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濁浪清風
横超の大誓願(6)

  「横超」とは、大悲の如来と煩悩具足の凡夫との出遇(あ)いが、超越的に起こることであると述べた。この事柄について、有限なる我ら凡夫の分位と大悲なる如来の位とを、有限と無限という言葉で考察してみよう。言うまでもなく、これは清沢満之が取った方法である。清沢は、「無限」の概念内容として、仏教用語の「涅槃(ねはん)、真如、一如、法性(ほっしょう)、法性法身(ほっしん)」などの無為法や、さらには「阿弥陀如来、方便法身」などを含めて考察している。そして、阿弥陀如来の名号(みょうごう)は、無限が有限に形を表した「展現(てんげん)有限」であると表現している。

  そして、有限と無限の関係については、無限から有限に対しては、一切の有限は無限の中にあるし、有限からは無限は有限の外にあると言うしかない、と押さえられた。ここに、絶対の矛盾、根本撞着(どうちゃく)があるということになる。この有限にとって無限は有限の外にあるということは、伝承された浄土教的言語で言うなら、罪悪生死の凡夫にとって菩提や涅槃はほど遠いということになる。これが、先回問題になった、煩悩の自己にとって、親鸞の論理が現生の事実としてうなずけない、それで浄土往生とか大涅槃の功徳は死後のことだということにせざるを得ないというのであろう。

  親鸞は、この絶対の矛盾は、凡夫の側から(すなわち有限から)克服することはできないことを見極めた。そのうえで、無限が自己の内なる有限を見出(いだ)して、その有限に対し、包括している無限を知らしめようとしたのが、法蔵願心の大悲の物語なのだと領解した。仏説には、「光明遍照十方世界」(『観無量寿経』)とあり、これは無限が有限の一切を自己の智慧、すなわち光明に摂(おさ)め取っていることを表している。そしてこの文に続く「念仏衆生摂取不捨」は、有限が無限の光明を見出すなら(すなわち念仏するならば)摂取されている事実を知ることを示している。それが「念仏の衆生をみそなわし 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」(聖典486頁)と和讃に言われていることなのである。

  この「遍照」(あまねく摂めとって捨てない心)は無限それ自体が「常照」でもあって、空間的にも時間的にも、いつでもどこでも無限ならざるはない、つまり本願(第十二・十三願)に光明・寿命の無限なることを誓うのはそのことに他ならない。その無限が、有限に限りなく働きかけて、有限に自己の限界を知らしめ、しかも無限に摂取されていることを自覚させることも、無限の側からのはたらきかけである(他力回向)としたのが、親鸞の本願および願成就文の領解なのである。(続) (2018年11月)

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