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アンジャリ[Web版]
〈個〉から数へ、数から〈個〉へ――パンデミックの只中で

加藤 秀一
 感染症であれ戦争であれ、災厄がひとたび起こってしまったなら、われわれがとるべき次善の方策は、できるかぎり犠牲者の数を少なく抑え、なるべく早くそれを終わらせることである。この単純な指針はごく常識的で、容易に実行可能であるように見えるかもしれない。だが必ずしもそうではない。なぜならそこには、人間を「数字」として扱うことをめぐるディレンマが潜んでいるからである。

 かりそめにも近代人として、程度の差はあれ「個」という概念に特別な価値を見出すわれわれは、人間を「数字」として扱うことに対する嫌悪感をもつことがある。リルケは『マルテの手記』の冒頭近くの一節で、20世紀初頭の大病院における均質化された死のありさまを嘆き、次のように言う。「工場のような有り様だ。このように大量の死が生産される場所では、個々の死はそれほどうまく仕上がらない。(……)まだいくらかは独自の死というものが存在するかもしれないが、やがては独自の生と同じくらい、独自の死も珍しくなるだろう」(松永美穂訳)。それ以降、「独自の死」は増長するシステムによってますます簒奪され、オーダーメイドの死が、それゆえ生が、よりいっそう強いられるようになった。その息苦しさに抗うように、真島昌利が「俺は俺の死を死にたい」(THE BLUE HEARTS『STICK OUT』)と叫んだのは、リルケと同じ世紀の終わりがいよいよ迫りくる頃だった。

 今われわれを覆い尽くす感染症の猛威を前にして、感染症学者たちはさまざまな統計指標を縦横無尽に使いこなし、犠牲者の数を少しでも抑えようと奮闘している。その様子を遠巻きに眺めながら、「人間を単なる数字としてしか見ていない」といった非難の常套句を投げつける人たちもいるが、的外れと言うほかない。ただひたすら多数の人間の肉体に侵入することだけを活動原理とする病原体が敵である以上、それを迎え撃つわれわれもまた、相手のロジックに即して集団に定位する戦略を練らざるをえないからだ。そのように、生身の人間の独自性をいったんは捨象して「数字」に置き換えることが、むしろ「かけがえのない個」を守るためにこそ不可欠であるという逆説を、われわれは理解する必要がある。

 だが、こうしたことを十分に受け入れた上でもなお、人間を単なる「数字」とみなすことに対する反感は容易に消え去りはしない(少なくとも私においてはそうだ)。それはなぜだろうか。その問いに答えるには、そもそも「かけがえのない個」とはどういうことなのかをさらに深く問う必要があるだろう。

 「かけがえのない個」としての人間という概念は、素朴なかたちではおよそすべての人類社会に見出されるものにちがいないけれども、それを切迫した思想的課題として言語化してきたのは紛れもなく西洋の文化的伝統である。それは古代ギリシア語の「ヒュポスタシス」に淵源し、ラテン語の「ペルソナ」へと受け継がれ、キリスト教神学と中世スコラ哲学における命がけの論争を通じて鍛え上げられた果てに、近代人権思想の基盤をかたちづくるに至ったのである。その滔々たる流れに決定的な画期をなしたのは、12世紀のキリスト教神学者リカルドゥスが「ペルソナ」概念に与えた「神の本性の共通化不可能な存在(インコムニカビリス・エグジステンツィア)」という定義であった(以上の帰趨については、坂口ふみ『〈個〉の誕生』、八木雄二『神の三位一体が人権を生んだ』等を参照のこと)。ここではキリスト教に固有の「神」概念は括弧にくくり、「共通化(共有)不可能」という部分だけに注目しよう。それが指し示すのは、一人の個人が同時に他の個人であることはできないという、ある意味ではあまりにもありふれた事実である。たとえば、マララ・ユスフザイとグレタ・トゥーンベリは人間であるとか女性であるとかいった無数の普遍的性質を共有しているが、しかしそれぞれの個としての存在(実存)は決して共有されえない。そうでないなら、相異なる二つの名前など必要ないだろう。ある人物(ペルソナ)は、何らかの性質をもっているがゆえにその人物であるわけではない。その人物が、いったんこの世界の中に「個」として生まれたなら、それより後にいかなる性質を獲得し、また失おうとも、他の人々とは「共通化不可能」な存在でありつづけるのである。このように「ペルソナ」とは、なにゆえにそれが「個」であるかという条件を説明することのできない、ただ端的にそれとして指し示すしかない、そうした存在を肯定する概念なのである。

 私は、あなたは、他と「共通化不可能」な、言い換えるなら置き換え不可能な、唯一の「個」である。繰り返すならば、それはただそれだけのことにすぎない。だが、ただそれだけのことが今もなお、われわれの倫理を導く限界的な認識でありつづけていることの意味は決して小さくないだろう。人間を「数字」とみなすことにわれわれが感じる禍々しさの源泉もおそらくそこにある。ちょっと面白いのは、こうした意味での「個」のあり方を哲学用語では「数的同一性」と呼び、なんらかの属性によって対象の特質を表す「質的同一性」と対比することだ。人間を「数字」とみなすことへの反感の根底に「数的」と呼ばれる概念があることになる。これはパラドキシカルに思えるが、さしあたり次のように考えておきたい。数的同一性の概念に含まれる「数える」という所作は、一人、二人、三人……という加算的な数え方ではなく、各々の個人を、ここに一人、あそこにも一人……というように、それぞれを「一」として数えることを意味しているのである。この場合、複数の人間たちに同じ「一」という記号が充てられてはいるが、その数え方は集団思考を形成せず、むしろそれぞれの存在の一回性・唯一性を、すなわち置き換え不可能性を示す所作なのだ。

 さて、この地点から、人間を数字として扱うことへの違和感という冒頭の問題を見なおしてみよう。どうやら真のポイントは、個の独自性と集団(類、社会……)の普遍性とのあいだというよりも、むしろ個と個のあいだにあるのではないか。すなわち、置き換えることができないはずの個をあっさりと他の個に置き換えてしまう集団思考の危うさを感じつつ、だがそれにもかかわらず集団思考に身をゆだねざるを得ないという合理的判断も理解する、そうしたディレンマに、われわれは苛立ちを感じるのではないだろうか。

 より多くの人を助け、より少ない人を殺す第一の政策と、より少ない人を助け、より多くの人を殺す第二の政策があるとき、われわれは前者をよりマシな政策として選ばざるを得ないし、それは公正であるように思われる。というよりも、それ以外にはやりようがないのだ――「個人の運命など存在せず、ただペストという集団的な出来事」だけがあると、カミュ『ペスト』の主人公である医師リウーが記すような事態に直面させられたときには。それはまた、おそらく作者であるカミュ本人の思いそのものでもあっただろう。『ペスト』発表直後の講演には次のような発言がある。「われわれはおそらく、この世界が子供たちの苦しめられる世界であることを妨げることはできません。しかし、われわれは、苦しめられる子供の数を減らすことはできます」(森本和夫訳「無信仰者とキリスト教徒」)。紛れもなく、それがわれわれになしうる最善のことである。

 しかし、複数の対策によって救われる、あるいは殺される人々の人数ではなく、誰が救われ誰が殺されるのかという事実の水準に目をとめるなら、われわれは立ちすくまざるをえないだろう。第一の政策はAさんを救いBさんを殺す。第二の政策はAさんを殺しBさんを救う。このことが仮定されるなら、われわれは二つの「かけがえのない個」のどちらの生命を選ぶかという問いを突きつけられることになる。  

 たとえば、感染症を野放しにすれば多くの死者が出る。それを防ぐために、いわゆるソーシャル・ディスタンスの維持を徹底すれば、経済的・心理的に打撃を受ける人々の中から多くの死者が出る(自殺者や、貧困ゆえに医療にアクセスできない人が増える)。どちらをとっても必ず犠牲者は出るのだから、その数をできるだけ少なくするべきだ。だが両者において具体的に誰が救われ誰が死ぬかが異なるなら、それは、結果としてではあれ、誰が死ぬべきかを選ぶことでもある。医師リウーがペストに襲われる子どもの数を減らそうと苦闘するとき、かれは、どの子どもが救われるかをも同時に選ばざるを得ないかもしれない。「個人の運命など存在しない」という悲劇的な言葉が意味するのはそういうことだろう。もちろんリウーには、そして誰であれ、そのような選択を避けることはできない。われわれに言えるのは、それはわれわれにとって容易ではない選択であり、容易であってはならない選択であるということだけだ。

 もしかしたら――希望的に言えば――現実のディレンマはそれほど赤裸々なかたちで迫ってはこないかもしれない。スタックラー&バス『経済政策で人は死ぬか?――公衆衛生学から見た不況対策』(橘明美・臼井美子訳)が説得的に論証するように、災厄によって経済的苦境を強いられる人々に対しては国家財政から手厚い補償を行うことで、人々の生活をある程度守りつつ、感染の拡大を抑制することができる(それを実現するには、何よりもまず緊縮財政という呪いを解くことが必要だが)。集団思考と「かけがえのない個」は全面的に対立するわけではないのだ。だがそれによってディレンマが雲散霧消するわけでもない。いかなる政策にどれほどの財源が投入されようとも、それが有限である以上、選択は不可避なのだから。

(念のためにつけ加えておけば、「かけがえのない個」を尊重するとは、必ずしも殺すか殺さないかという問題ではない。むろん殺すこと一般は「個」なる他者の存在を否定することであるにはちがいないが、それでもなお、殺すことの中にも種別があるように思われる。人は、人を、相手がまさにその人であるがゆえに殺すということがありうるのではないだろうか。それは必ずしも人間を「数字」とみなすこととイコールではないだろう。それに対して、政治暴力としての大量虐殺は、まさに人間を単なる「数字」とみなすがゆえに殺すのである。そこでは犠牲者たちが、殺す側に課せられたのその日のノルマとして、あるいは勇ましい殺戮競争の目標値として、文字通り数字に置き換えられ、殺される。)

 ひとたび「かけがえのない個」という概念を精神が受け入れてしまったなら、「個」と「数字」(普遍)のあいだの根本的なディレンマを解決することは不可能であるように思われる。けれども、その無理をあくまでも追究する得体の知れない熱情が、十数世紀にわたる苦闘の果てに人権という驚くべき思想を結晶化させ、少なくとも、無残な現実を無残だと批判しうる手がかりを、われわれに与えてくれたのだ。今後もそれは幾度となく踏みにじられ、嘲笑されるにちがいない。だがそれでもなお、われわれは繰り返し「かけがえのない個」を発見しつづけるだろう。人間が、一人、また一人と数えられる存在であるという、この自明極まりない事実の不可思議さに気づき、驚きつづけるだろう。

 

(かとう しゅういち・明治学院大学社会学部教授)
著書に『ジェンダー入門――知らないと恥ずかしい』(朝日新聞社)、『〈個〉からはじまる生命論』(NHKブックス)など。

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