菩薩という。法蔵菩薩は、五劫という永遠の時間をかけて、一切衆生を救う願いを発おこした。その願いのこと。これは『仏説無量寿経』に説かれている。
(7) 【煩悩不浄】煩悩と不浄は、同義語である。『教行信証』「真しん仏ぶつ土どの巻まき」には「心もし有う漏ろなるを名づけて不浄と曰いう」(『涅槃経』「徳王品」からの引用〈『真宗聖典』三〇七頁〉)とある。「有漏」は煩悩の異名。
(訳・語註:親鸞仏教センター)
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