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研究活動報告
聖典の試訳:『歎異抄』研究会
 『歎異抄』の意味世界へ入っていこうとすると、逆にこちら側が照り返されてくる。それは「逆照作用」といってもよい。例えば、「誓願(せいがん)不思議・名号(みょうごう)不思議」という言葉に出あうと、「不思議」が『歎異抄』の側に属しているように思えてしまう。しかし、その「不思議」は、「すでに、汝の存在にはたらいているのではないか?」と逆照されてくる。
 ひととして誕生することの不思議、国籍・民族・時代・性別などの限定性、自己の存在の原初に「不思議」があるではないかと。「不思議」という言葉を忌避(きひ)させるのは、理性である。理性は、認識・分析・統合という作用により、「不思議」を排除しようとする。その理性そのものが、『歎異抄』から逆照されてくるのである。そこに初めて、「不思議」を拝跪(はいき)し、受容する理性が成り立つように思える。(武田定光)
『歎異抄』試訳 <第十一条> >> PDF版はこちら
原文
 一文不通(いちもんふつう)(1)のともがらの念仏もうすにお(会)うて、「なんじは誓願不思議(せいがんふしぎ)を信じて念仏もうすか、また名号不思議を信ずるか」と、いいおどろかして、ふたつの不思議の子細をも分明(ふんみょう)にいいひらかずして、ひとのこころをまどわすこと、この条、かえすがえすもこころをとどめて、おもいわくべきことなり。
現代語訳
 学問・知識によらないで、ひたすら念仏を称えているひとたちに対して、「お前は、人間の思慮を超えた阿弥陀の本願を信じて念仏をしているのか? それとも、阿弥陀の名号(南無阿弥陀仏)の不思議なはたらきを信じて念仏しているのか?」と、相手をびっくりさせるような議論を吹っかけて、ふたつの不思議の本当の意味をはっきりと説くこともしないで、人びとのこころを惑わせるようなことは、くれぐれも熟慮し、注意して慎(つつ)しまねばならない。
 誓願(せいがん)の不思議によりて、たもちやすく、となえやすき名号を案じいだしたまいて、この名字をとなえんものを、むかえとらんと、御約束(おんやくそく)あることなれば、まず弥陀(みだ)の大悲大願の不思議にたすけられまいらせて、生死(しょうじ)(2)をいずべしと信じて、念仏のもうさるるも、如来(にょらい)の御はからいなりとおもえば、すこしもみずからのはからいまじわらざるがゆえに、本願に相応して、実報土(じっぽうど)に往生するなり。
 阿弥陀仏は、思慮を超えた本願のはたらきによって、いつでも思い起こすことができ、だれでも称えることのできる名号として、自らを現象世界へ表現し、この名号を称えるものを、浄土に迎えとろうと約束されていることである。そうであるから、まず阿弥陀仏の大悲のはたらきに無条件に包まれて、迷いの生活をひるがえすことができると信じて、南無阿弥陀仏と称えられるのも、阿弥陀如来の尊いはたらきだと頷(うなず)けば、まったく人間の努力意識が混(ま)ざらないのである。よって本願のおこころとひとつになって、阿弥陀如来の真実の世界に生まれることができるのである。
 これは誓願(せいがん)の不思議を、むねと信じたてまつれば、名号の不思議も具足して、誓願(せいがん)・名号の不思議ひとつにして、さらにことなることなきなり。
 これはつまり、思慮を超えた本願のはたらきを、もっとも肝要だとこころの底から受け止めたならば、すでに南無阿弥陀仏の不思議も備わっているのだから、誓願と名号の不思議はひとつであり、まったく異なることはないのである。
 つぎにみずからのはからいをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、往生のたすけ・さわり、二様(ふたよう)におもうは、誓願(せいがん)の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて、もうすところの念仏をも自行になすなり。このひとは、名号の不思議をも、また信ぜざるなり。
 次に、自分自身の思慮・分別(ふんべつ)をさしはさんで、善悪の行為について、これは往生のためのたすけとなる善い行為、これは往生のために妨げとなる悪い行為と、ふたつに分けて考えるのは、思慮を超えた本願のはたらきにすべてをまかせないで、自分のこころで往生のための善行をはげみ、南無阿弥陀仏を称えることも自己満足のための行為にしてしまうことである。このひとは、阿弥陀の名号の思慮・分別を超えたはたらきをも、また信じていないのである。
 信ぜざれども、辺地懈慢疑城胎宮(へんじけまんぎじょうたいぐう)(3)にも往生して、果遂(かすい)の願のゆえに、ついに報土(ほうど)に生ずるは、名号不思議のちからなり。これすなわち、誓願不思議(せいがんふしぎ)のゆえなれば、ただひとつなるべし。
 しかし、たとえ信じていなくとも、方便化土(ほうべんけど)(仮りの救い)に摂めとって、真実の浄土に必ず生まれさせずにはおかないという願いによって、究極的に真実の浄土に往(い)けるのは、阿弥陀の名号の不思議な力のはたらきなのである。これは、そのまま思慮を超えた阿弥陀の本願の不思議なはたらきであるから、誓願と名号とはまったくひとつなのである。
(原文は、東本願寺発行の『真宗聖典』を参照した)
語注
(1) 【一文不通】表面上の意味は、「文字ひとつ知らない」という意味であるが、親鸞が「愚(ぐ)」と自己表現するように、学問や知識を超えた真実に帰っていくという意味をも含んでいる。
(2) 【生死】サンスクリット語・サンサーラの訳語。仏教がとらえた迷妄的な人間のあり方。「流転(るてん)・輪廻(りんね)」と同義語。
(3) 【辺地懈慢疑城胎宮】方便化土の別名。浄土の救いにふれながら、それを自分が努力して得たと思う意識の閉鎖性を批判するための象徴的表現。辺地(広大無辺際(むへんざい)の浄土のなかにありつつも、閉じこもろうとする意識)・懈慢(自分の得た宗教的境界に腰をおろす意識)・疑城(浄土にありながら、仏智不思議を疑う意識)・胎宮(母胎のなかで、ぬくぬくと目覚めようとしないようなあり方)
(訳・語註・補注:センター)
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