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濁浪清風
悲しみを秘めた讃嘆(12)
   我らの現実の生存において、宗教的実存を求めてこれを成就するとは、どういうことであろうか。本願の仏教では、阿弥陀如来の本願を信じ、自己の有限なる生存をそのままにして(煩悩具足と信知して)「浄土」に往生し、阿弥陀如来の苦悩の衆生を摂取せんとする志願に随順して衆生済度の志願を輔翼することである、と教えられている。この願心に随順することによって、阿弥陀如来と平等なる仏陀(諸仏)になる、と願われているのである。

  その願心の表現には、様々な内容が取り上げられてくる。親鸞正依の魏訳『無量寿経』では、四十八願として展開された願が教えの基本になっている。その本願の因果を深く信じて、その因果に随順する身となることが、我ら凡夫における「宗教的実存」であるということになる。

  この因果を自己に受け止めるということは、我らの現実の生存にとって、言葉で説明するほど容易なことではない。我らは迷える苦悩の生存を、間違いなく自己の現実であると疑うことなく生きているからである。自己におけるこの生存理解を、自己の永い迷いの「宿業」の歴史であると信知することが、本願の仏道を信知するためには、絶対に必要な条件なのである。

  この信知を善導は深心釈において、「決定して深く、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」と信ず」(『観経疏』、東本願寺出版『真宗聖典』〔以下、聖典〕、215頁)と表現している。このいわゆる機の深信と、阿弥陀の本願の真実が我らに向けられているという法の深信とが、同時交互に成り立つとされているのである。この願心は、我らの迷妄の歴史がいかに永く深かろうとも、必ず我らの迷妄の意識を転じて願心の信知へと勧め入らしめる、とされるのである。

   この本願と我らの意識との関係は、横と竪という空間的表現によって教示されている。我らの自力の意識のあり方を「竪」、本願の作用を「横」として、この苦悩の生存を突破するについて、二つの方向があると教示されているのである。

  『無量寿経』に「横截五悪趣」(聖典、57頁)という語があり、善導が「横超断四流」(聖典、146頁)と語ることを手がかりに、親鸞は「即横超截五悪趣」(「正信偈」、聖典、205頁)と言われる。この直前に置かれてあるのは、「獲信見敬大慶喜」(同上)という偈文である。明らかにこれは、他力回向の信心において、「迷妄の生存」(六道流転の生死)を「超截」できることを宣言しているのであろう。

  このような「信」こそ、まさに「宗教的実存」と呼ばれるべき事柄だと言うことである。この「断截」は、空間的な表現によるなら、横と竪の立体的な人生観というべきかと思う。竪なるこの世への自己の立て方に足場を置きながら、横からその立場を「截断して」来る風に目を覚まされていく、とでも言うべきか。あるいは、一方の足を現世におきながら、もう一方の足は彼土とされる願心の国土に置くとでも言うべきか。(続) (2022年6月)

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