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情報誌 アンジャリ
「移行期的混乱」生きるということ

平川克美 hirakawa katsumi

●歴史的な人口減少
 「移行期的混乱」とは少々耳慣れない言葉かもしれない。誰も、これまでこのような言葉を使って現代の時代性というものを言いあらわすことをしてこなかったから、それも当然だろう。私は二〇一○年に、出版社からの要請に応えて、日本の現状分析に関する本を書き、そこに「移行期的混乱」というタイトルを付した。
 そもそも私は、「移行期的混乱」という言葉で何を言いたかったのか。それをひとことで言えるなら一冊の本を書く必要もなかったのであるが、本稿の読者のために、なるべく噛み砕いてご説明しておきたいと思う。そもそもの発端は、二〇〇六年をピークにして日本人の総人口が劇的に、しかも長期にわたって減少し始めたことについて、これをどのように考えるべきかというところにあった。この人口減少問題に関しては、政府もメディアも経済評論家も、これは由々しきことであり、その原因は「将来に対する不安」という圧力が社会に蔓延してきた結果であり、この「将来に対する不安」を取り除くための経済的、心理的、社会的な対策を早急にすすめるべきであると言っていたと思う。だから経済成長を再軌道に乗せなくてはならないと。実際、少子化対策として政府や自治体は子育て支援金の支給や、出産助成プログラムを立ち上げてきている。
 これらの少子化対策は、極めて短期的な時間スパンのなかではカンフル剤的な効果があるかもしれないが、歴史的な人口減少ということに関してはまったく何の効果も生まない、いやむしろ逆効果になる可能性が高いと私は考えている。その理由は同書のなかに詳しく述べたが、簡潔に言うなら、現在の総人口の減少は、将来に対する不安や経済の縮小による先行きの不透明感によってもたらされたのではなく、むしろ反対に社会の進歩の帰結として起きていると考えているからである。そもそも、人口が減少すると大変だから、経済を何とかしなければならないというのは、問いのたてかたが間違っている。人口減少は、「答」なのだ。
 経済成長し続けるためには、人口は一定の割合で増加しなければならない。それはそのとおりである。経済成長の指数であるGDP(国内総生産)とは、消費側から見れば国内総消費と、投資、政府支出および輸出入差額の総和であり、当然のことながら総人口による消費が大きなウエイトを占めている。しかし、経済成長するために、総人口を増やさなければならないというのは本末転倒の議論である。総人口の増減は、人工的に増やしたり減らしたりできるような単純なものではない。経済成長しなければならないというのは、希望ではあっても冷静で正確な認識とはいえない。いまのところ、向こう何十年にわたって人口が減り続けるという事実だけがわかっている。
 だから、少子化を食い止めなければならないという問いに先行すべきは、蓋然性の高い少子化にどう対応すべきかということであるはずなのである。
 なぜ、社会の進歩は、人口減少を伴うのか。民主主義が進展し、経済成長が進むと人口が減少するのかについては、さまざまな見解があるだろうが、それらが人口減少フェーズと密接な関連を有していることは、歴史人ロ学者のエマニュエル・トッドらが集めた統計が雄弁に語っている。エマニュエル・トッドは、民主主義の進展プロセスのなかで、女性の識字率が向上し、社会的な地位が上昇すると結婚年齢が上昇し、少子化傾向になると述べている。(ちなみに「移行期的混乱」という言葉は、トッドが民主主義が新しいフェーズに入るときに旧パラダイムと激しく衝突することを「移行期危機」と述べたことからの着想である。)このことの意味は、人口減少とは、多くの政治家、識者、文化人、産業人が言うように経済成長鈍化の原因であるというよりは、経済成長の結果であり、民主主義発展の歴史的帰結であるということである。日本は今、人口減少の危機にあるのではなく、増えすぎた人口規模を適正人ロへ戻す人口調整フェーズにあるということである。
 そして、この人口調整フェーズが落ち着くまでの数十年間のあいだ、右肩上がりの経済に牽引された社会の価値観や倫理が、現実に起きている社会基盤の移行のなかで大きく揺らぐことになる。私は、このことを「移行期的混乱」と呼んだのである。

●増殖する重貨幣主義
 『移行期的混乱』という本を書いている前後の数年、国際的にはリーマン・ショックとそれに続く世界同時不況があり、国内でもさまざまな企業不祥事が頻繁に起きていた。
 二〇〇〇年から二〇〇九年のわずか十年のあいだに、雪印集団食中毒事件、日本ハム牛肉偽装事件、三菱自動車リコール隠し、耐震強度偽装マンション販売事件、ライブドア証券取引法違反事件、村上ファンドインサイダー事件、コムスン介護報酬不正受給事件、不二家期限切れ原材料使用事件、ミートホープ食肉偽造事件、飛騨牛偽装事件、船場吉兆廃業などなど、目立った事件だけでも枚挙にいとまがない。
 企業不祥事は、これ以前にもあったが、これほど集中的に起きたことはなかったし、食品偽装や建築偽装といったものづくりの根幹が揺らぐというのもはじめてのことだろう。なぜ、こんなことがこの時期に限って頻発したのか。
 これについても、評論家、メディア、学者の見解は私を満足させるものではなかった。かれらは、コンプライアンスの意識の薄い悪徳経営者が跋扈(ばっこ)し、企業倫理が地に落ちた結果だと言っていたように思う。
 しかし、実際にテレビ画面に映し出されたこれらの企業の経営者たちの顔を見れば、そこにあるのは倫理観も、道徳意識もごく普通の経営者のそれであり、かれらも家に戻れば良き父親であったり、かれらを指弾するマスコミ人と同様の価値観をもった人間であるとしか思えなかった。世に、明らかに倫理を踏み外した極悪非道のものや、明らかに精神を病んだ犯罪者というものがいないとは言わないが、こと企業不祥事の経営者たちについてはそのどちらにも当てはまらないと考えるよりほかはなかったのである。
 つまり、これらの不祥事はひとりの倫理を踏み外した個人が行ったのではないということである。では、何がこれらの不祥事を引き起こした素因をつくったのか。
 それを説明するのは容易ではないが、あえて簡単に言うならばそれは、経済成長こそが人々を幸福にするのであり、お金こそがこの世の中の最も重要な価値であるという、ここ数十年間に世界中に流布した「物語」の結果だということである。この「物語」は、二〇〇〇年前後に世界を席巻する、所謂グローバリズムという新しい自由主義によって補完され、ほとんど最終的な形態、つまり重貨幣主義とでもいうべきものとして世界中に瀰漫(びまん)していったのである。そこでは、じつに夥(おびただ)しい数の「新しい」考え方や、価値観が動員されることになった。たとえばそれは、株主資本主義(会社は株主のものであるという考え方)であり、時価総額経営であり、金で買えないものはないといった価値観であり、富者がより富むことで貧しいものにもその雫がしたたり落ちてくるといった社会システムのアイデアであり、自己決定、自己責任、自己実現といった個人倫理であった。そして、この「物語」を完成させるエンジンは、合理的経営であり、コストの外部化であり、効率化というものである。
 多くの企業が、株価を上げることに腐心し、コストダウンに躍起になり、生産の現場には効率化一辺倒の号令が響き渡る。このことをどこまでも推し進めていけば、いや、これらの価値観が企業にとってのプライオリティであると信じる人々が一定数を超えれば、企業はいとも易々と禁じ手としてのコストダウン、つまりは不良在庫の再利用や、手抜きや、材料の偽装といったところに踏み込んでしまうのである。なぜなら、企業の目的は、利潤の最大化であり、株主主権のもとではそのことを推し進めることこそが経営者の目的であるからである。その目的に適った行動こそが経営者の倫理でもあるという考え方が、一般社会の倫理と倒立してしまうのだ。このことこそ共同体というものがもつ大きな特徴でもある。すなわち、共同体の内部の倫理は、外部のそれとはしばしば倒立して現れるものであり、そのことがまた共同体の結束を担保する。
 戦時中の日本陸軍の暴走も、オウム教団の凶行も、あるいはもっと一般的な大学の体育会も、その内部での価値観が如何に世の中の価値観と相容れなくとも、その内部においては正義であり、信憑(しんぴょう)の対象であったことなどはその好例だろう。
 しかしながら、ここにきて、夥しい企業不祥事を生み出す背景となった重貨幣主義、経済成長至上主義というものが、大きな危機に遭遇している。
 その最大の兆候こそが、日本におけるドラスティックかつ長期的な人口減少であり、それは同時に、私たちは、もはや経済成長至上主義や重貨幣主義とは異なった価値観を生み出すことなしにはやっていけないかもしれないということを示唆している。
 そして、まさにこの重貨幣主義の黄昏というべきときに、誰も考えもしなかったような出来事がこの日本列島を襲うことになったのである。

●三・一一以後
 その出来事とはもちろん、二〇一一年三月十一日の東日本大震災とそれに続く大津波、そして福島原子力発電所の事故である。
 震災も津波も、これまで日本は数多く経験してきた。歴史時間を長くとれば、それはほとんど定期的に訪れてきたといってもよいほどである。そして、その都度人々は家や財産や田畑を失い、途方に暮れながらもなんとか生き延びてきたのである。だから現在があるといってもよいだろう。自然災害と日本人はほとんどひとつの機縁で結ばれており、日本人の人生観のなかには、諸行無常が深く織り込まれている。
 この度のような百年に一度、あるいは千年に一度の大震災であったとしても、日本人はそれを宿命のように受けとめて、必ず再起するだろうことは想像に難くない。しかし、今回はそこにまったく新たなものが加えられてしまった。
 原発事故である。
 このことの意味をまだ誰も明確には把握できていない。いや、これから先もこの事故が何を意味するものかについては、明確な答を得ることはできないのかもしれない。
 たとえば、福島原発三号機で使用されていたMOX燃料には、プルトニウムが含まれているが、このプルトニウム二三九の半減期は、二万四千年であるという。いま生きている人間にとっては、二万四千年という数字はただの記号であって、それが何を意味するのかほとんど不明であり、実感することも想像することもできない。
 この想像の外にあるものを使って、現在の生活を担保するためのエネルギーを生み出すということをしているわけである。想像の外にあるものが、私たちの生活圏の地続きに存在している。(もともとは、自然界にもほとんど存在していなかったものだという。)
 私は、以前書いた『経済成長という病』(講談社、二〇〇九年)という本のなかで、地震についてこう書き記した。

地震は、当然のことながらそれ以前にも一定の周期で、日本各地に大きな被害をもたらしていた。だから将来のどこかで、必ずおおきな地震災害に見舞われるだろうという可能性については、誰もが考えていたはずである。問題はそれがいつ起こるかであって、起こるか起こらないかということではなかったはずである。

 関東大震災に関する記述であるが、今回の原発事故にいたるまでの、政府、電力会社、メディアが行ってきた原発推進キャンペーンを見ていると、まさに地震がいつ起こるかということではなく、起こるか起こらないかわからないことのためにコストをかけるのは経済合理性に反しており、結果として巨大地震などは起こらないし、起こったとしても原発だけは大きな被害を蒙(こうむ)ることはないという信憑にいきついたと考えるほかはない。思考停止である。ましてや、プルトニウムの二万四千年に関しては、ほとんど思考すらできないおとぎ話と考える他はなかったといえるだろう。
 私たちの想像力のなかに、二万四千年は存在していないのである。にもかかわらず、現実には生活のなかに二万四千年の間猛毒を発生させる物質を囲い込んでいる。この矛盾を解決するために、私たちは、しばしば手に負えないもの、想像力のおよばないものを、無いものとして思考の圏外に追いやってやり過ごそうとしてしまう。
 同じようなことは、二〇〇八年に起きたリーマン・ショックのときに、モラルハザードを起こしている金融機関でも大きすぎて潰せないといわれていたことを想起すればよい。手に負えないものは、なかったことにするということである。
 想像力の圏内、つまり自分たちの経験してきたことから大きく逸脱するような事態は、起こりえないと考えてもよいという考えかたが瀰漫したのは、経済合理性というものが極めて限定的な時間のなかでしか有効でないにもかかわらず、経済合理主義こそが世界の道理であると信じ込まされてしまったからだ。それでうまくいった経験を共有しているからだ。
 この経験が、私たちの思考にバイアスを与える。生きてきた時間のなかで起こらなかったことは、これから先も起こることはないと考えてしまう。私たちの生活を一変させてしまうような事件や、事故や、天災に関しては、起こらないであろうと。しかし、それは単なる希望であって、正しい認識ではない。
 「移行期的混乱」の時代を生きるとは、これまで思考停止してきた、起こりえないことが次々と起こる可能性のただなかを生きているということにほかならない。日本における有史以来の人口減少が示唆しているのは、私たちの作り上げてきたシステムの賞味期限が尽きてきたということであり、この経済成長至上主義を点検して、新たな生き方を模索せよということでもある。だが、まだ誰もこのことを切実な問題として考えてはいない。


 

(ひらかわかつみ・株式会社リナックスカフェ代表取締役)
著書に『移行期的混乱―経済成長神話の終わり』筑摩書房

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