親鸞仏教センター
お問い合わせ
 
「現代を生きる人々」と対話するために
HOME親鸞仏教センター概要アクセスサイトマップ
濁浪清風今との出会い研究活動報告出版物紹介講座案内研究員一覧
 HOME > 濁浪清風
濁浪清風
悲しみを秘めた讃嘆(9)
   大乗菩薩道として求められた仏教は、『華厳経』を生み出し、限りなく求道していく菩薩たちの物語となっている。求道の完成を求めながら、完成することのない求道の展開なのである。これは換言すれば、成仏した諸仏が仏果に止まらずに、菩薩に位を降りて衆生済度の行を実践するという求道の方向の大転換の物語にもなる。

  たとえ自利の道であっても、自己の内に煩悩の在処を掘り下げていけば、意識の根に末那識相応の自我に関係する煩悩、我痴・我見・我慢・我愛というような、深層意識に潜む煩悩が見いだされてくるのである。

  まして、利他の方向になるなら、他が無限に広がるから、個人的な求道心などで対処できる話ではなくなる。こういうことから、大乗(一切衆生を対象にして救いを与えようとする立場)を標榜するなら、物語か神話を要求せざるを得ないことになろうと思う。衆生を済度する物語が生まれてくるならば、求道心自身の限界の自覚が起こって、しかし諦められない深い願心が動いたのに相違あるまいと拝察するのである。

  法蔵菩薩の物語が、かくも仏道の歴史に大きな影響を与えたのには、何かこのような「悲願」と言わざるを得ないものがあったのであろうと思う。そういう物語を本願の展開として言語世界に定着させるとき、願と現実の苦悩との角逐が、次々に新たな願心とならざるを得ない。そのとき、その中心に失うことができない支柱となる願が立ち上がってくる。それが、悲願が名を求め、願に答える名号が一如宝海から立ち上がった、というイメージなのであろう。

   諸仏と阿弥陀とは、果位の仏智は平等であるとされる。しかし、因位の求道過程が各々異なるところに、諸仏の名の異なる所以があると言われる。その諸仏と阿弥陀の関係は、仏と仏とが相い念ずるという「仏々相念」があるのみでなく、諸仏が阿弥陀を讃嘆せずにはいられないとされている。それは阿弥陀における平等の仏果を誉めるのではなく、因位のご苦労を忍ぶのであろう。その因位とは、衆生救済の願心の甚深広大なることである。

  そこに親鸞が、『涅槃経』の阿闍世救済の物語と、『観無量寿経』の韋提希の苦悩とを重ね合わせて、「逆謗闡提(せんだい)を恵まんと欲す」と押さえる意味があろうと思う。広大無辺という空間的表現が、量的な大きさではなく質的な深みとしていただかれる時、現に受けている我が身がたとえ滅び尽くしても消えることのない罪悪深重性が、大悲の阿弥陀の光明によって、「汝を救わずには自分は仏にならない」と誓う願心に摂取されるのである。(続) (2022年3月)

最近の『濁浪清風』一覧
Backnember ページトップへ
濁浪清風今との出会いブックレビュー
研究活動報告出版物紹介講座案内バックナンバー一覧
親鸞仏教センター
MAP
親鸞仏教センターTwitter親鸞仏教センターfacebook

親鸞仏教センター [真宗大谷派]<br>〒113-0034 東京都文京区湯島2-19-11
TEL 03-3814-4900 
FAX 03-3814-4901 
mail:shinran@higashihonganji.or.jp
 
掲載の記事・写真の無断転載を禁じます
Copyright©The Center for Shin Buddhist Studies. All rights reserved.
ホーム 親鸞仏教センター概要 講座のご案内 スタッフ紹介 バックナンバー一覧 リンク サイトマップ アクセス